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2016年07月04日

根岸美術工芸家の三奇人

読売新聞1901(明治34)年4月15日と16日の朝刊より
▲茶ばなし
◎根岸に美術的工芸家の三奇人が居る。一人は堆朱楊成と云って堆朱細工(注:中国漆器を代表する技法である彫漆<ちょうしつ>の一種である。彫漆とは、素地の表面に漆を塗り重ねて層を作り、文様をレリーフ状に表す技法を指すが、日本では表面が朱であるものを「堆朱」、黒であるものを「堆黒」と呼ぶ)の名人。苗字さえ堆朱というくらいだからいづれ来歴のある家であろうが、技術にかけてはなかなか巧いそうである。
◎次は豊川揚渓と云って、螺鈿すなわち貝摺細工に名の高い男である。見たところでは真につまらない老爺(じじい)のようであるが、腕は立派なもので、一枚の櫛で百金くらいの価ある品物をこしらえるそうだ。
◎ある人が細い筆の軸へ漢隷(注:隷書の一種)で、七言二句を嵌れさせたが、精巧緻密、ただ感心の外はない。そのくせ極の無学で、筆を持たせては羊角菜(ヒジキ)を喰いこぼしたような字を書くが、細工にかかるとどんな字体でも原形(もと)ままチャンと仕上げる。
◎日本橋あたりの大問屋から、櫛笄(くしこうがい)などの注文でずいぶん忙しいが、そんなものは時の流行(はやり)があって、永代伝わらないで、せっかくの名手も後には世間に伝わらずに廃れてしまう。それよりか文房具のようなもので、十分の腕をふるったがよかろうと、忠告したことがあるが、ただヘイヘイと頭を下げてばかりいる。
◎細工に取りかかっている時、他人(ひと)が来ると風呂敷のようなものをちょいと載せて、肝心なところを隠してしまうが、なんでも貝を断(き)るのに秘伝があるらしい。
◎明治の世になってから、機械的工芸は追々盛んになるが、こういう手先の仕事になるとどうも名人が少なくなるようである。もっともどんな良い品をこしらえたからと云って、手先では一日に何ほどの仕事もできるものではない。それよりか機械責でやってしまったほうが早手廻しだから、誰も根気よくまだるいことを稽古するものがなくなったのであろう。
◎しかし何とか保護の方法を設けて、こういう美術的工芸は一代限りで断絶しないようにしたいものである。
◎次に紹介しようと思うのは髹漆師(きゅうしつし:漆を塗る職人)の青山周平、号を碧山と云って漢学もかなりに出来て今日の世に珍しい気骨にある男だ。いま入谷に住んでいる。
◎元は越後の人で、楠本正隆(注:肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心。東京府知事)君が東京に呼び寄せたという話であるが、髹漆師としてはなかなかのものだという評判。
◎町田久成(注:旧薩摩藩士。東京国立博物館の初代館長)君が世盛りの頃、いくばくかの手当をしていたそうだが、当年取って62歳。茶筅髷を頭に載せて、見たところからしてよほど風変わりな男である。
◎この男が閻浮提金(えんぶだこん:閻浮樹<えんぶじゅ>の森を流れる川の底からとれるという砂金。赤黄色の良質の金という)の観音様を持っている。丈三寸ばかりの立像でその来歴というのが大変なものだ。
◎この観音様について面白い話がある。(第1回 おわり)

◎(つづき)この碧山というのは書画骨董の鑑定(めきき)が出来るので、時々市中をふらついて、掘り出しものをえることがある。ある日つまらない骨董商から、僅かな対価で買い入れたのが、前に話した観音様である。この観音様は元大和某寺の宝物(?)であったものということ。
◎しかし初めはまさかそんなものとは思わなかったが、いずれ来歴のありそうなものと鑑定(めきき)していた。
◎彫刻師の鉄斎というがこのことを聞きこんで、行ってみると全く元大和某寺にあったらしいので、どうかこっちへ捲きあげようと思って、それとなく相当の代価で譲り渡してくれと交渉してところが、なかなか手離す気色(けしき)がない。その後も様々に手を変えて掛け合って見たが、到底望みを達することはできなかった。
◎碧山はますますこの観音を大切にして朝夕礼拝することになった。どこかで似つかわしい厨子(注:二枚とびらの開き戸がついた物入れ)を買ってきて、観音様を安置したが、この話が好事者仲間へ知れると、どうかご秘蔵の観音を見せてくださいと云って行く人がある。ところが見せない。
◎私の家には拝ませる観音様はあるが、見せる観音様はないといって腹を立てる。それではどうか拝ませてくださいと頼めば、よろしい体をお清めなさいと、自分も一緒に手を洗い口を漱いで、香を焚きながら、例の厨子を床の間へ安置して、恭しく普門品第二十五(ふもんぼん:法華経の観世音菩薩普門品第二十五。観音経。観世音菩薩が、私たちが人生で遭遇するあらゆる苦難に際し、観世音菩薩の偉大なる慈 悲の力を信じ、その名前を唱えれば、必ずや観音がその音を聞いて救ってくれると説く)を読誦(どくじゅ)(注:声を出してお経を読むこと)したうえ、さあご礼拝といって厨子を開ける。
◎そのくせ自分は非常に生活に窮している。屋根は壊れて雨が漏るというより降るというくらい。流し元は腐って夏はやすでの倶楽部になっている。着物は垢と漆で縞も地も分からないようであるが、一向平気なものでどんな注文があってもオイソレとはこしらえない。
◎職人とはいいながら見識が高くて、注文に来た人をどんな者でも一度は断る。その断り方が面白い。そのような品は坊間(まち)でいくらも売っていますから、そこでお求めになったほうがよいでしょう。私などに特別に誂えてこしらえたところが、工手間(くでま:職人などが物を製作する手数。また、その工賃)がかかるばかりでろくな物はできませんからという調子である。
◎その時こっちがたってと懇願すると渋々ながら納得するが、気に向かない時は決して仕事にかからないから日限(にちげん)は分かりませんと前もって断わっておく。その代わりに気に向くと注文以外な細工をして。客にびっくりさせることがある。
◎例の観音様もある人が若干金で売れと云ったが、たとえ幾万円でも金には代えられないと云って、明日の生活(くらし)に困るのも頓着しないでいる。
◎それから、も一つ奇妙なのはこの男が仙術を修めていることである。仙術というと可笑しいがいわゆる吸気道引(注:導引術か。呼吸法と体の動きを組み合わせてツボを刺激し、全身の気の流れを活発にしようとする健康法)の法で、平たくいえば自分按摩だ。朝早く起きて人のいないところに行って、頬を膨らましたりつぼめたり、肩をたたいたり、胸をたたいたり、さまざまな真似をする。蒙求(もうぎゅう:8世紀に唐の李瀚(りかん)が編纂した初学者用の故事集。「蛍雪(けいせつ)の功」や「漱石枕流(そうせきちんりゅう)」などの故事はいずれもここが出典)にある華佗五禽の戯れ(かだごきん:後漢末に華佗という名医が「五禽の戯れ」という動物の動きを真似た健康法を編み出した)のようなものである。
◎これは藤沢の白隠禅師(注:1686-1769 臨済宗中興の祖)の遺法だというが、華山(かざん:中国内陸部にある険しい山。道教の修道院があり、中国五名山の一つ。西岳。 西遊記で孫悟空が閉じ込められていた山)の道士陳摶(ちんたん:872-989。五代十国から北宋にかけての道士)の仙術もこんなものであったろうと思う。早くいえば支那流の体操である。
◎また心越禅師(しんえつ:1639−1695 明の僧。曹洞宗。明がほろびたあと、1677年長崎興福寺の明僧澄一道亮(ちんいどうりょう)にまねかれて来日。のち徳川光圀にむかえられて水戸天徳寺(のちの祇園(ぎおん)寺)の開山(かいさん)となる。詩文,書画,七弦琴にすぐれた)の琴法と伝えて、七弦琴を巧みに弾じる。禅師が琴法の秘訣を伝えているのはこの男の外にないという事であるが僕のような素人には分からない(卯太郎)
posted by むねやん at 00:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 根岸人物誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月14日

根岸人物誌 巻之二(人物之部 五十音順 鶯谷 日暮里 金杉)登場人物145名

登場順 ページ 名 読み方 生没年 職 備考 地番
1 4 高橋應眞 たかはし おうしん 1855-1896 日本画家 柴田是眞門下の四天王の1人 弟に画家 高橋(金子)玉淵
2 5 高橋翠岳(應眞) たかはし  1855-1896 日本画家 2−1應眞と同一人物(別号) 金杉村436
3 6 高橋由一 たかはし ゆいち 1828-1894 洋画家 日本初の洋画家。代表作「鮭」。ワーグマンに師事。浜町1丁目に天絵学舎という洋風画学校を設立。
4 7 高畠藍泉 たかばたけ らんせん 1838-1885 ジャーナリスト、作家 東京絵入新聞の記者
5 8 高久隆古 たかく りゅうこ 1810-1858 画家。復古大和絵派 谷文晁の高弟・高久靄高フ後嗣 大塚(道無横町)
6 10 高松凌雲 たかまつ りょううん 1837-1916 医師 赤十字運動の先駆け。同愛社。次男の静氏が病院を継ぐ。 鶯谷
7 11 高松屋喜済 たかまつや 1781-1855 植木屋? 一行寺楓 大塚
8 12 高森碎巌 たかもり さいがん 1847-1917 日本画家 漢学塾を根岸に開く
9 13 寶田通文 たからだ みちぶみ 1817-1896 国学者 第11代輪王寺宮公紹法親王の皇漢学・歌道の師範
10 14 田口柳所 たぐち りゅうしょ 1839-1892 詩人
11 15 竹内正志 たけのうち まさし 1854-1920 ジャーナリスト,政治家 中道
12 16 竹柴其水 たけしば  きすい 1847-1923 歌舞伎作者 12代目守田勘弥宅に寄宿。そののち河竹黙阿弥に入門し,新富座明治座の立作者
13 17 竹本 瓢 たけもと 女義太夫 金杉147
14 18 竹本美弥太夫 たけもと みやたゆう 義太夫 上根岸、御下屋敷
15 18 竹本祖太夫 たけもと そたゆう 義太夫 中根岸(根岸小学校跡地)
16 19 田崎翠雲 たざき 画家、占易 田崎草雲(南画家)の父
17 20 多田親愛 ただ しんあい 1840-1905 書家(仮名) 根岸庚申塚料理屋鴬春亭跡
18 21 多田三弥 ただ みつや -1922 算術師 村の子供たちに算術を教える(大正11年3月の追記) 音無川畔御咒横町
19 22 多田令子 ただ れいこ 書家 多田親愛の娘、高等女子師範学校教授
20 23 立松山城 たてまつ 1833-1915 風呂釜鋳造家 山城家第十世。久田流茶道に通じる 中根岸59
21 24 玉置環斎 たまき かんさい 1829-1912 書家、書画鑑定家 元三嶋祠前
22 25 玉屋しづ浪 たまや しづなみ 吉原芸者 五町第一の美人
23 26 太郎右衛門 たろううえもん 農夫 宮川政運(代表作『俗事百工起源』)の随筆「宮川舎漫筆」の登場人物
24 27 虫遊庵草中 ちゅうゆうあん ? 劇中の人物か?(寛永7年版 評判千草声序)
25 28 千歳米坡 ちとせ べいは 1855-1918 女優 日本の女優第一号 上根岸町鴬横町
26 29 長者園萩雄 ちょうじゃえん はぎお 1784-1873 狂歌師 蜀山人と交流あり 御行の松辺り
27 30 土屋氷川 つちや 連歌師 佐渡の連歌師 土屋永輔(1755〜1819)の養子とか
28 31 堤 等琳 つつみ とうりん 町絵師 三代目。初め秋月、後に雪山、深川斎と号す。葛飾北斎と交流あり
29 32 鶴岡蘆水 つるおか ろすい 浮世絵師 天明〜文政の人 代表作『東都隅田川両岸一覧』
30 33 寺井謙斎 てらい 儒学者 天保期の人
31 35 寺門静軒 てらかど せいけん 1796-1868 儒学者 西蔵院北隣、根岸武香氏の家
32 36 寺崎廣業 てらさき こうぎょう 1866-1919 日本画家 天心派、後に美校に復す 鶯谷
33 38 東條琴台 とうじょう きんだい 1795-1878 儒学者 亀田鵬斎の門人。高田藩主榊原候に仕える。亀戸天満宮の祠官
34 39 鳥羽屋里長 とばや りちょう 1883-1944 長唄豊後節三味線方 五代目。七代目富本豊前太夫の兄 鶯谷
35 40 富岡永洗 とみおか えいせん 1864-1905 浮世絵師、日本画家 『都新聞』『風俗画報』の挿絵 中根岸
36 41 富本豊前太夫 とみもと ぶぜんだゆう 1890-? 富本節の太夫 七代目。五代目鳥羽屋里長の弟 鴬谷
37 42 豊澤團雀 とよざわ 女浄瑠璃師 上根岸
38 43 鳥山石燕 とりやま せきえん 1712-1788 浮世絵師 代表作『画図百鬼夜行』
39 44 永井岩之丞 ながい いわのじょう 1845-1907 幕臣、明治期の大審院判事 五稜郭にたてこもる
40 45 中井梅成 なかい うめなり 1802-1884 歌人 勝海舟、浅田宗伯、大槻磐渓と親しい 元三嶋祠前
41 46 長岡護美 ながおか もりよし 1842-1906 外交官・華族(子爵)・貴族院議員 熊本藩主細川護久の弟。 下根岸亀田鵬斎旧宅
42 48 中川一匠 なかがわ いっしょう 1828-1876 鍔工 後藤一乗門人。別名一勝
43 49 永倉雪湖 ながくら 1848- 美術関係? 著書に東台戦記 庚申塚、鶯谷、上根岸88元三嶋神社畔
44 50 長崎昌斎 ながさき 医者 天保期の人。 三嶋祠前
45 51 永田養神斎 ながた ようしんさい 1857- 占い師 奇門遁甲 中根岸
46 52 中根香亭 なかね こうてい 1839-1913 漢学者、随筆家 旧幕臣。出版社金港堂の総支配人兼編輯長 御隠殿道太田工左衛門のところ
47 54 中村歌六 なかむら かろく 1849–1919 歌舞伎役者 三代目。 中通、下根岸町吉右衛門宅
48 55 中村梅寿 なかむら 日本舞踊 明治の人 上根岸岩崎西洋洗濯店の所
49 56 中村福江 なかむら ふくえ 日本舞踊 明治の人 上根岸薬師堂筋向
50 56 中村芝玉 なかむら 日本舞踊 明治〜大正の人 鶯谷桜木町
51 56 半酔散人 ながら すいさんじん ? 天保期の人。『風俗七遊談』の著者
52 57 成瀬大域 なるせ たいいき 1827-1902 書家
53 58 新岡旭宇 にいおか きょくう 1834-1904 書家 永倉雪湖、成瀬大域とともに根岸三天狗と称される 中根岸51(旧金杉村311)
54 59 錦織剛清 にしごり たけきよ 1855-1920 士族(旧相馬中村藩士) 相馬事件関係者。後藤新平と親しい。大正9年没。長男嗣男(11歳)、次男三郎(9歳) 谷中本、日暮里金杉
55 60 西谷観空 にしたに かんくう 易学者 天保期の人
56 61 根岸山人 ねぎし 画工 式亭三馬「傾城買談客物語」の挿絵。寛政期の人
57 62 根岸法師 ねぎし ほうし 狂歌師 天明期の人
58 63 根土宗静 ねづち そうせい 茶人 松江藩七代藩主松平不昧に仕える 大塚
59 64 野田九浦 のだ きゅうほ 1879-1971 日本画家 寺崎広業の門人。白馬会
60 65 野田敬明 のだ たかあき 1759-1825 金工 中村
61 66 野田秋岳 のだ 函館税関長 野田鷹雄。儒学者野田笛浦(のだてきほ)の子。 金杉村59
62 67 野々山緱山 ののやま こうざん 1780-1848 画家 狩野美信の門人。法眼の位をうけ,浅草寺の襖に四天王像を描く
63 68 萩原乙彦 はぎわら おとひこ 1826-1886 俳人,戯作者 明治2年俳句雑誌「俳諧新聞誌」を創刊した。13年静岡新聞社長
64 70 萩原西疇 はぎわら せいちゅう 1829-1898 儒学者
65 71 原 道 はら 1846-1881 教師 萩原西疇の門人。字は大路。通称通太郎。岐阜師範学校長、柏崎出身
66 72 萩原秋巌 はぎわら しゅうがん 1803-1877 書家 巻菱湖の高弟 魚商魚長向角一円
67 73 白峨 はくが 医者 江戸後期〜明治の人。北宗画を描く
68 74 畠山梅園 はたけやま ばいえん 1770−1842 国学者 別名 畠山常操。一橋家の頭役。娘の俊子も和歌を詠ずる 金杉村
69 75 服部誠之助 はっとり せいのすけ ?-1916 書家 波山の息子
70 76 服部波山 はっとり はざん 1827−1894 画家(文人画) 大沼枕山,中根半嶺らと交遊 金杉267(日暮里村金物倉の隣門構)
71 77 花井卓蔵 はない たくぞう 1868-1931 弁護士、政治家 足尾鉱毒事件は弾圧された農民を、大逆事件では幸徳秋水らを弁護。日暮里村議員(大正11年6月の記載)
72 78 濱野矩随 はまの のりゆき 1771−1852 装剣金工 二代目。落語の「浜野矩随」のモデル。老年になり一本橋向かい酒屋の裏に花月庵という草庵を結び俳諧三昧に 日暮里村一本橋向酒屋の裏
73 79 濱野矩蕃 はまの のりしげ 装剣金工 矩随の子。十五郎と称す。後に忠五郎と改める(初代矩随の通称) 根岸初音の里
74 80 原 徳斎 はら とくさい 1800-1870 儒学者 志賀理斎の子。原念斎の養子。2代目柳川重信と兄弟 谷中芋坂下
75 81 原 羊遊斎 はら ようゆうさい 1769-1846 蒔絵師 酒井抱一との関わり。琳派 酒井抱一邸隣家
76 82 坂東秀調 ばんどう しゅうちょう 1880–1935 歌舞伎役者 三代目。女形。九代目市川團十郎の門人となったのち二代目の婿養子に。十代目坂東三津五郎の祖父。 中根岸73、上根岸旧横山某の邸宅(庭園広大、樹木繁茂幽遠の地)
77 83 坂東彦三郎 ばんどう ひこさぶろう 1886–1938 歌舞伎役者 六代目。五代目尾上菊五郎の三男。 上根岸坂東秀調の跡に移住
78 83 坂東竹三郎 ばんどう たけさぶろう 1898-1919 歌舞伎役者 二代目。二代目坂東彦十郎の長男。 中根岸千手院南隣
79 84 久松定弘 ひさまつ さだひろ 1857-1913 哲学者,子爵 貴院議員 伊予今治藩第10代(最後)藩主松平定法の嗣子。東亜火災保険取締役会長 下根岸86
80 85 秀ノ山雷五郎 ひでのやま らいごろう 1863-1914 力士 前頭二枚目。浪曲師桃中軒雲右衛門との交流 上根岸
81 86 尾藤水竹 びとう すいちく 1800-1855 儒学者 寛政の三博士の一人、尾藤二洲の長子
82 88 平子鐸嶺 ひらこ たくれい 1877-1911 美術史家 法隆寺の非再建論者
83 89 平澤朝陽 ひらさわ ちょうよう 儒学者 萩原西疇の門人 音無川畔
84 90 平田篤胤 ひらた あつたね 1776-1843 国学者・神道家 荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の一人(著書一覧、門人一覧付き)
85 97 平田松虫 ひらた 公務員 千住陸軍製絨所勤務。自然庵素朴の名で狂歌狂句を詠む 御行松畔日暮里町
86 98 平塚眞寶 ひらつか 1809-? 漢詩人 号 梅花。「秋錦山房詩鈔」三巻を著す。大沼枕山と親交
87 99 福田半香 ふくだ はんこう 1804-1864 南画家 渡辺崋山の門人。崋山十哲の一人
88 101 福羽美静 ふくば びせい 1831-1907 国学者,貴族院議員 明治初期の神社行政に活躍
89 103 藤澤道信 ふじさわ みちのぶ 1826-1915 商人 山椒の佃煮、青紫蘇の塩漬(このみ庵)
90 104 藤澤米 ふじさわ よね ?-1915 狩野派画家 藤澤道信の妻
91 105 文洪 ぶんこう 平民 谷文晁の門人
92 106 本田種竹 ほんだ しゅちく 1862-1907 漢詩人 美大教授。自然吟社を主宰。漢詩に「正岡子規を哭す」
93 107 本間八郎 ほんま はちろう 1849-? 輪王寺宮家臣 蕉雨庵と号し俳諧もよくす 上根岸中道
94 108 正岡子規 まさおか しき 1867-1902 俳人、歌人 上根岸82
95 109 益田克徳 ますだ こくとく 1852-1903 実業家 東京海上保険の支配人。東京米穀取引所理事長,明治生命,石川島造船所などの重役も務める。東方出版「益田克徳翁伝」大塚栄三著 大塚
96 110 益田友雄 ますだ ともお 1847- 彫刻師 明治2年新貨幣の図案を彫金家の加納夏雄とともに拝命 日暮里村金杉123
97 111 町田久成 まちだ ひさなり 1838-1897 行政官、僧侶 東京国立博物館の初代館長。滋賀県三井寺光浄院住職
98 112 松川伊助 まつかわ いすけ 養禽家 元禄期の人。鶯の鳴き笛を制作。
99 113 松平確堂 まつだいら かくどう 1814-1891 大名 松平斉民。11代将軍徳川家斉の16男。美作津山藩藩主。
100 114 松本幾次郎 まつもと いくじろう 1858- 庭園師 二代目。宮内庁、小松宮家、渋沢家の庭園設計。初代は上野東照宮御用の庭師。 下根岸61
101 115 間野可亭 まの かてい 国学者 文化期の人。真野可亭とも。
102 116 真野暁亭 まの きょうてい 1874‐1934 浮世絵師、日本画家 河鍋暁斎の門人。狸絵が巧み。 時雨の岡畔日暮里村(家前に古石仏あり、これ暁斎の生前受けたもの)
103 117 前田斎泰 まえだ なりやす 1811-1884 大名 加賀藩12代藩主。慶応2年4月退老して根岸に閑居す 金杉村91(上根岸82)
104 118 前野良沢 まえの りょうたく 1723-1803 医師、蘭学者 『解体新書』の主幹翻訳者の一人 根岸貝塚
105 121 萬里小路雪川 まりのこうじ ゆきかわ 画家 天保期の人
106 122 水島慎次郎 みずしま しんじろう 公務員、歌人 水島爾保布の父。今日泊亜蘭の祖父。
107 123 宮川政運 みやがわ まさやす 文筆家 志賀理斎の子。著作「宮川舎漫筆」「俗事百工起源」
108 126 松岡定孝 まつおか 彫刻師 宮川政運の義父。俳句をよくし俳名は琴鳥園花因
109 126 三宅高英 みやけ こうえい 日本画家 明治期の人。父の三宅盛山および大八木也香に習う。神田明神「平将門公御真影」
110 127 宮下竹馨 みやした 1841- 画家 福田半香の門下。デザイナーの宮下孝雄の父。 金杉村72、金杉村56
111 128 宮部文臣 みやべ 1852- 行政官 農商務省山林局副事務官。勤続52年。妻はなつ。弟は宮部金吾(植物学者。札幌農学校第二期卒業生。内村鑑三と新渡戸稲造とともに北海の三星といわれる)益田克徳の長男益田達の妻初子は文臣の娘。 桜木町
112 129 陸奥宗光 むつ むねみつ 1844-1897 政治家、外交官 住まいのある横町を「陸奥さんの横町」と呼んだ 上根岸(陸奥さんの横町)
113 130 村上英俊 むらかみ ひでとし 1811-1890 フランス語学者 幕府の蕃書調所教授。家塾達理堂で仏語を教授。後にヨード製造に従事。
114 132 村瀬秀月 むらせ 1877- 画家 桜木町5番地千歳米坡邸内
115 133 村田雷坡 むらた らいは ?-1915 書家 御隠殿音無川畔、中根岸千住院向かい
116 134 毛利宇一郎 もうり ういちろう 幕臣、漢詩人 幕府で漢装をつかさどる
117 135 望月金鳳 もちづき きんぽう 1846-1915 日本画家 「(森)狙仙の猿」に対して「狸の金鳳」と呼ばれる。 金杉村196
118 136 八十島富五郎 やそじま とみごろう 1760-1819 力士 前頭三枚目。60歳まで土俵を務め現役のまま亡くなったとか。江戸千家の川上不白に黙茶を習う。
119 137 矢田部岐山 やたべ 書家 天保期の人
120 138 柳川重信(初代) やながわ しげのぶ 1787-1833 浮世絵師 葛飾北斎の門人。本所八名川町に住んでいたため柳川と称す。北斎の長女お美与と結婚し女婿となるが離縁。 大塚
121 138 柳川重信(二代目) やながわ しげのぶ 二代目。志賀理斎の三男。初代とともに『南総里見八犬伝』(滝沢馬琴作)の挿絵を描く。絵本「藤袴」の挿絵も。
122 140 柳川春蔭 やながわ 1832-1870 洋学者 柳河春三。開成所教授職。「西洋雑誌」「中外新聞」を発行し、日本のジャーナリズム活動の先駆。
123 141 柳田正斎 やなぎだ しょうさい 1797-1888 儒学者、書家 学書院の柳田泰雲の祖父。80歳を超えても常に妙齢の女子をして枕席を侍らしめたり 中根岸71番地柳原石工房の左隣二階家の家
124 143 柳亭種彦 りゅうてい たねひこ 1783-1842 戯作者 代表作『偐紫田舎源氏』『邯鄲諸国物語』(共に絵師は歌川国貞)
125 145 矢野二郎 やの じろう 1845-1906 幕臣、外交官、教育者 駐米代理公使。商法講習所(現一橋大)、共立女子職業学校(現共立女子大学)の設立に参画。
126 146 山内積翠軒 やまうち 俳人 上根岸19(前沢碩一郎の所)
127 147 山岡襟島 やまおか きんとう ?-1900 幕臣、漢学者 成島柳北と交流あり。
128 148 山口頼定 やまぐち よりさだ 漢詩人 明治期の人。「活詩壇」を明治43年刊行(発行元 詩帝閣(金杉147)) 藤寺畔
129 149 山崎美成 やまざき よししげ 1796-1856 随筆家、雑学者
130 150 山田奠南 やまだ てんなん 1859-1913 弁護士、政治家 山田喜之助。英吉利法律学校(現中央大)と和仏法律学校(現法政大)の設立にかかわり教鞭をとる。大審院判事。第一次大隈重信内閣で司法次官。奇行多し。 笹の雪横辺り
131 153 山本素堂 やまもと そどう 儒学者、絵師 祖父は山本北山(寛政異学の禁に反対した亀田鵬斎、市川鶴鳴、冢田大峯、豊島豊洲とともに五鬼の一角)。酒井抱一の弟子。 大塚
132 154 山本一蓑 やまもと 1845-1913 絵師 山本素堂の次男。酒井道一。1-38の雨華庵4世のこと。 大塚
133 154 山本光一 やまもと こういち 絵師 山本素堂の長男。見出しは「山本交一」。 大塚
134 155 遊女今紫 いまむらさき 1853−1913 遊女、舞台女優 "金瓶大黒楼の抱女。相馬藩士錦織剛盛(2-54)の妾。坂東かほる、高橋屋今紫の名で舞台にあがる。画家高橋広湖(1875-1912)を養子とする。
" 中根岸70(中村勘五郎横町右側の裏)
135 157 遊女雲井 くもい 遊女 吉原京町一丁目金屋の抱女。
136 158 行山辰四郎 ゆきやま たつしろう 医師、俳人 産婦人科医。十世採茶庵 行山鶯谷。明治27年蕉翁高弟杉風の九世採茶庵石丈に入門。 根岸前田侯別邸内
137 159 横田幸助 よこた こうすけ 商人 薬種商 藤寺前
138 160 横田周a よこた しゅうみん 儒医 天保期の人 仲新田
139 161 横山丸三 よこやま まるみつ 1780-1854 幕臣、神道家 小普請組組頭。淘宮術(開運修行の法)の祖。奥野清次郎に天源術をまなび,改良をくわえた。
140 163 吉川亦山 よしかわ 詩人
141 164 吉田雨岡 よしだ うこう 1737-1802 幕臣、詩人 時雨の岡
142 166 吉田玄風 よしだ 多芸人 吉田作三。明治〜大正の人 上根岸町御隠殿三嶋神社神輿庫跡側
143 167 檪葉山人 れきば 勉強家 続昆陽漫録(青木昆陽) に登場する人物
144 168 和田蹊斎 わだ 1800-1849 書家、画家、 服部波山(2-70)の師。妻阿多久は鍼医。 亀田鵬斎の家に寄食
145 169 渡辺鉄香 わたなべ てっこう 1875-? 木彫師(小細工物) 加納鉄哉の門下 上根岸78
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2014年11月03日

根岸人物誌 巻之一(人物之部 五十音順 鶯谷 日暮里 金杉)登場人物 163名

登場順 ページ 名 読み方 生没年 職 備考 地番
1 5 饗庭篁邨 あえば こうそん 1855-1922 小説家 明治14年ころ根岸にくらす 根岸金杉
2 6 浅井忠 あさい ちゅう 1856-1907 洋画家 (門人一覧)
3 8 浅田棕園 あさだ そうえん 1837-1897 医師 宗伯女婿
4 9 浅田宗伯 あさだ そうはく 1815-1894 漢方医
5 11 阿闍梨快秀 あじゃり かいしゅう 僧 お行の松の御堂開山 時雨岡不動院
6 12 粟 小鸞 あわ しょうらん ?-1837 俳人 抱一のパートナー。大文字屋の娼。字は春條。文化14年夏6月、剃髪し妙華尼と名乗る 下谷根岸
7 13 安藤廣近(二代目) あんどう ひろちか 1835-? 浮世絵師 別名:歌川広近 明治14年より根岸在住 金杉村183
8 14 安藤龍淵 あんどう りゅうえん 1805-1884 書家、役人 晩翠塾。小野照ア神社の扁額を書す。 御行の松近く
9 15 井川洗 いかわ せんがい 1876-1961 挿絵画家 井川旧兵衛の次男 桜木町、根岸中道
10 16 池田英泉 いけだ えいせん 1790-1848 浮世絵師 別名:渓斎英泉(門人一覧あり) 根岸新田
11 19 池田蕉園 いけだ しょうえん 1886-1917 日本画家 名は百合。女性。旧姓だと榊原蕉園 金杉村266御まじない横町
12 21 池田輝方 いけだ てるかた 1883-1921 日本画家 蕉園の夫。日本新聞社の挿絵担当。 桜木町36、中根岸
13 22 石垣抱真 いしがき ほうしん 1791-1856 画家 抱一の弟子 金杉大塚
14 23 石田醒斎 いしだ せいさい 1780-1834 呉服商 通称:鍵屋半右兵衛
15 24 石井縄斎 いしい じょうさい 1786-1840 儒学者 帰豆漫誌 下谷金杉
16 25 市川甘斎 いちかわ 1835-? 画家 別名:市川来次郎 金杉村183
17 26 市川九蔵(四代目) いちかわ くぞう 1882–1966 歌舞伎役者 上根岸91
18 27 市川九女八 いちかわ くめはち 1846-1913 歌舞伎役者 九代目団十郎ばりの芸風「女団州」 桜木町
19 28 市河遂庵 いちかわ すいあん 1804-1885 書家 幕末三筆の市河米庵の養子 金杉村35(上根岸76都鳥英長氏宅)
20 29 市河得庵 いちかわ とくあん 1834-1920 書家 遂庵の子 円光寺前2番地、金杉村35(萩原西疇住家の向かい俗称中道)
21 30 市川白猿 いちかわ はくえん 1741-1806 歌舞伎役者 5代目市川團十郎 円光寺隣
22 31 一松斎素翁 いっしょうさい そおう 1798-1879 華道家 慈渓流11代栄松軒素行
23 33 一筆庵可候(二代目) いっぴつあん かこう ?-1914 戯作者 仮名垣魯文の門人 下根岸25
24 34 伊藤勝見 いとう かつみ 1829-1910 装剣金工 狩野梅軒に絵画を学ぶ。東龍斎清寿(田中清寿)に彫金を学ぶ。 桜木町
25 35 伊藤正見 いとう まさみ 1880-? 金工師 勝見の長子 桜木町2
26 36 糸川伊三右衛門 いとかわ いざえもん 名主 金杉下町の名主 根岸
27 37 乾 有祥 いぬい ゆうしょう 画家 蒼雲斎。天保年間の人
28 38 猪野中行 いの なかゆき 1833-1888 漢学者 明朝紀事本末を校正、出版 鶯谷
29 39 井上竹逸 いのうえ ちくいつ 1814-1886  画家、琴家 谷文晃の門人 谷中本村、桜木町新坂下5番地医師久河氏の処)
30 42 猪瀬東寧 いのせ とうねい 1838-1908 日本画家 晩香堂 御隠殿
31 43 伊庭秀賢 いば ひでかた 1800-1872 国学者 吴語 根岸
32 44 今泉雄作 いまいずみ ゆうさく 1850-1931 学者・鑑識家 天心の同輩 中根岸8(旧金杉210)
33 45 鵜川政明 うかい まさあき 俳諧師 別名:麁文(そぶん)。輪王寺宮に仕え、筑後守と称す。 根岸
34 46 宇治於百 うじ 幇間、一中節 女性。宇治紫文の門弟。阿竹糸(阿竹黙阿弥の一人娘)は弟子。 御行の松
35 48 薄井龍之 うすい たつゆき 1829-1916 司法官、裁判官
36 49 酒井鶯蒲 さかい おうほ 1808-1841 絵師 雨華庵(2世)別名:酒井鶯蒲(ほうほ)
37 50 酒井鶯一 さかい おういつ ?-1862 絵師 雨華庵(3世)
38 51 酒井道一 さかい どういつ 1845-1913 日本画家 山本素堂の息子。雨華庵4世。以降、5世(酒井抱祝 1878-?)、6世(酒井抱道) 大塚(金杉村235)
39 52 歌川国盛 うたがわ くにもり 浮世絵師 二代目。安政年間の人。歌川 国貞の門人。
40 53 梅若 實(初世) うめわか みのる 1828-1909 観世流シテ方能楽師 五十二世梅若六郎 上野輸王寺御用達の鯨井平左衛門の長男とか 明治三名人の一人 笹の雪豆腐屋辺り
41 54 江川八左衛門 えがわ はちざえもん 1741-1825 彫師 昌平黌から刊行されるほとんどの書籍の版木を彫り,また「大日本史」も刻す
42 55 江草龍斎 えくさ りゅうさい 1832- 画家 金杉村417
43 56 江刺恒久 えさし つねひさ 歌人 著書:葬祭告詞集 菊の舎 鶯谷
44 57 海老名翹斎 えびな ぎょうさい 儒学者 著書:遊嚢(ゆうのう)日録全3巻 根岸中道
45 58 大巌伯儀 おおいわ はくぎ 1760-1805 筆職人
46 59 大久保北隠 おおくぼ ほくいん 1837-1918 茶人 江戸千家 別名:大久保胡蝶庵、二覚庵 上根岸66中道
47 60 大久保湘南 おおくぼ しょうなん 1865-1908 漢詩人 随鴎吟社創立。函館日日新聞主筆、 金杉村
48 61 大蔵永常 おおくら ながつね 1768-1861 農学者 江戸の三大農学者の一人
49 62 大澤信庵 おおさわ しんあん 儒学者 大澤順軒の弟。天保年間の人。 根岸庚申塚
50 63 大庭学仙 おおば がくせん 1820-1899 日本画家 谷中本村1135
51 64 大野松斎 おおの しょうさい 1819-1888 医者(種痘医) お芋の先生 養子:大野恒徳 下根岸50根岸病院左隣門構
52 65 岡田正豊 おかだ まさとよ 金工師 天保年間の人
53 66 尾形乾山 おがた けんざん 1663-1743 陶工、絵師 1731年公寛法親王に従って江戸に下向
54 67 岡野知十 おかの ちじゅう 1860-1932 俳人 俳諧風聞記。読売新聞ほかの俳句選者
55 68 小川通義 おがわ 詩人 五江と号す 御行の松畔、上根岸藤寺側、下根岸旧長岡邸跡
56 69 小倉青於 おぐら せいお 1842-1894 日本画家
57 70 織田純一郎 おだ じゅんいちろう 1851-1919 翻訳家・評論家 陸奥宗光の娘某を養う。新聞寸鉄を創刊。 芋坂
58 72 尾竹国観 おたけ こっかん 1880-1945 日本画家 上根岸66
59 73 尾竹竹坡 おたけ ちくは 1878-1936 日本画家 越堂、国観とともに尾竹三兄弟 上根岸81
60 74 男谷平蔵 おだに へいぞう 1754-1827 旗本 父は男谷検校。三男が勝小吉(海舟の父) 金杉中村百姓地
61 75 小野湖山 おの こざん 1814-1910 漢詩人 明治三詩人の一人 根岸御隠殿音無川畔
62 77 尾上幸蔵 おのえ こうぞう 1855-1934 歌舞伎役者 二代目。屋号は大橋屋 御隠殿上根岸109
63 77 尾上紋三郎 おのえ もんざぶろう 1889-1926 歌舞伎役者 四代目。幸蔵の長男。屋号大橋屋 御隠殿上根岸109
64 78 香川勝廣 かがわ かつひろ 1853-1917 彫金家 中根岸の魚屋魚惣の次男。美大教授 上野桜木町39
65 79 柏木政矩 かしわぎ まさのり 1841-1898 古美術鑑定家 別名:柏木貨一郎 中根岸
66 80 柏木無窮 かしわぎ むきゅう 儒学者、書家 別名:柏木真海 天保期の人。孝佳堂 根岸中通
67 81 片岡寛光 かたおか ひろみつ ?-1838 国学者、歌人 本間游清と共に村田春海の双璧 鴬塚
68 82 勝田次郎左衛門 かつた じろうざえもん 根岸の名主
69 83 桂 寿郎 かつら 1883- 新派俳優 上根岸49
70 84 加藤蘆舩 かとう ろせん 1830-1889 歌舞伎囃子方 別名:藤舎芦船(初代)。対空庵 根岸円光寺前
71 85 金子主馬 かねこ -1855 連歌師
72 86 加納鐡哉 かのう てっさい 1845-1925 彫刻家、画家 美校教授 上根岸布袋寿司のそばの辺り。
73 87 蕪城秋雪 かぶらぎ しゅうせつ 1840- 画家、揮毫家 前田家御用。利嗣の勉学に付いて上京 金杉村33
74 88 亀井直斎 かめい 1861- 漆工 父先代直斎は茶道具の棗漆を得意とす。 中根岸33
75 89 亀田鵬斎 かめだ ほうさい 1752-1826 書家、儒学者 寛政の異学五鬼  金杉村大塚
76 93 鴨下晁湖 かもした ちょうこ 1890‐1967 日本画家、挿絵画家 上根岸89
77 94 川崎千虎 かわさき ちとら 1837-1902 日本画家、 美校教授
78 96 川田甕江 かわだ おうこう 1830-1896 漢学者 別名:川田剛 東京帝国大学教授、華族女学院校長・帝室博物館理事・貴族院議員、東宮侍講 下根岸町内田新左衛門の先隣
79 98 河鍋暁斎 かわなべ きょうさい 1831-1889 浮世絵師、狩野派絵師 鈴木其一は一番目の妻の父 金杉村
80 100 河邊菊子 かわべ きくこ -1835 歌人 河辺清意の妻
81 101 河邊清意 かわべ せいい 1802−1869 歌人 別名:河辺一也。輪王寺宮に仕える。
82 102 観 嵩月 かん こうげつ 1758-1830 画家 尾形乾山は嵩月の父の長屋(築島長屋)に暮らす
83 103 菊池三渓 きくち さんけい 1819−1891 漢学者
84 104 菊地序克 きくち つねかつ 金工師 江戸後期の人
85 105 菊地文海 きくち ぶんかい 絵師 天保期の人
86 106 巨勢金起 こせ  1843-1919 日本画家 別名:巨勢小石 美校教授
87 108 岸浪柳渓 きしなみ りゅうけい 1855-1935 日本画家
88 109 喜多文子 きた ふみこ 1875-1950 女流棋士 現代女流碁界の母 能楽師の喜多流14代家元の喜多六平太の妻
89 110 北尾重政 きたお しげまさ 1739-1820 浮世絵師
90 111 北川金鱗 きたがわ 1874- 画家 金沢出身 根岸前田別邸に暮らす 根岸旧前田邸内82番地
91 112 北原雅長 きたはら まさなが 1842-1913 下谷区長、歌人 初代長崎市長 会津藩士神保長輝の弟 根岸旧前田邸内82番地
92 113 喜多村信節 きたむら のぶよ 1783-1856 国学者 代表作:「嬉遊笑覧」、「筠庭雑考」「武江年表補正」
93 114 杵屋勝太郎(四代) きねや かつたろう 1885-1966 長唄三味線方 関西長唄協会会長。大正11年の記述。 下谷根岸10、尾竹国観の北隣
94 115 木村徳麿 きむら とくまろ ? 安政年間の人。笠亭仙果著「なゐの日並」に登場。
95 116 木村芳雨 きむら ほうう 1877-1917 鋳金師、歌人 日本鋳金会の創設者。田端大龍寺に墓 会津藩士の子。子規の和歌の弟子。 上根岸95
96 117 陸 義猶 くが よしなお 1843-1916 加賀藩士脱藩 別名:陸九皐(くが きゅうこう) 大久保利通暗殺計画にくわわり,斬奸状を起草 根岸鴬横町
97 118 陸 羯南 くが かつなん 1857-1907 政治評論家 津軽藩士 上根岸82(鴬横町)
98 119 朽木錦湖 くつき 書家 明治期の人 根岸新田
99 120 久保田米僊 くぼた べいせん 1852-1906 日本画家
100 122 熊耳耕年 くまがみ こうねん 1869-1938 日本画家 月岡芳年、尾形月耕の門人(仙台出身) 日暮里村谷中本1052
101 123 栗田萬次郎 くりた まんじろう 本草学者 浅井忠の友 江戸末期から明治期の人 上根岸63
102 124 栗本宇右衛門 くりもと うえもん 蒔絵師並塗師 文化13年頃の人 三嶋明神前
103 125 黒澤墨山 くろさわ ぼくざん 1843- 南画家 大宮の井上甲山、皆野の黒沢墨山、横瀬の泉武山を秩父三山という 根岸身代地蔵辺、元三嶋境内側、狸横町上根岸79(坂東彦三郎邸に接す)、中根岸(旧陸奥邸)、上根岸
104 126 黒澤蘭渓 くろさわ らんけい 画家 天保期の人 根岸中道
105 127 黒田源二郎 くろだ げんじろう 書家 富春堂と号す。書を正木龍眠に学び、その名都下に鳴る。日本画家佐竹永陵の父か?
106 128 小池翠山 こいけ 篆刻師 明治期の人 上根岸、中根岸79
107 129 公延法親王 こうえんほっしんのう 1762-1803 輪王寺宮 閑院宮典仁親王第4王子。寛政5年に御隠殿ができ同所に移る。 御隠殿
108 130 孝子平蔵 こうし へいぞう 親孝行者 寛保期の人
109 131 幸堂得知 こうどう とくち 1843-1913 劇評家、作家 通称:鈴木利兵衛。東叡山御用達高橋弥兵衛の子。三井銀行、東京朝日新聞。 上根岸音無川畔の茅屋
110 132 光妙寺三郎 こうみょうじ さぶろう 1847-1893 外務官・検事・帝国議会議員 明治3年パリ留学。パリ法大卒。
111 133 五姓田芳柳(初代) ごせだ ほうりゅう 1827-1892 洋画家 根岸庚申塚
112 134 川田琴子 かわだ ことこ 書家 見出しは「琴子女史」 川田甕江の長女 陸奥宗光の秘書官で東伏見宮侍講の杉山令吉の妻
113 135 小中村清矩 こなかむら きよのり 1822-1895 国学者・日本史学者
114 136 小林永興 こばやし えいこう 1868-1933 日本画家 ちりめん本の挿絵師の小林永濯の門人で養子。永濯は魚形を愛し、障子の骨や文鎮は魚形。 日暮里村金杉192
115 137 小室屈山 こむろ くつざん 1858-1908 詩人、政客 栃木新聞、団団新聞、やまと新聞 上根岸
116 138 小室樵山 こむろ しょうざん 1842-1893 書家 屈山の子。 金杉村30
117 139 坂 昌成 さか まさなり -1842 連歌師 根岸の宅を得月楼と云う。
118 140 坂 昌功 さか  連歌師 安政年間の人
119 140 坂 昌元 さか まさもと 連歌師 慶応年間の人。昌功の子。
120 140 坂 昌久 さか まさひさ 連歌師
121 141 坂 菊守 さか  連歌師 坂昌久の妻
122 142 酒井抱一 さかい ほういつ 1761-1829 絵師、俳人 雨華庵
123 147 坂内寛哉 さかうち 1767-1835 印籠蒔絵師 原羊遊斎と並び称される 初代古満寛哉
124 147 古満寛哉(2代) こま かんさい 1797-1857 印籠蒔絵師
125 147 古満文哉 こま ぶんさい 1811-1871 蒔絵師
126 148 佐々木世元 ささき 1744−1800 儒学者 別名:佐々木仁里(じんり) 谷中芋坂
127 149 佐田白茅 さだ はくぼう 1833-1907 外交官 西郷隆盛ら征韓派に同調し辞官 史談会幹事 根岸一本橋橋畔
128 152 佐藤舜海 さとう しゅんかい 1848-1911 医者 佐藤尚中の養子 佐倉順天堂病院長 根岸病院はその宅地の址 下根岸根岸病院
129 153 澤 雲夢 さわ うんぼう -1788 書家
130 154 山閑人交来 さんかんじん こうらい 1819-1882 書家(勘亭流) 別名:武田交来。武田製版所八十周年記念史 (国会図)
131 155 塩谷簣山 しおのや きざん 1812-1874 儒学者、薬剤師 晩翠園と号す。甲府徽典館督学
132 156 塩田 真 しおた まこと 1837-1917 役人 博覧会審査員 見出しは「塩田氏真」 上根岸25
133 157 志賀学斎 しが がくさい 儒学者 志賀理斎の孫 別名:志賀元三郎 天保年間の人 谷中芋坂
134 158 志賀理斎 しが りさい 1762-1840 儒学者 柳川重信(2代)の父.。江戸城奥詰となり,のち金奉行。別名:志賀理助 谷中本村
135 159 志賀千之 しが 理斎の子
136 159 柳川重信(二代目) たに 見出しの「谷城柳川」は号。理斎の子。
137 159 宮川政運 みやがわ まさやす 理斎の次男
138 159 原 徳斎 はら とくさい 1800-1870 儒学者 理斎の三男
139 159 篠田壽軒 しのだ 駄師? 鉢植篠立の梅を作り始めた人
140 160 柴田山城 しばた 画家 別名:柴田雲外 根岸金子屋敷
141 161 柴野方閑 しばの ほうかん 漢詩人、幕府書院番 尾藤二洲・古賀精里と共に寛政の三博士といわれた柴野栗山は伯父 天保期の人 中根岸中村
142 162 柴原 和 しばはら やわら 1832-1905 志士、政治家 播磨国龍野藩士 大槻磐渓らに学ぶ 初代千葉県県令 滋賀県松田道之、兵庫県神田孝平と並んで三賢令。明治35年より根岸在住。 日暮里村金杉
143 163 清水魯庵 しみず ろあん 書家 天保期の人 根岸中道
144 164 下村木仙 しもむら ? 天保期の人 根岸札ノ辻
145 165 下村豊山 しもむら ほうざん 1867-1922 能面師 下村観山の兄. 日暮里村金杉194
146 166 下山順一郎 しもやま じゅんいちろう 1853-1912 薬学者 私立薬学校(現東京薬科大学)初代校長 下根岸98
147 167 寿福軒 じゅふくけん -1852 僧侶 根岸安楽寺十七世住職
148 168 庄司南海 しょうじ なんかい 1813-1891 名主 吉原遊郭をつくった庄司甚右衛門の子孫 江戸新吉原の名主
149 169 白石千別 しらいし ちわき 1817-1887 幕臣、新聞人 神奈川奉行,外国奉行 「いろは新聞」主幹
150 170 末永鉄巌 すえなが 1867-1913 ジャーナリスト 別名:末永純一郎 新聞「日本」日清戦争従軍記者
151 171 条野採菊 じょうの さいぎく 1832-1902 作家、ジャーナリスト 『東京日日新聞』(現 毎日新聞)『やまと新聞』創刊者 鏑木清方の父  日暮里村
152 172 鈴木其一 すずき きいつ 1796-1858 絵師 妻は鈴木蠣潭の姉 抱一宅の隣
153 174 鈴木咲華 すずき  1739-1820 儒学者 三嶋社畔
154 175 鈴木誠一 すずき せいいち 1835-1882 絵師 鈴木其一の次男 金杉石川屋敷
155 176 鈴木守一 すずき もりかず 1823-1889 絵師 鈴木其一の長男 金杉石川屋敷
156 177 鈴木有年 すずき 絵師 父は伊勢亀山藩家臣。天保期の人 元三嶋祠前
157 178 鈴木蠣潭 すずき れいたん 1782-1817 絵師 播磨姫路藩士として藩主の弟の抱一の付き人になり後に弟子に 大塚
158 179 税所敦子 さいしょ あつこ 1825-1900 歌人 明治になって宮内省にはいり,楓内侍とよばれ,皇后の歌の相手になる。税所敦子孝養図
159 180 雪中庵宇貫 せっちゅうあん うかん 1864−1918 俳人 別名:杉浦宇貫 10代目雪中庵。「東京朝日新聞」の俳句欄担当 中根岸、上野桜木町
160 181 雪中庵雀志 せっちゅうあん じゃくし 1851-1908 俳人 別名:斎藤雀志 9代目雪中庵 中根岸岡埜古能は奈園南隣
161 182 雪中庵蓼太 せっちゅうあん りょうた 1718-1787 僧侶、俳人 別名:大島蓼太 3代目雪中庵 下根岸尼寺
162 183 僧金洞 こんどう 1830-1907 僧侶、詩人 井田金洞。佐渡出身。善性寺日旭に師事。芋坂の長善寺住職。詩は大沼枕山に学ぶ。 芋坂
163 184 僧貞極 ていごく 1677-1756 僧侶 浄土宗の僧 三河島の通津庵,根岸の四休庵を念仏道場とし活動
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2014年04月21日

(第2期)根岸倶楽部 新聞資料(読売新聞 明治31年〜35年)

明治31年(1898)9月28日(根岸からす)
世に歌われし根岸党の名残は得知翁一人となりぬるも新しき第二の新党は根岸雀が数え立てるにてもなかなかに多きが、さかしき雀も見落としはあるならい、朝夕はもとより月夜にも浮れ出でて根岸の里のくまぐま(訳注:すみずみ)アホーアホーと鳴き廻るわれ鴉が目には、此の里は党人のねぐら軒を並べ一々に誰の彼のというて尽きねど、知らば補えとある雀の言葉に鳴き立つることまずは左(訳注:ここでは下)の通り。
老画家には*鍬形恵林(けいりん 注:文政10年生まれ。狩野雅信(まさのぶ)に入門し,万延元年江戸城普請の際,雅信のもとで制作に従事した。明治42年死去)、*狩野良信(注:嘉永元年生まれ。狩野雅信にまなぶ。博覧会事務局,文部省などにつとめる。明治15,17年の内国絵画共進会に出品し受賞。作品に「孔雀ニ牡丹」「武者」など)、*高橋応真(注:日本画家。弟は円山派の画家高橋玉淵。次いで山本素堂・山本琴谷に画を学び、のち柴田是真に師事して同門の池田泰真・綾岡有真らと是真十哲(四天王とも)の一人に数えられる。内国絵画共進会・パリ万国博覧会など国内外の共進会や博覧会で活躍。明治34年(1901)歿)、*岡勝谷(しょうこく)(注:文久3年に『象及駱駝之図』を描いている)、*酒井道一(どういつ 注:弘化2年生まれ。鈴木其一に琳派の画法をまなぶ。酒井抱一の画風に傾倒し,酒井鶯一の養子となり、雨華庵4代をついだ。日本美術協会,帝国絵画協会の会員。大正2年死去)、

青年画家には*尾竹竹坡(ちくは 注:明治11年生まれ。尾竹越堂の弟,尾竹国観の兄。4歳で笹田雲石に,のち川端玉章,小堀鞆音(ともと)にまなぶ。文展では,明治42年の第3回展で「茸狩」,第4回展で「おとづれ」,第5回展で「水」が受賞。昭和11年死去)、*尾竹国観(こっかん 注:明治13年生まれ。尾竹越堂,尾竹竹坡の弟。小堀鞆音に師事。明治42年文展で「油断」が2等賞となり,以後おもに文展で活躍し,歴史画の大作を発表した。雑誌や絵本の挿絵もえがいた。昭和20年死去)、
文人画家には*黒沢墨山(ぼくさん 注:天保14〜〜没年不詳。北画を鑽硯渕に、南画を相沢會山に学び、山水画を能くした)、

模古彫刻家は*加納鉄哉(てっさい 注:弘化2年生まれ。安政5年に出家したが,明治元年還俗し,上京。日本,中国の古美術を研究し,東京美術学校で教えた。退職後,木彫,銅像,乾漆像などの制作に力をそそいだ。大正14年死去。作品に「三蔵法師」など)、
書家には*新岡旭宇(にいおかきょくう 注:天保5年生まれ。陸奥弘前の人。晋の王羲之の書風をまなび,草書と仮名で名声をえた。明治37年死去著作に「筆法初伝」「仮字帖(ちょう)」など)

漆工家には*亀井直齋(じきさい 注:代表作「雪月花螺鈿蒔絵膳」(芸大美術館所蔵)1861生まれ、没年不明)、
鋳鉄家には*立松山城(注:江戸時代、幕府の御用釜師を勤めた釜師、堀山城9代目に師事)
捻土家には*服部紅蓮(こうれん 注:人物不明)
准鑑賞家で*太田謹(きん 注:根岸及近傍図にも登場)
准考古学者で*若林勝邦(かつくに 注:1862年生まれ。人類学の草創期を支えた一人。1885年に日本人類学会に入会し、1887年8月には、坪井正五郎と一緒に埼玉県の吉見百穴遺跡の調査を行う。1889年に理科大学人類学研究室勤務。亀ヶ岡遺跡(青森県)・三貫地貝塚(福島県)・新地貝塚(福島県)・山崎貝塚(千葉県)・蜆塚遺跡(静岡県)・曽畑貝塚(熊本県)等、東北から九州まで精力的に調査。1895年に、東京帝国大学理学部人類学教室助手から帝国博物館歴史部(現・東京国立博物館)の技手に移籍。その後、1902年には博物館の列品監査掛に任命されるが、1904年死去)
抹茶宗匠連は*大久保胡蝶庵(訳注:大久保北隠。江戸千家に属し明治の大茶人といわれる。上根岸在住)、*小谷法寸庵(注:人物不明)
雲井に近き華族様に準じたるは岡野此花園、篠万年青屋、山下経師屋
さあかく数え来るとはや21人、雀が音信に28人そのうち残り惜しきは柏木貨一郎氏で今は脱籍の身となられたれば合わせていろは48人義士の数より一人多き。あっぱれ根岸の新党連追々夜寒にもなったれば、雁鴨が不忍へ帰る時節、途中に根岸を通ったら油断なく数えて投書投書。


明治32年(1899)12月13日(よみうり抄)
●根岸倶楽部
文学博士大槻文彦氏を始め根岸居住の文士芸術家等はかつて同所此花園に根岸倶楽部と云うを設けて娯楽の間に知識を交換し来たりが、追々盛大に赴くにつき、倶楽部員たる知名の芸術家は銀盃その他各専門の記念品を製作して同部に寄付する由


明治32年(1899)12月16日(よみうり抄)
●根岸倶楽部 根岸倶楽部が此花園に根拠を据えたる由は既記の如くなるが今回、
平坂(注:地図の発行人の平坂閎コウか)、篠(注:篠万年青屋)、宮木、浅井、小林、丸山、山田、加納(注:加納鉄哉か)、河合、大槻(注:大槻文彦)、太田(注:太田謹)、西田、飯田、今泉、福原の15氏発起して何にても一技能ある士50名を限り新たに入会せしむる事になれるよし。


明治33年(1900)5月23日(よみうり抄)
●根岸の将軍塚 根岸の将軍塚というは旧名主某の邸内にありし由。伝えて人類学者はしきりに探索中なるがその位置は今の中根岸付近なるべしという者あり。
●根岸倶楽部 根岸の紳士が率先して組織したる同倶楽部は範模大なるに過ぎて費用の嵩むのみならず、有力者中既に渡仏せる向きも少なからざれば、この処しばらく運動を中止する由。


明治33年(1900)12月12日(よみうり抄)
●大槻博士と根岸地図
文学博士大槻文彦氏は根岸倶楽部の嘱託を受け根岸地図を編製するにつき、釈抱一、亀田鵬齋、福田半湖(注:江戸時代の南画家 福田半香のこと。松蔭村舎と称す。渡辺崋山門人)、尾形乾山、村田了阿(注:国文学者。「花鳥日記」を著す)等、古来同所に知られし名家の旧宅墓所等をも付記するはずにて台北地誌の著者石川文荘氏も之を輔くと。


明治33年(1900)12月17日(よみうり抄)
●古墳探検 大槻文学博士はこのほど根岸 原猪作氏の邸内なる古墳を検せしに、古墳は高さ五尺余りの土塊にして一大老樹に添い、上に五輪の石塔あり。その由緒は未だ詳らかならずと。


明治34年(1901)5月8日
●根岸倶楽部 同倶楽部の開会日は毎1、6の6回なれば、一昨日は例会日なりしも、会員中に差し支ありたるため、昨日午後開会したりと。


明治34年(1901)6月13日
●根岸倶楽部 大槻博士等の組織せる根岸倶楽部にては、来る16日同所此花園に例会を開き、絵画、骨董其の他、季節に関する出品を展列して一日の歓をつくすとぞ。


明治34年(1901)8月28日
●碁仙と老美人
大槻博士、今泉雄作氏(訳注:1850−1931 明治期の美術史家。明治10年パリに留学,ギメ美術館で東洋美術を研究。帰国後,岡倉天心らと東京美術学校の創立にくわわる)なんぞ、根岸の有志者が組織している根岸倶楽部では、毎月同所の古能波奈園で例会を催し御馳走といってはほんの茶菓だけで談話をしたり、あるいは囲碁など思い思いの慰みをして懇親を結ぶことになっているが、さて囲碁はずいぶんと好きな人もあって熱心にパチパチとやらかしはするものの、今泉氏に白坂という人が少し強い位なもので、その他はいずれも笊碁の方だそうだ。
なかにも久河というお医者なんぞは無暗と石を並べて人を驚かすとかいう話だ。ところで一昨夜の例会には、この暑さの折柄、面白くもない例の笊碁をやられては、ハタ迷惑というところからこのみ庵の主人(訳注:藤沢硯一郎)とやらの周旋で、千歳米坡(訳注:ちとせべいは 安政2年(1855)10月東京下谷桜木町生まれ。芳町で米八と名乗り芸者に出ていた。明治24年(1891)伊井蓉峰の「済美館」旗揚げに参加。近代日本女優第一号となった。浅草吾妻座で粂八と共演したこともある。大正7年(1918)没)を引っ張り出し、踊りをやるということにしたので、細君やお嬢さん連中が大勢押し掛け、笊碁連の中にはお留守番を命ぜられたのもあって、同夜は計画通りいい都合に、ハタ迷惑の囲碁が始まらず、米坡の山姥、喜撰など面白い踊りが数番あって、おのおの歓を尽くしたということだ。


明治35年2月6日
●名家の初午
根岸に住みて古癖家の噂高き大槻文彦、今泉雄作の両氏は今年の初午に各自稲荷を勧請して祭典を行わんと企て祠の形より装飾万端につき例の詮索に及びたるが、まず大和春日神社宮殿の形を採るが面白からんと他に2名の同志を求めて、さっそくさる工匠に建造を注文しこのほど四社の祠いずれも見事に出来上がりたれば、おのおの一つずつを庭前に据え付け、今泉氏はかねて秘蔵せる稲荷の木像をばこれに安置し、それぞれ祭典の支度をなしたるに幼き氏が令息は自宅に稲荷様が出来たから初午には太鼓を敲いて遊べるとて大喜び、お父様太鼓と提灯とを買って下さいとしきりにねだるのを、氏は苦い顔をしてうちの稲荷様には提灯や太鼓はまっぴらご免だとはねつけ、一昨日の初午には夜の明けぬうちより祠前に庭燎(訳注:にわび かがり火のこと)を設け、万事古風なる式を用いて厳かなる祭典を行いたるが、大槻氏のほうはさしあたり神体となすべきものなきより、近日伏見の稲荷神社より分霊を請い受け、二の午か三の午の日をもって祭典を挙げることとなしたりと。
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2013年06月18日

根岸の五難(読売新聞 明治21年11月14日)

○根岸の五難
呉竹のなどと奥ゆかしげなりし上野の麓、根岸の里は、いかに鶯渓隠士が筆を揮って弁護さるるもまぬがれがたき殺風景の五大厄難に覆われて、今や裏屋続きのただの場末の汚い町とならんとす。五大厄難とは何ぞや。第一は名に流れたる音無川川上の製造場とやらにて、石灰灰汁等を流すため赤渋の濁り水となり、垣の山茶花一輪落ちても趣きをなさず。第二は日暮里に火葬場あるため、煙は被らねど棺桶の往来となりしこと。第三は空き地は無駄だの勘畧(訳注:考えて事をはかること)より焚付のような長屋を建て並べ、却って町並みを悪くして地価を落とすこと。第四は肥取、夜分となりしより日暮里三河島荒木田尾久辺りより続々出かけし連中、七八時ごろよりまた続々とお帰りになりて是の間に挟まれては駆け抜けても駆け抜けても先にお出でになること。第五は一番怖い事にて例の市区へ抱込み一條(訳注:一件)なり。村では幅が利かないから区の方へ入れてやろうという思召しはありがたけれど鶏口となるとも牛後となるなかれとやらで、これが市区のうちとなりては戸長役場の便を失い、納税や戸籍諸届け等に一日がかりの大不便を蒙るのみか、市区並みの入費が掛っては悠々と庭地を取っては置けぬと裏に裏の小屋を建てついによき人は逃げて、安物残り、いぶせき(訳注:きたなくて不快な)所となりて地価は一層下落すべしと歎ずる者ありという中に、いまだ市区となりては酒の税が高くなる、それが一番難儀なと頭をたたく者もありとぞ。
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今年竹(第1節 明治22年)現代語訳および注釈

今年竹(全27節)  (現代語訳および注釈)
作・饗庭篁村

(*1855-1922 号は竹の舎主人 名は与三郎。兄の与三吉は大音寺前で三木屋長屋を経営し、1,000軒はあったとか)

むら竹 第6巻 明治22(1889)年9月16日印刷 9月25日出版 刊行 春陽堂

(*この年2月、陸羯南主筆の「日本」創刊。5月、大槻文彦の「言海」第一巻の初版が刊行。10月、岡倉天心の美術雑誌「国華」が創刊。)

発行者 日本橋区通4丁目5番地 和田篤太郎
印刷者 同所          岡本桑次郎

第1節

「我もまた ふしある人とならばやと うえてともなう 庭の呉竹」とは、福羽美静(ふくはびせい)翁の
(*1831-1907 山口津和野出身 号は木園、硯堂。長州藩の養老館に学び、平田鉄胤に師事した国学者。神道政策に尽力し後に貴族院議員。明治23年(1890)60歳で公職を退き、父美質の暮らす角筈の別荘(現 西新宿3丁目)に転居。6世尾形乾山を招いて別荘内の窯で和歌入りの茶碗を焼かせたという。明治29年に肴屋が刊行した「萬年青銘鑑18号」に「千代八千代 ふかきみどりの根岸松 さかえめでたき 万年青なりけり」という歌を贈っている。養子が福羽逸人(1856〜 農業博士、子爵 日本に初めてイチゴを伝え、福羽イチゴとしてもてはやされた)根岸での居住歴などは不明)

読み歌なるが、その呉竹の根岸の里も今は、昔の静かなるに似ず、汽車の響きに
(*6年前の明治16(1883)年に上野〜熊谷間が開通)

焼場の煙り、
(*2年前の明治20(1887)年に蛇塚に日暮里火葬場が設立)

御行の松は西洋風の3階作りより見下ろされ、
鶯谷は砂利を軋る車の音となり、
(*10年前の明治12(1879)年に大猷院廟跡を貫いて新坂(鶯坂)が通る)

水鶏橋は布田薬師(ふだやくし)の題目太鼓に叩き立てられ、
(*5年前の明治17(1884)7月に上総布田より薬師仏が薬師堂(上根岸117)に遷座した。当時、眼病の治癒のために篭って祈ることが盛んだったという)

藤寺に藤枯れて、
(*円光寺の藤の花は、時期は不明だか火災に罹って枯死したという)

梅屋敷の跡は酒屋に残る。
(*酒屋の「みのや」は平成の世にもなお当地にある)

金魚屋の池は埋められてもボウフラの蚊となるは減らず。
音無川は石灰(いしばい)に濁りて飛ぶ蛍の影を止めず。
(*音無川の川上に製造場ができ石灰灰汁などを流していたとか)
建続く貸し長屋は余りて、三河島に後(しり)を出だし、繁昌おさおさ(*「全く」の意)下町のゴチャ通りに譲らず。
されば、伊香保楼上三味線の音絶えず、
磯部の座敷笑う声に響く。
岡野屋、華族仕立ての汁粉店を出せば、
笹の雪、古格を破って紳士入りの間を張り出す。
登能(のと)屋に西洋料理を引き受け、
神田川に団扇の音高し。
鶯春亭名の如く鶯会の本営となれば、
芋坂下の団子屋は却って酒の善きを売るというに名あり。
万年青師、葉茂りて領主の如く、
(*上根岸64の肴舎のこと。4年前の明治18(1885)年に肴舎から「万年青図譜」が刊行された)

表具師、業盛んにして新道を開く。
(*金杉160に住んでいた宮内庁御用経師の山下七兵衛)

狂人の病院あれば、
(*現代では使われない表現であるが、原文のまま記す。10年前の明治12(1879)年に下根岸46に日本初の私立精神病院として根岸病院ができた)

酒乱の美術家もあり。
(*具体的に誰かを指すのかは不明だが、刊行年の明治22年の夏、岡倉天心は中根岸7番地に引っ越してきているし、彼は根岸派(根岸倶楽部)の中心メンバーとなり、かつ酒乱の美術家であった)

よしやこの世界細かに切れて、この根岸だけ大洋の中に漂うとするも恐らく事を欠く患いはなからんというまでに、便利となり、雑駁となり、押し合いとなり、込み合いとなる。
かかる中にも世に侘びて、昔のままの藪垣に、まとうも寂し昼顔の花も傾ぶく6時過ぎ、片手で押しては開けかねる、ひずみし木戸を引き開けて
「お節さん、お静かですね。もうそろそろ手元が暗くなりましょうに、よくご精がでますこと」というは、50に近いあたりの肝煎のカカア。
「おお、おさがさん。お出でなさいまし。ちょうどお頼みのお浴衣を今仕上げて、持ってまいりましょうと存じたところ」
「いいえ、それは今日でなくってもいいのさ。巡査のおかみさんのくせに針が持てないからと、人仕事に出すとは贅沢じゃありませんか。あのお軽さんがさ」
「でも、お子供衆はあり、お勤めもお骨が折れれば、それだけおうちもご用があり、こうしてよこして下さいますのも、私どものためを思し召してでありましょう」
「大違いさ。それはどうでもいいが、お照さんにもさっき中道でチョッと逢いましたが、おっかさん、どうですあの話は?」
「あの話とおっしゃるのは?」
「まあじれったい。おお痛い蚊だ。立って話もできない。ごめんなさいよ。おやおや大層美しい縮緬に、こんな絣りができますかね。どこの。おお、あそこのですか。お嫁入りの支度。左様ですか。もし、お節さん。こんな衣服を子供に着せたら、親はさぞ嬉しゅうございましょうねえ。あそこの娘ごはいつでも綺麗につくってお出でだから見られるのだが、飾りをとったら……。ねえ、お節さん。これをお照さんに着せたらさぞ立派に似合いましょう……。ねえ、お節さん。親というものは子で苦労しますねえ」と、口占(くちうら)を引く巫女(いちこ)上がり。
お節は、眼の持つ涙をば蚊遣りの煙にまぎらして、煽げど去らぬ胸の雲、重きは梅雨の空のくせ、晴れぬ返事におさがは付け入り
「もし、お節さん。いつぞや話したお照さんの事をどう考えてご覧なすった? かの旦那は髪の毛が長いので恐ろしく見えるけれど、眼は鯨のようで優しい方さ。年は若いし、ご親切だし、末々のためにもきっとよいし、弟御(おとこご)のためにもなる方だから。お望みなさるを幸いに権妻(ごんさい)にお上げなさい。あのお屋敷へ上げておいたとて、そう申しては悪いけれども大してためになる事はありませんよ。お照さんにも話したら、おっかさんさえよければと。ああいう大人しい子だから素直な返事。お前さんの了見次第で楽もできれば、可哀想にやつれているお照さんが縮緬物も普段着になるようになりますよ。まだ鉄道を音ばかり聞いて、お前さん、王子へも行かないというじゃありませんか。ちっとは楽をする身におなんなさい。石稲荷の傍に住むとて、堅いばかりは流行りませんよ」と、弁にまかせて説きつけたり。

第2節
いるものは作らず、作る者はおらず、千歳を契る軒の松も、住み変わる主に世を憂く嘯くらん。虎の威を借る狐罠、鳥三(とりぞう)という者あり。左せる才学あるものにあらねど不思議な人に、不思議に気に入られて、何事も鳥三より持ち込まねば、埒開かず。かえって本尊様よりこのお前立の方、参詣多く従って賽銭蔵に満ちて没落跡の根岸の寮を熨斗付きにて買い入れ風雅めかした人となれり。強欲の者でも風流気がないとは極まらず、悪人にても忠臣孝子の話を聞き、また芝居浄瑠璃にて見るときは涙を流すと同じ事で、鳥三なかなか美術品を愛玩す。ただし取り次いでいくらかその間にて泳ぐなりという評も満更形なしにてもあらざるか。今を這い出し、紳士にて道具屋を兼ねざるはなしと決め込んだ人に逢いては、言い訳の詞(ことば)なかるべし。ここに立ち入る者どもは幇間まがいの書画骨董担ぎまわって御前あしらい、土にて庭をはく情比べ。一人を突き倒して、一人進めば、また跡より小股をすくい、立ち合いで負ければ竈方、きやつめは御前が新橋のを連れて江の島行きのお供を致しまして、先日(以下略)
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2013年06月17日

岡倉一雄「根岸旧事」(昭和10年)

岡倉一雄「根岸旧事」(全三章)
昭和10年5月23日付 東京朝日新聞 (夕刊 4面)

<一>

 一重が散り八重が散って、松杉の黒木の間に点綴する若葉の緑が、初夏の景色を整わせる頃になると、上野から谷中にかけての山容が、明け暮れ眼を楽しませた三十余年前の根岸生活がまざまざと偲ばれる。そこにはのんびりとした悠長な古き好き日が展開され、旧幕封建時代の上品な因襲が多分に残存していた。

 近頃ゆくりもなく新坂を下って根岸の地を踏んで見ると、全く滄桑の変に驚かされて仕舞った。宛も浦島の子が龍宮から故郷に帰って来た時と一般であった。でも坂本の方面から東西に平行している幾条の道路には、幾分昔の俤が残っていないでもないが、南北に走っている道筋では新たに出来上がったものが可なりに多く、八幡の八幡知らずにでも分け入ったような感じに襲われてならなかった。

 現在南北に縦走する幹線の一つになっている寛永寺坂から坂本通りへ出るコンクリート道路と丁字形に三河島方面に走っている幹線道路の上には、古き根岸の住民達が部落の中心としていた庚申塚が僅かにその三猿の石碣を残しているようである。然しややその北方を南北に貫流していた「せき」は暗渠に改修されて、音無川の俤は全く湮滅して仕舞った。そしてその市の畔りに立っていた鶯春亭とか、「笹の雪」という名物も昔の形態をとどめていない。「せき」の音無川は昔は鶯春亭の一二丁下流で一折し、更に大槻文彦先生の住居の辺で再折し、「御行の松」の境域を一めぐりして箕輪田圃の方へ流れ去ったものであった。

 「御行の松」は既に枯死して昔の俤を留めないが、三四十年以前は「時雨が岡」と称へ、なんでも東奥の修行地から、弘法大師とやらが五鈷を擲ち、そのとどまる所に堂宇を築いたという荒唐な縁起をもったささやかな御堂があった。住民たちは昔の部落の関係で、ここを中村の鎮守と思っていたらしい。弘法様に縁のある御堂を一村の鎮守と崇めることは、いささか平仄が外れたようだが、恐らく旧幕時代の両部崇拝の名残りでもあったろう。

 私の宅が根岸へ移り住んだのは明治二十三年の頃だが、その時分は全根岸が四つの字(あざ)に区分されていたようである。御隠殿方面の杉崎、上根岸一円の元三島、中根岸一帯の中村、それに下根岸界隈をくるめた大塚が即ちそれで、私の父なぞはよく下根岸の大塚を、八犬伝の犬塚に付会し、信乃、荘介を語っていたものである。

 なにしろ上野の宮様の息がかかった時代と、あまり隔たらない時分のことだから、大路小路の異称なぞも頗る雅やかに称ばれていた。今に其の名を残している鴬谷をはじめとして、御下屋敷、中路、御隠殿、鶯横町さては山茶花の里なぞと数え立てて見ればきりがない。正岡子規の草庵が鶯横町にあったために、此所の名前は今なお後輩の日本派俳人の間に膾炙しているが、当時は加州候の下屋敷の裏側に当たる黒塀と、竹藪との間を走っていた辺鄙な場所に過ぎなかった。

 今なお文学史上にその名をとどめている小説家の連盟、根岸党の全盛時代は子規の名が世に謳われるより遥か以前にあった。御隠殿に近き二階家に納まっていた森田思軒、それと裏腹に「せき」に畔りして居を卜した饗庭篁村、同じに家替り住んだ幸堂得知、笹の雪横町が田圃につきる辺りに家を構えていた宮崎三昧、谷中天王寺畔から時々姿を現した幸田露伴、それに根岸に家を持っている関係から員外に加わった判官の藤田隆三郎氏、亡父の天心などが一所になって、連夜「いかほ」や「鶯春亭」と飲み歩いたものである。一党は他を「御前」と尊称し、自らを「三太夫」と卑下し、且つ各自表徳のようなものを持っていたらしい。例えば三昧道人を「田圃の太夫」とか、露伴博士を「谷中の和尚」とか、天心を「馬の御前」とかいったように。併し考えてみると物価の安い当時でも、よくあれ程の豪遊が続けられたと思う。

<二>

自恃居士で知られていた当時の官報局長高橋健三氏もまた根岸党の有力な員外者であった。そんな関係から同氏の外遊にあたり、根岸党の面々は、その送別の宴を御下屋敷の天心の住居で催したことがあった。その時に祖父勘右衛門の七十の賀筵を兼ね催したので、宴会は連続三夜にわたって行われたのであった。そして招待の客種がそれぞれ異なっていた。

第一夜は高橋氏の送別会で、とても壮大にかつ最も洒落に催されたものであった。あらかじめ世界を忠臣蔵と定め、各夫人連は揃いの赤前垂れで一力の仲居に扮し、由良之助に見立てた高橋夫妻を歓迎した。高橋氏夫妻は無双の洒落者で、夫人のごときは晩年一中節の家元になる位の人であったからわざと大星の定紋水巴の揃いでやって来られ、一同をあっといわせたものであった。得知翁の采配で離れの茶室に「早野勘平浪宅」という名札が掲げられ、浮世絵を貼り混ぜた煤けた二枚折の腰屏風の中で栄螺の壺焼きの模擬店が開かれていた。「一寸さこいの内緒事」という通り文句をきかせた洒落であったらしい。二日目、三日目にどんな客が招待されたか今記憶にはないが、三日目の晩に蕉雨という俳名に隠れていた大本間小本間として聞こえた輪王寺の宮付の高格の士の隠居が、福禄寿の逆さ踊りをやったことを覚えている。

こんな宴会は中根岸四番地に移ってからも、今一度あったように覚えているが、その時の記憶は彫刻家の竹内久遠氏が泥酔して、臨席して居られた坪内博士に絡まり「小説家では春廼舎先生(訳注:坪内逍遥の号)、彫刻家では天下の竹内だ」と怪気焔をあげていたことをやっと覚えているに過ぎない。

今の鴬谷駅の真っ下の線路沿いに、鶯花園という細長い庭園があった。園の中には芙蓉とか菊とかが確かに栽培されてはあったが、七分は自然のまま放置されていた向島の百花園式の庭園であった。そこもしばしば根岸党の催しに用いられていた。藤田隆三郎氏が東京から奈良地方裁判所長に栄転される際も、川端玉章翁が何かの賀筵を催した時にもここが利用されていた。前者の場合にはいろいろな模擬店があり、また各種の地口行燈が掲げられていた。そして後者の時には、床几を連ねた毛氈の上で村田丹陵、山田敬中の諸画伯が狂言の「千鳥」を舞ったことを覚えている。

今では加州候の下屋敷が分譲されてしまったので、昔のあり様を偲ぶよすがもないが、元三島神社の社殿をめどとして見ると、上根岸の大部分と中根岸の一部は著しく改変されほとんど昔の面影は消え失せている。しかし中根岸の大部分と下根岸の一部とには、やや旧観が残っていないでもない。例えていえば永称寺、西蔵院前の通り。世尊寺、二股榎前の小路の如きものである。こう繁華になってきては二股榎の前で丑三つ時に転んでも、狸の化けた「おかめ」にお茶を出されることもあるまいけれど。

三十年前までは入谷の朝顔が盛んであったにつれて「笹の雪」の豆腐料理が、夏の朝まだき麗奸を競うこのとりどりの花を賞する騒人の朝食を認める場所であった。豆腐料理のほかには焼き海苔くらいしか出来なかったこの店も、星移り物変わった今日では、縄暖簾が撤廃され、箱が這入ると聞いては全く開いた口がふさがらない。

笹の雪横町から、三昧道人(訳注:小説家宮崎璋蔵の号 子に大正期の少年向け小説家宮崎一雨がいる)の家居のあった方面は、元金杉と称えて真実の根岸の領分ではなかったが、日清戦争の終わる頃から、家がびしびしたち込んで、そのけじめが判らなくなってしまった。しかしその以前までは三河島の本村まで一望目を遮るものなく水田が続いて、好個の凧揚げの場所を我々に提供していた。私が中学生になった頃も、その水田で鴫(しぎ)や鷭(ばん、クイナ科)やさては鴨なぞの銃猟をやったことを覚えている。

<三>

根岸一帯の祭りは、若葉がようやく青葉と緑を増す六(ママ:五の誤り)月十四、五日に行われる。花車や踊屋台こそ出なかったが、元三島、中村の御行の松、大塚の石稲荷で催される里神楽は、他に比類を見ないほど盛大を極めたものであった。おそらく現在でも旧を追って年々挙行されているに相違ないが、昔通りの三百八十五座といった大掛かりのものではあるまい。

根岸党の大人方や、子規はじめ日本派俳人の諸先生方とは、ほとんど何の関係もなかろうが、当時子供であった我々には、見逃しがたい年中行事の首位に位していた。殊に元三島神社に行われた里神楽は、三河島の神職何やら要さんという男を座頭に、十人足らずの同勢をもって組織されていた一座であった。中にも馬鹿踊の名人常さんというのが、一人で人気をさらっていた。
彼らはおそらく上六番町の里神楽の総家吉田家の支配を受けた三河島派の面々であったに違いない。総帥の要さんというのは長身な男で、得意とした「退治」の主役に最も適していた。彼が弓矢を携え、もしくは長剣を振って舞台を活躍する様は、たしかに素盞嗚尊を、そして日本武尊を巧みに再現していた。それでその従者とか対手役に回る常さんの馬鹿が、とても滑稽で我々子供達の腹の皮をよらせたものであった。従って我々は元三島の神楽を礼讃し、渇仰するにいたったものである。同じ根岸小学校に席を並べていた田中芳雄工学博士の如き、二三級下にいた漫画家池部釣、水島爾保布の両君の如きは、必ず元三島党であったに違いない。池部君の如きは「畑にしようか、田にしようか」の馬鹿踊のかくし芸に、天才常さんの衣鉢を伝えている。

御行の松で催された神楽も、元三島のそれに負けず劣らず壮んなものであったが、此所のものは面の中で台詞をいう里神楽道の外道であったようである。従って出し物も「桂川力蔵」とか「石井常右衛門」とかいう神楽としては目新しいものであった。大塚の石稲荷の神楽も元三島や中村のそれに劣らぬもので、なかなか贔屓があったようである。歌人の川田順君なぞはこの方面に在った乃父剛先生の別宅に起臥されていた関係上、石稲荷党であったに違いない。

輪王寺の宮様が御引退後に住まわせられたという御隠殿は、私が明治二十三年に見た頃でもその面影を偲ぶべき一宇も残存していなかったが、唯二百坪ほどの瓢箪池が濁った水を湛えているに過ぎなかった。私たちはよくその池で鮒を釣ったものであったが、見かけほど沢山は釣れなかったようである。祖父からの談に聞いた新光琳派の巨匠酒井抱一の雨華庵(うげあん)の跡を大塚方面に探してみたが、ついに見当がつかなかった。
無極博士の父君である明治書道の大家成瀬大域翁の住まわれた中道の角から、左に這入った通りには、風流な隠宅とか、閑雅な寮が邸を接していた。そしてその一軒一軒が苔むした広やかな庭を持っていた。その頃でも旧幕時代の匂いが最も高かったのは、おそらくその界隈であったろう。異称を山茶花の里といったのも、たしかにふさわしい。

藤に名を得た藤寺が顰まり、根岸の草分けともいわれた篠氏の邸跡も亡びてしまった。今ではわずかに芋坂の搗抜団子が、稍々昔の面影を偲ばせるが、こことても亡き天心が名月の夜陰に馬を停めて、酒を買った時代の姿はとうに消えうせている。(終)
posted by むねやん at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡倉一雄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月20日

「根岸及近傍図」解説文および文字情報バージョンアップ終了

「根岸及近傍図」解説文および文字情報を2008年バージョンから2013年バージョンへ変更し終えました。

根岸及近傍図(右上〜左上の解説文)

訳にあたっての注意
1.「根岸及近傍図」内の解説で○印付で説明書をしているものを、「@数字」で順番に通し番号を振った。「図中の文字情報」も「#数字」として通し番号を振り、相互に関連する項目には該当の番号を挿入することで検索の便を図った。
2.「*」は訳者による付け足しの記述(西暦や読み仮名など客観的なもの)
3.「訳注」は訳者が一歩踏み込んで、蛇足的に付け加えた情報(主観的なもの)。



東京根岸の里は、かつて武蔵国豊島郡(*明治11年11月2日からは北豊島郡)金杉村の一部であったが明治22年(*1889)5月1日より、村内の石神井用水から南の土地が下谷区内に編入され、上、中、下根岸町となった。用水から北の土地は日暮里村となった。
金杉村は、室町時代の応永年間(*1394-1427)の文書に、「金曽木」と記されている。「金曽木」という地名は所々にある。「鉋」を昔は「かな」といい、「そぎ」は殺ぎ(*削ぎ)の意味で「こけら」(*屋根に用いる薄い板や鉋屑)の厚いものを指す。「こけら」の産地であることに由来した名と考えられる。
(訳注:この地名由来の説明にはいささか、疑念がある。一般的には、「新編武蔵風土記稿」で紹介されている鶴岡八幡宮の文書(*1399)から、この地に住んでいた金曽木彦三郎なる人物の名に由来しているという説が主流である。だがその名前「金曽木」は何に由来するのかは不明)
天正(*1573-1592:室町時代)の文書にはすでに「金杉」という地名が見える。正保3年(*1646:徳川家光の世)に東叡山寛永寺領となり、金杉町とは分かれた。
(訳注:この頃に町屋村、三河島村、谷中本村、中里村、田端村、新堀村も寛永寺領になった。また、金杉町とは町方支配地である奥州裏街道沿いの金杉上町、金杉下町のこと。現在の金杉通り沿いの下谷3丁目と根岸4・5丁目の一部である)
金杉村の中央以南の地の字(*あざ)名は、南部を「根岸」、西北及び新田を「杉ノ崎」、東北を「中村」、更に東北を「大塚」と分けて呼んだ。「根岸」が一番南側なので、江戸のほうからはこれらの地をまとめて「根岸」と呼んでいた。「根岸」という地名は、上野山の根の岸にあるから付いたものである。
(訳注:金杉村の中央以北の地の字名は、谷中前、中下り、大下り(おおさがり)、井戸田の4つである)
長禄(*1457-1460:室町時代)の江戸図というものには金杉村と根岸村が並べて書いてあるが、そんなはずはない。この図は後世の偽造の図であるので、取るに足らないものである。金杉村民の戸数は、昔は18戸にすぎなかったが、のちに36戸となり、文化文政の頃(*1804-1830)には230戸となった。
この場所は上野の山の北の影に位置するせいか、元々、静かで趣き深い環境であったので、江戸の武士や町民で別荘などを設ける人が多く、文政天保の頃(*1818-1844)もっともその動きが盛んであった。天保6年(*1835)の「諸家人名録」を見ると根岸に住む者は文人だけで30名もいた。ところが、天保の華奢厳禁の政令(*老中水野忠邦の天保の改革での倹約令)で、武家町人が百姓地に住むことを禁じ、みな家を引き払ったため一時原野のようになったと、今に伝えられている。

さらに、天保12年(*1841)1月5日に、村内貝塚(*現在の荒川区東日暮里5-42アインスタワー付近か)より失火して、金杉・坂本・入谷まで全焼した。30〜40年前(*1865年頃)まで、上野山の裾野にはきつね、たぬき、山うさぎなど、多く棲んでいたという。その後、だんだんと都会人が来て、住む人も見られ明治維新後(*1870年頃)になるといよいよ、その傾向が強くなり、今では(*1900年)田んぼまで人家となっている。地元の大地主、文人、いろんな技芸士の住まいが軒を連ねて、去年(*1899年)の調べでは根岸3町(*上、中、下根岸)だけで975戸ある。「幽静の趣」とは昔のこととなってしまったが、いまなお、俗世から離れた小天地である。

@1大塚(下根岸62)#52
大空庵、宗派は真言宗。40メートル四方くらいの小さな丘の上にある。文政(*1818-30)の図(*月崖の図のこと)には、この場所に「ビクデラ(*尼寺) 大塚イナリ」と書かれている。「大塚」という地名もこの塚に由来するものだろう。
太田道灌(*1432-1480 室町時代の相模国守護であった扇ケ谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣、現在日暮里駅前に銅像がある。墓は伊勢原市)の七塚(*道灌が築いたとされる斥候用の塚)の1つといわれている(谷中本行寺の道灌の物見塚もその1つとか)。
雪中庵蓼太(*1718-87 俳人 雪門、大島蓼太ともいい、芭蕉庵を再興した。深川要津寺に墓)が「大塚の小高きところの尼寺の中で過ごした」というにはここと思われる。そのときの句として
「端居(*はしい)して 鶯に顔 みしらせむ」
(訳注:風通しのいい縁側に腰掛けて 鶯に顔を 見知ってもらったよ、の意)
「礼帳や まず鶯と 書初めむ」
(訳注:年賀の芳名帳の 一番目に鶯と 書いたことよ、の意)
がある。


@2御行の松(中根岸57)#67
笠をかぶせた形をした巨大な松で、西側の枝振りが一番いい。金杉村の水帳(*検地帳)に大松と書いてあるので、これが本名だろう。輪王寺宮の旧臣の本間八郎氏は、「上野の宮様が、御加行として100日間、毎朝上野山内および根岸あたりの神社仏閣を徒歩で廻られることがあり、この松の下で一息つかれるのが常であったので、地元の民は御行(*おぎょう)の松と呼んだ」という。この説を採用するのがよさそうだ。
(訳注:ご加行繞堂(にょうどう)といって一代に一度、2月の初めより100日間、毎朝3時に起きて、御掛かり湯を浴び、粥を食べ(お供のものも同様に)種々のご修法があり、これを加行という。次に繞堂とは、山内の中堂、法華堂、常行堂、東照宮、山王社、慈眼堂両大師、御本坊うちなる東照宮、弁天社、稲荷社、将軍家の霊屋、位牌所、女霊屋、律院など巡拝することをいう。<大槻文彦著 「根岸御行の松」より>)
小畑詩山(*1794-1875 名は行簡 呼称は良卓 現在の宮城県大崎市古川の出身で公現法親王に仕えた医師)は、上野の宮様の侍読(*個人教授)だった。その御行の松での作品として、「後凋松偃翠髯清 雨雪風霜老倍栄 一自台王蒙御幸 晝宵時有吹笙声」がある。
(訳注:松偃(しょうえん)、しぼむ後も翠髯(りょうぜん)清く、雨雪風霜、老いて栄えを増す。一人、台王、自ら御幸(みゆき)を蒙り(こうむり)、昼宵時に、笙吹く声有り、といった意)
拙い作品であるが、間接的な証拠として紹介する(空海や文覚(*もんがく 平安末期・鎌倉期の真言宗の僧。源頼朝に気に入られ神護寺を再興し、東寺を修理したが頼朝没後、策略で佐渡および対馬に流される)が行法をしたという説は採らない)。
この松の下に不動堂がある。ここは昔、奥州路だったとも伝えられており、文明年間(*1469-1487:室町時代)の道興准后(*どうこうじゅごう 京都聖護院門跡)の「廻国(*かいこく)雑記」(*1486)に「忍ぶの岡というところの松原のある陰に休んで、霜の後 あらわれにけり 時雨をば 忍びの岡の 松もかひなし」と読んでいることに因んで、ここを時雨が岡といい、松を時雨の松ともいう。
(訳注:ただ一般に「忍が岡」という場合には上野の山を指すため、上の歌で詠われたのは上野山中の松原と考えるのが自然である。また御行の松は昭和3年に枯死したが、その年輪はおよそ350年だったという。よって1580年頃に芽生えたことになり、文明年間にはこの木は存在しなかった)


@3円光寺(中根岸38) #77
臨済宗の寺。以前は園内に名木の藤があった。藤棚の長さは約50メートル、幅1.2メートルで、花房の長さは1.2〜1.5メートルもあった。開花の頃には都下の人が群れ集まってきたため藤寺ともいわれた。
市川白猿(*1741-1806 5代目市川団十郎、後の市川蝦蔵 東洲斎写楽の錦絵に、彼を描いた「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたづな)竹村定之進役の大首図がある。ただし、7代目市川団十郎1791-1859の可能性もある)は、かつてこの近所に住み
「猿猴(*えんこう)の手よりも長き 藤の花」という句を詠んだ。藤は、いまはない。
(訳注:猿猴とは、中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種。海又は川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るとされている。この妖怪のモデルは中国に住むオナガザルであるともいう)


@4梅屋敷跡(上根岸131)#234
天保14年(*1843)、村民の小泉冨右衛門が梅園を開園した。弘化2年(*1845)2月、時の将軍徳川家慶(*いえよし)の世継ぎ家定公が鷹狩りの時、「お通り抜け」と称して園内を鑑賞された。安政・文久の頃(*1854-64)、園は閉鎖された。嘉永元年(*1848)の「初音の里鶯の記」の碑が、この跡地に残っている。(訳注:現在も根岸2-18の前田邸内に残っており、戸川安清(1787-1868)による書である)


@5石神井用水 #105
地元の人は「せき」と言っている。音無川と記す場合もある。西方の王子村金輪寺(*きんりんじ 王子神社の別当寺)の下で、石神井川の水を5mの堰で止め(*明治25年に経費1748円をかけて大改修を実施)村内を東に流して、近隣の数カ村の用水とし、最後には隅田川にそそいでいる。


@6笹の雪(@37も参照)(金杉191)#218
豆腐の名前であり、これを売る店がある。ここには元は二軒茶屋といって両の角に2軒あって飴菓子などを売っていたところである。80年前(*1820年頃 文政年間)に京都出身の奥村忠兵衛がこの地に豆腐店を開店し、今までに5代営業している。
(訳注:80年間で5代、代が変わるのはいささか代わりすぎと思う。「笹の雪」で伝える歴史は以下の通り。「元禄4年(*1691)初代玉屋忠兵衛が上野の宮様(公弁法親王)のお供をして京都より江戸に来て初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが当店の始まりです。宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と称賛され、「笹乃雪」と名付け、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は現在も店内に掲げてございます」。一方、幸堂得知が明治40年に書いた「上野下一巡記」にはこうある。「文化初年(1804)頃の開店にて、元は三河島より市場へ野菜を出す者、朝飯を立ち寄りて食し行くために出来たる店ゆゑ、朝は未明に門を開き正午には売り切るというのが定めなりしも、明治の後は百姓より他の客が多く…」。また明治末期において店で提供したのは、お酒のほかはあんかけ豆腐と焼き海苔とご飯だけで、営業は午前5時から11時ぐらいまでだったと伝わっている)


@7おまじない横町(金杉265と266の間)#76
文政(*1818-1830)の頃、呪術にて病を治す者がここに住んでいた。その術では脚で患部を蹴って全て治したという。弘化(*1844-1848)の頃、浅羽某という者がここに住み算木による占いで灸をすえて治療を施したという。


@8一本橋(上根岸124の前)#226
かつては丸木橋であった。この西北角の酒屋(*金杉161)は、彫物師の濱野矩随(*はまののりゆき<2代目>1771-1852 江戸中期・装剣彫金工の一派、浜野派の一人。腰元彫りともいわれ帯留、つばなどを作った。講談および落語で知られる「浜野矩随」のモデルである)の旧宅である。また平田篤胤(*あつたね 1776-1843秋田佐竹藩出身 江戸後期の国学者・幕末国学の主流 平田神道の創始者)は、この橋の北の田んぼ辺りに住んでいた(*1835年12月〜1841年1月までの間。輪王寺宮の用人 進藤隆明の世話で転居し、1836年には著書「大扶桑国考」を舜仁法親王に献上した)とのこと。


@9五本松(上根岸85の南西)#127
上野山の津梁院(#128訳注:寛永寺裏に規模縮小なるも現存)の北裏の崖上にある数株の松をいう。その東には笠松というものもあった。この辺の上野の森の雪景色は美しい。


@10台の下(上根岸85〜103付近)#204
五本松の崖下の地をいう。かつてはこの辺りは松原と田んぼであったが、今はみな人家となってしまった。


@11御隠殿跡(上根岸96及び107〜114)#220
上野の宮の隠居御殿であった。古図には御隠居所とのみ記しているものもある。宝暦3年(*1753 吉宗の死去後、家重の世 輪王寺宮公遵法親王の隠居時)7月、杉ノ崎の土地4反1畝(約1230坪)余りを買い上げられて造営した。荘厳を極め、一種の宮家の庭園であった。五本松の下に茅門(*ぼうもん)があって、宮は裏伝いに御殿へ入られたそうだ。御殿内の絵は狩野洞春美信(*かのうどうしゅんよしのぶ 1747-1797 江戸後期の画家。駿河台狩野家4代目。3代元仙方信の養子)の作であり、庭には池、池中の島、そして朱欄の橋などがあり、池の中には錦邊蓮(*白花の蓮の一品種 英名 Pink Tip White Bowl)を植え、月夜などには舟をうかべて楽曲を奏でたという。
徳斎(*原徳斎 1800-1870 儒者「先哲像伝」「徳斎日新録」といった著書がある。古河藩の地誌『許我志』を著した原念斎の養子)の記では、この地の四季の景色を「月は御隠殿まえ、また台の下 松原辺り最もよし、いわんや管弦の音、山岳にひびく夜は、また仙界の趣あり」と書き記している。
戊辰の彰義隊の戦争で、官軍により旧殿は焼き払われ、その跡はいま民家(訳注:明治6年に駒形どぜうの渡辺家が払い下げを受けたが、明治16年の鉄道敷設の際に大部分が失われたいう伝承もある)となり、残っているのは御隠殿の表門前にあった用水に掛かる大石橋のみである。
(訳注:この御影石づくりの橋は長さ2.7m×幅3.9mで、44cm角2本、33cm角9本の石材でつくられていたが、1935(昭和10)年にその橋も撤去され、その瓦礫は国鉄の線路際に打ち捨てられていたというがそれもいつしか何者かによって持ち去られた。ただ橋桁だけはいまも道路の下に残っているという)
元禄図にはこの西に火屋とでているが、火葬場であろう。
(訳注:4代将軍家綱(1641-1680)は東叡山参詣の際、火葬の臭気が山内の及ぶことに不快を示しため、小塚原の一町四方の土地への火葬寺の集団移転を行ったという)


@12水鶏橋(*くいなばし)(上根岸114の前)#223
御隠殿の敷地の東北角に、用水に掛かった幅30センチほどの石橋を指す。近年、石橋を架け替えて「うぐいす橋」との名を刻んだ。かつてはこの辺りの用水の北側は田んぼで、この辺や御隠殿の池などに水鶏が最も多く棲んでいたという。
(訳注:東日暮里5丁目のリーデンスタワー前にこの橋の複製がある)

@13貝塚(金杉134〜148付近)#202
金杉村の北、三河島村辺りは大昔、海が入り込んでいた。むかし3万坪にも及ぶ蠣殻山があり、享保(*1716-1736)の頃まで盛んに胡粉を製造したという。いまでもこの辺りの土の中は蠣殻である。蘭学の開祖、前野良沢(*1723-1803 名は熹(よみす)、字は子悦。蘭化、楽山とも号す。大分中津藩出身。1771(明和8)年3月に小塚原刑場にて、えたの虎松の祖父(90歳くらい)が行った通称青茶婆(50歳くらい京都出身)の腑分けを見学。1774(安永3)年に杉田玄白らと「解体新書」全5巻を著す。1780年大槻文彦の祖父大槻磐水(玄沢)が24歳で良沢のもとに入門し、1783(天明3)年に「蘭学階梯」を出版する。1793年頃から1802年頃までこの地もしくはこの近辺に居住した。良沢の墓は池之端七軒町の慶安寺にあったが、大正3年の寺の移転にともない杉並区梅里1−4−24へ移動。吉村昭著「冬の鷹」が参考になる)がここに住んだという。
(訳注:大字金杉字杉ノ崎141番地付近では、現在でも地面を少し掘れば大型の貝のかけらが次々とでてくる)


@14善性寺(貝塚の西、日暮里村大字谷中本字居村下1031の2)#108
日蓮宗で関小次郎長耀入道道閑(*鎌倉時代の豪族)が開基といわれる(西日暮里の道灌山はその宅地であったという)。日蓮上人(*1222-1282)がかつて関氏のところに泊まり、自筆でしゃもじにお題目を書いたという。それをこの寺で保管していたが、今は谷中の瑞林寺にある。徳川6代将軍家宣の母、長昌院(*1637-1664 甲府宰相徳川綱重(家光の子で、家綱の弟・綱吉の兄)側室 北条氏直の旧臣であった田中勝守の娘 お保良の方。後に越智松平家へ再嫁するが、28歳で難産のため死去)は初めこの寺に葬られたが、宝永2年(*1705)上野(*寛永寺子院の林光院)に改葬された。(訳注:現在は寛永寺墓地内 徳川家裏方墓地にある)
寺内には松平清武(*1663-1724 家宣の異父弟。母は長昌院。上野館林藩の初代藩主、後の石見<島根>浜田藩主家 宝永年間(*1704-1711)に当寺に隠棲という)、篠崎東海(*1686-1740享保期の儒学者。荻生徂徠の門に出入りし、林大学家にも短期入門。主著『不問談』(とわずがたり))、吉田圓齋(*1755-1794暦学者 吉田子方、名は平)(鵬斎(*@18参照)の碑文)、一刀流中西忠太郎(*-1801 小野一刀流)(葛西因是(*1764-1823 儒学者)の碑文)の墓がある。


@15団子や(@39も参照)(日暮里村大字谷中本字居村下1137)#109
文政図に「フジノチヤヤ」と出ており、菜飯を売っていたという。お年寄りは今でも藤棚といっているが、藤はもうない。明治元年(*1868)より村人の澤野庄五郎が団子を名物として売りはじめ、羽二重団子として今は有名である。
(訳注:なお、「羽二重団子」自らは創業を1819(文政2)年といい、寛永寺出入り植木職人であった初代庄五郎が、街道往来の人々に自慢の庭を見せながら団子を供したのがはじまりという。酒も提供したので、団子で酒というのが上戸下戸を兼ねるとして妙案とされた。1838(天保9)年の妙めを奇談に「芋坂下酒店の軒、何れも盛なり」との記述あり。1907(明治40)年頃までは軒先に澄んだ水をたたえた井戸があったという)

根岸及近傍図(右下の解説文)

訳にあたっての注意
1.「根岸及近傍図」内の解説で○印付で説明書をしているものを、「@数字」で順番に通し番号を振った。「図中の文字情報」も「#数字」として通し番号を振り、相互に関連する項目には該当の番号を挿入することで検索の便を図った。
2.「*」は訳者による付け足しの記述(西暦や読み仮名など客観的なもの)
3.「訳注」は訳者が一歩踏み込んで、蛇足的に付け加えた情報(主観的なもの)。


@16古奥州街道(中根岸82ほか)
月崖という人が文政3年(*1820)につくった根岸図では、中根岸の二股榎(*#83)の路に「古オウシウミチ」と出ている。お年寄りもこの樹は奥州路の土手にあったものと今に伝えている。また天保9年(*1838)の原徳斎の記には、上根岸の西 上野山の崖上の五本松(*#127)について「村人の説では、かつて奥州街道の並木の松だったという。また金杉の新屋敷(*#82)内に一本の古樹があり、その下には古い地蔵がある。それも奥州街道の跡だと伝わっている」と述べている。
この古地蔵というのは中根岸新屋敷(*#82 しんやしき)の旧構内、安楽寺表門の向かいの辺りにあって、小野お通(*戦国〜江戸期の伝説的な才媛。岐阜の北方の里に小野正秀の娘として生まれ、池田輝政の家臣に嫁ぐが離縁。豊臣秀頼の正室千姫に仕え大坂城に入るが、家康の招きで駿府城を経て、江戸城へ入り、将軍家大奥の行儀作法の指導を行ったという。1616年に彼女が根岸で横たわっている地蔵を見つけ、1630年に的山(願蓮社勢誉的山)が京都から奥州へ向う途中で草庵の中のその地蔵を見つけ、一堂建立したという)に縁のある仏像といわれたが、明治維新後に同じ中根岸の西念寺(*#84)に移して、いま身代地蔵といわれているものにあたる。
また下根岸のざるや横丁の土手通りの北角(*下根岸85 現在の根岸5-11-1)にも南向きの地蔵があったが、これも奥州道の傍にあったものと言い伝えられている(最近、同じ下根岸の大空庵に移した)。
また千住道(*現在の金杉通り)三ノ輪通り西側の薬王寺境内に、今も後向地蔵としてある像は、かつて西側に奥州道がありそれに面してあったものなので、今は千住道に対して背を向ける形になったと伝えられている(像には正徳4年(*1714)と書かれているが後世の改作であろう)。また嘯月(*左下の解説文中で出てくる)という人が書いた古い絵には、薬王寺境内の東北隅に「奥州道一里塚」いうものが描かれており、その塚は維新前まではあったという。今の上野の下寺通りと千住道は後世に切り開かれたものといわれれば、そうだろうと思う。
(訳注:鎌倉時代からの古奥州街道は、滝野川から西ヶ原、田端、尾久、三ノ輪を通っていたが、江戸前期までに本郷から上野の山を横切り照崎(現在の忍岡中学)を通り、中根岸の新屋敷付近から土手通りを通った後、音無川沿いに北東に向かう道になったようだ。そして寛永寺創建以降、新街道が出来て古奥州街道はすたれたようである)

@17雨華庵(*うげあん)跡(下根岸86)#57
酒井抱一道人(*1761-1828 姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として小石川の藩邸に生まれる。多病のため出家し西本願寺文如上人の養子になり、後に琳派を再興した画家。谷文晃、亀田鵬斎の3人は下谷の三幅対といわれよく飲み歩いていたという)が文化6年(*1809)から過ごした旧宅跡。維新の3,4年前に焼けてしまった。家来で門人の鈴木其一(*きいつ 1796-1858 江戸の染物屋の家に生まれ、抱一の内弟子となって間もなく、酒井家の家臣で抱一の付き人だった鈴木蠣潭(れいたん)が急死したために、彼の姉と結婚、鈴木家を継ぐ。以後、抱一が亡くなるまで付き人として、また抱一亡き後も酒井家に仕え、絵師として活躍)、蒔絵師の原羊遊斎(*はらようゆうさい 1770-1845 抱一の図案を用いた作品を多く手がける)もこの庵の隣に住んだ。


@18石稲荷社(下根岸22)#65
小祠、ご神体はともに石でできている。この稲荷の向かいに亀田鵬斎(*1752-1826 儒学者・書家 「寛政異学の禁」で排斥されるのち諸国放浪)と浮世絵師の北尾重政(*1739-1820 北尾派の祖。絵本さし絵を多く描く。弟子に山東京伝(北尾政演)がいる)が住んでいた。

@19火除(ひよけ)(金杉上町)#9
金杉通りの火除の十字路あたりは、かつては上野の火除地として野原に松などが生えていたという。また金杉町の西側の裏通りを土手通りと呼ぶのも、かつて防火堤があったためだという。一方ここにある三島神社の東側の裏手の了源院に火除観音という像があり、火難の守り神なので地名になったのだともいう。北峰山崎美成(*よししげ 1796-1856 北峰は号。随筆家、博識家。下谷長者町の薬種商の子に生まれる。通称新兵衛。文政8年(1825)暮れごろ下谷金杉町に居を移し、文政末ごろ旗本の鍋島直孝に仕える。著書「三養雑記」「世事百談」)はこの火除の辺りに住んでいた。


@20二股榎(中根岸82ほか)#83
西念寺前にある。元は東側の囲いにあったのだが、路を広げたので今は路上に立っている(*大正2年までに伐採された)。上のほうの幹は一本だが、下のほうは股となっている大木である。根の土を崩されて、根が露出したためだという。文政図には根岸三本の一本と書かれており、他の一本は御行の松、もう一本は「カイホウノモミ」といい、またの名を天狗の樅ともいう。今は上根岸の諏訪家邸内(*#233上根岸72 信州高島諏訪家)にその大きな切り株が残っている。


@21世尊寺(中根岸88)#85
宗派は真言宗で、応安5年(*1372:室町時代)に豊島左近将監輝時(*-1375豊島宗家10代目 石神井城主)の創立だという。


@22西蔵院(中根岸26)#81
真言宗。天正年間(*1573-1591)以前からの寺である。かつては元三島神社、石稲荷の別当寺であった。寺内に村田了阿(*1772-1843 国学者 主著「事物類字」)の墓がある。この寺の構内の東北隅に寺門静軒(*1796-1868 生まれたのがここだったようで、水戸藩江戸詰の妾の子だった。漢詩人で塾は谷中・三浦坂下に開く。主著「江戸繁昌記」は幕府により取り締まられ、のち諸国放浪。杉本章子「男の軌跡」(文春文庫「名主の裔」に収録)を参考のこと)が住んでいたことがあるという。


@23根岸小学校(中根岸29)#80
明治20年(*1887)に新築したもの。ここの向かい側辺りに(*中根岸47付近)浮世絵師の柳川重信が住んでいた(*-1832 りゅうせんしげのぶ 葛飾北斎の弟子。北斎の長女美与と結婚し一子もうけるが離縁。「南総里見八犬伝」の挿絵などが代表作。この中根岸47、48番地には二代目重信(天保9年の「妙めを奇談」を製図)も暮らし、後に岡野知十(1860-1932おかのちじゅう 一時期、子規と覇を争った俳人 句集「鶯日」)が住む)。


@24札の辻(坂本町3丁目)#40
坂本村の高札があったところ。去年(*明治32年 1899)路を大きく広げた。
(訳注1898(:明治31).4.20午後に坂本3,4丁目の一部、箪笥町全域、中根岸町の一部が焼失し、それを受けて道路改正を実施した。ちょうど岡倉天心が、美術学校を辞め日本美術院を旗揚げするにあたり、中根岸4番地の家を売ろうとしていたが、その直前にこの火事で焼失。また天心と九鬼隆一 妻、星崎波津子(御行の松付近に暮らしていた)との修羅場はこの近辺で展開された。参照 九鬼周三「岡倉天心氏の思い出」)


@25大猷公(*3代将軍家光公 1603-1651)廟跡(上野山、新坂上)#145
新坂(鶯坂)上の地。承応元年(*1652)造成、享保5年(*1720)焼失。路沿い西側にある五葉松は家光公のお気に入りの松。


@26鶯谷(桜木町1〜6番地付近)#146,#164
文政図では徳川家霊屋下の地を「ウグヒスダニ」と記している。元禄(*1688-1704)の中頃、上野の宮が鶯を多くこの地にお放しになられたと伝えられている。もともと霊屋の下は火除地で、一面に樹木、笹が生い茂り、池には大蛇が住んでいるなどといわれた。維新後(*1879)、上野から大猷公廟跡を貫いて坂を通し(*新坂)、坂下はことごとく人家となったが、今でも徳川家の所有地である。


@27桜川(上根岸24〜26付近)#163
上野の山際の清水が流れ出て、今の徳川長屋前の大溝を通る入谷辺りの用水であった。鉄道が開通して(*明治16年)つぶされた。


@28元三島神社(上根岸42)#250
金杉村の元々の村の中心は、昔は上野の廟屋の地にあり、三島神社もそこにあったという。今も第一、第二霊屋の境にある大楠は、かつての三島神社の神木であったという。宝永6年(*1709綱吉死後、第2霊屋ができたころ)4月に浅草寿町へ移されたが、現在の場所にも一社あり、この地の鎮守となっている。

根岸名物
@29鶯
元禄の頃(*1688-1704)、時の上野の宮第三世 公辨法親王(*こうべんほっしんのう 1669-1716 輪王寺宮門跡在位なのは1690-1715)が「関東の鶯には訛りがある」とお思いになられて、上方から数百羽の雛をとりよせ根岸の地に放ったことから、この土地の鶯の声は訛って聞こえないという。それから鶯の名所となり、初音の里とさえもいわれた。鶯はこの地にある竹林に巣をかける。他所の鶯の脚は黒いが、根岸産のものの脚は灰色で赤みがあり、その道の人は見分けられるという。


@30鶯会
昔は毎年、向島の請地村(訳注:牛島須崎村の茶亭 梅本)で開かれていたが、弘化4年(*1847)6月に根岸の梅屋敷に移ってきて今まで続いている。
(訳注:梅屋敷廃園後は鶯春亭(#239)で行われ関東大震災まで続いた。その後は日暮里渡辺町の方で太平洋戦争中も開催されていた様子)
毎年4月、各地より飼鳥を持ち寄って、笹の雪あたりで軒並みに人家を借り、美麗な籠に入れて軒先につるす。人々が次々に立ち寄って耳を澄ませて、鶯の声を評して優劣を判定する。一等の鳥を「准の一」と称した。
(訳注:松川伊助という者が自ら工夫した笛で子飼いの鶯につけ声を行い、これが縁日で売られる鶯笛の始まりと伝わっている)
鶯の覚束なくも初音哉<子規 明治26>
鶯や東よりくる庵の春<同上>
雀より鶯多き根岸かな<同上>
鶯の糞の黒さよ 笹の雪 <子規 年不明>
鶯の籠をかけたり上根岸<子規 明治30>
鶯の隣にすんで今朝の春<子規 明治27>


@31鶴
文政図には根岸の三鳥として「ウグイス」「タカモリヒバリ」「ツル」と記してあり、大塚の田んぼには「ヒバリ」とある。鶴は徳川の時代に三河島道(*今の尾竹橋通り)の沼(*明治初頭まであった「前沼」のこと。今の東日暮里3丁目の東日暮里3丁目遊園周辺(旧大曲通りの東日暮里3丁目部分はこの沼の周回路と思われる))で餌付けをしており、その鳴き声は喧しいほどであった。将軍は鶴御成として、毎年(*11月〜2月の間に)鷹にて鶴を捕まえて、「おこぶし(御挙)」と称して京都へ献上された。今は鶴も雲雀も来ない。
(訳注:1628(寛永5)年より将軍の御鷹場に指定され、一旦綱吉は鷹を伊豆諸島に放鳥するが、吉宗の時代に復活。将軍自らが拳に鷹を据えて獲物を捕ることから「おこぶし」といった。鶴の血を絞って酒に入れた鶴酒は珍重され、その鶴はいったん臓腑を出して改めて縫合し、昼夜兼行の早飛脚で京の朝廷に献上したという。朝廷は半分を受取り、残りは東下りの早飛脚で改めて将軍家へ下された。年頭登城の諸大名旗本に鶴の吸い物が振る舞われた 参考:広重 名所江戸百景「蓑輪金杉三河しま」)

@32水鶏(くいな)
これも根岸名物であったが今は見ることができない。しかし、私の庭の池(*金杉258大槻文彦宅)などに稀にやってきて、夜、汽車の響きに合わせて叩く(訳注 戸を叩くように鳴くので「叩く」という)こともある。ほととぎす(時鳥、子規)も喧しいほど鳴いていたが、鉄道が出来てからは声を聞かなくなった。
(訳注:子規が明治25年の高浜虚子あての手紙のなかでこう書いている。「当地(*根岸)はさすがの名所だけに、鶯も鳴き、杜宇(*ほととぎすの意)も鳴き、水鶏も鳴くよし。今夜も陸氏と話しつつある時に水鶏の声しきりに聞こえければ座上即興。雨にくち風にはやれし柴の戸の 何をちからに叩く水鶏ぞ」)
水鶏叩き鼠答へて夜は明ぬ<子規 明治25>


@33山茶花(さざんか)
根岸産のものを「根岸紅(*ねぎしこう)」と称して別種としている。中くらいの大きさの花で、紅色が特に鮮やかである。金魚も根岸産のものは色がよいといわれる。
山茶花のここを書斎と定めたり<子規 明治28>


@34夏葱
金杉村の特産品として都下で食べられている。抱一の句に「枯葉ゆく 葱の小川や 牛の絵馬」がある。この句は「瀬見(蝉)の小川」(*京都右京区下鴨神社の東部を流れ、糺の森の南で賀茂川と合流する小川)に掛けたものであろう。ちなみに、かつては水の神への感謝の意味で、用水の所々に牛を描いた絵馬額がたててあったという。


@35生姜・漬菜 #205
金杉村でも生産し名産ではあるが、谷中と三河島の名がもっぱら付けられている。


@36根岸土
壁塗りに使われる。50年程前(*1850頃)に平六という者が発見した。村内の地中に層をなして産出する赤茶色の砂土を搗いてふるいにかけたもので、江川氏(*不明。上根岸8の江川福太郎か、下根岸35の江川権左衛門か?) が専売している。
(訳注:この亜種として茶根岸土、鼠根岸土もあるという。なおこの土で上塗りした壁を「根岸壁」といい、その壁の色を「根岸色」という。また根岸色より少し薄い色を「うぐいす色」という)


@37笹の雪 (@6も参照) #218
京都の製法の絹ごし豆腐に葛餡をかけて食べさせる。初めに高貴な方から「柔らかきこと笹の雪の如し」と賞せられたのでこの名前にしたという。かつては大名や旗本が上野の寺院などへお遣物にしたり、吉原、根津、谷中(*いずれも江戸期の花街)の朝帰りの客や天王寺の富くじの客などが群れて訪れたという。今も入谷の朝顔を見てから朝飯を食べる客は多い。
(訳注:明治期の朝顔市は9軒の朝顔栽培業者の庭園を廻って鑑賞するものであり、毎年7月のお盆から、8月下旬までの約50日間が開園期間であった。入園料無料の業者と有料の業者がおり(当時の狂歌「朝顔におあし取られて貰い泣」)、菊人形ならぬ朝顔人形も展示された。モデルコースとしては、まず朝一番で不忍池の蓮が開くのを見た上で、朝9時が見ごろの朝顔を鑑賞し、帰り道に笹の雪もしくは上野池之端の揚出し(大衆料亭、豆腐の揚出しを名物とする。洋画家子絲源太郎の生家)で一杯やるのが推奨されている。今も7月の朝顔市の3日間は午前7時に開店する)


@38万年青(おもと)
栽培している家を篠常五郎(*1860-1917 明治18年に元勲三条実美、報知新聞社主筆栗本鋤雲、山岡鉄舟らの助力のもと「万年青図譜」「万年青培養秘録」を発刊。後に大槻文彦の編で「続 万年青図譜」を刊行。明治末期の地所は3000坪に達する)の肴舎(*さかなや)という。4代の祖である吉五郎は魚屋であったが、この草の栽培をはじめてから現在までその業を継いでいる。そのうち、根岸松(*名は御行の松に由来する)という種が国内でも絶品とされる。
明治10年に全国万年青競進会がこの家で開かれてから、毎年10月に開会されている。数千金の値がつくものもあり、およそ根岸にあって日本一と称すべきものはこの家の万年青であろう。
(訳注:この記事をうけて子規の病床日記<虚子、左千夫、碧梧桐 記>の明治35年1月22日の部分に以下の記述がある。
(前略)大槻文彦氏の根岸地図中に書して 根岸に日本一唯だ一つあり肴屋の万年青なりと 日本一を万年青なりとは何等の俗さ加減ぞ 若し日本一を言わば多田氏(?)の仮名でも挙ぐべきに など話さる
左千夫氏若し日本一を言わば山下の表具屋こそ正に適当なるものなれと語る
病人も大いに之を賛して万年青に勝る萬々と笑わる そう言えば根岸には日本一多し 第一不折 第二粂八などいろいろ数えらる(後略)

文中に注釈を加えれば
多田氏の仮名=多田親愛(1840-1905)のかな書を指す。1892年当時、金杉村215番地に暮らし、博物局(現在の東京国立博物館)に勤めながら、かな書道界の先頭にたっていた。明治20年に明治天皇の妃、昭憲皇太后の命により色紙24枚を奉献したことで一躍有名になった。
山下の表具屋(金杉160番地ほか一帯)=宮内庁御用経師 山下七兵衛(1850-1920)を指す。江戸時代は仏師屋を家業とし、明治期に入り美術院等諸大家の出入りを許される表具屋となった。根岸の大地主の一族(明治末期でおよそ4500坪を所有)であった(上根岸88の陸家の地主でもあるが、正岡家の地主は加賀前田家)。日本の印象派の先駆けで二科会創立メンバーの一人である洋画家 山下新太郎(1881-1966 代表作「読書」「靴の女」)の実家である。
不折=中村不折(#228下)
粂八=明治の女役者(女芝居の歌舞伎役者)市川九女八(1846-1913)。最初の役者名が岩井粂八。本名は守住けい。「女団洲(団十郎)」とも呼ばれ人気を博す。9代目市川団十郎門下になってからは市川升之丞、一時破門されてのちにゆるされて、明治27年に市川九女八と改名。新派や文士劇にでるときは守住月華を名乗る。月華の名は漢学者で団十郎のブレーンだった依田学海が命名。夫は狂言作家の藤基輔(守住新作)。


@39羽二重団子 (@15も参照)#109
極めて柔らかいのでこの名となった。三重や熊本の精米を用いて長く蒸すことを秘伝としている。小豆餡をまぶすものと、醤油をつけて焼くものがある。

@40煮山椒 (上根岸19−2)#246
元三島神社前の藤澤氏が売っている。原料は静岡県産の朝倉山椒の子(*木の芽)に限る。精製した絶品の醤油で長く煮ることを秘伝としている。
しばらく保存するとなお風味を増す。また青紫蘇の葉を粉にして売っている。種から精選して作っており年を経ても、香り、色に変化がなく、あまねく賞せられている。