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2013年06月17日

岡倉一雄「根岸旧事」(昭和10年)

岡倉一雄「根岸旧事」(全三章)
昭和10年5月23日付 東京朝日新聞 (夕刊 4面)

<一>

 一重が散り八重が散って、松杉の黒木の間に点綴する若葉の緑が、初夏の景色を整わせる頃になると、上野から谷中にかけての山容が、明け暮れ眼を楽しませた三十余年前の根岸生活がまざまざと偲ばれる。そこにはのんびりとした悠長な古き好き日が展開され、旧幕封建時代の上品な因襲が多分に残存していた。

 近頃ゆくりもなく新坂を下って根岸の地を踏んで見ると、全く滄桑の変に驚かされて仕舞った。宛も浦島の子が龍宮から故郷に帰って来た時と一般であった。でも坂本の方面から東西に平行している幾条の道路には、幾分昔の俤が残っていないでもないが、南北に走っている道筋では新たに出来上がったものが可なりに多く、八幡の八幡知らずにでも分け入ったような感じに襲われてならなかった。

 現在南北に縦走する幹線の一つになっている寛永寺坂から坂本通りへ出るコンクリート道路と丁字形に三河島方面に走っている幹線道路の上には、古き根岸の住民達が部落の中心としていた庚申塚が僅かにその三猿の石碣を残しているようである。然しややその北方を南北に貫流していた「せき」は暗渠に改修されて、音無川の俤は全く湮滅して仕舞った。そしてその市の畔りに立っていた鶯春亭とか、「笹の雪」という名物も昔の形態をとどめていない。「せき」の音無川は昔は鶯春亭の一二丁下流で一折し、更に大槻文彦先生の住居の辺で再折し、「御行の松」の境域を一めぐりして箕輪田圃の方へ流れ去ったものであった。

 「御行の松」は既に枯死して昔の俤を留めないが、三四十年以前は「時雨が岡」と称へ、なんでも東奥の修行地から、弘法大師とやらが五鈷を擲ち、そのとどまる所に堂宇を築いたという荒唐な縁起をもったささやかな御堂があった。住民たちは昔の部落の関係で、ここを中村の鎮守と思っていたらしい。弘法様に縁のある御堂を一村の鎮守と崇めることは、いささか平仄が外れたようだが、恐らく旧幕時代の両部崇拝の名残りでもあったろう。

 私の宅が根岸へ移り住んだのは明治二十三年の頃だが、その時分は全根岸が四つの字(あざ)に区分されていたようである。御隠殿方面の杉崎、上根岸一円の元三島、中根岸一帯の中村、それに下根岸界隈をくるめた大塚が即ちそれで、私の父なぞはよく下根岸の大塚を、八犬伝の犬塚に付会し、信乃、荘介を語っていたものである。

 なにしろ上野の宮様の息がかかった時代と、あまり隔たらない時分のことだから、大路小路の異称なぞも頗る雅やかに称ばれていた。今に其の名を残している鴬谷をはじめとして、御下屋敷、中路、御隠殿、鶯横町さては山茶花の里なぞと数え立てて見ればきりがない。正岡子規の草庵が鶯横町にあったために、此所の名前は今なお後輩の日本派俳人の間に膾炙しているが、当時は加州候の下屋敷の裏側に当たる黒塀と、竹藪との間を走っていた辺鄙な場所に過ぎなかった。

 今なお文学史上にその名をとどめている小説家の連盟、根岸党の全盛時代は子規の名が世に謳われるより遥か以前にあった。御隠殿に近き二階家に納まっていた森田思軒、それと裏腹に「せき」に畔りして居を卜した饗庭篁村、同じに家替り住んだ幸堂得知、笹の雪横町が田圃につきる辺りに家を構えていた宮崎三昧、谷中天王寺畔から時々姿を現した幸田露伴、それに根岸に家を持っている関係から員外に加わった判官の藤田隆三郎氏、亡父の天心などが一所になって、連夜「いかほ」や「鶯春亭」と飲み歩いたものである。一党は他を「御前」と尊称し、自らを「三太夫」と卑下し、且つ各自表徳のようなものを持っていたらしい。例えば三昧道人を「田圃の太夫」とか、露伴博士を「谷中の和尚」とか、天心を「馬の御前」とかいったように。併し考えてみると物価の安い当時でも、よくあれ程の豪遊が続けられたと思う。

<二>

自恃居士で知られていた当時の官報局長高橋健三氏もまた根岸党の有力な員外者であった。そんな関係から同氏の外遊にあたり、根岸党の面々は、その送別の宴を御下屋敷の天心の住居で催したことがあった。その時に祖父勘右衛門の七十の賀筵を兼ね催したので、宴会は連続三夜にわたって行われたのであった。そして招待の客種がそれぞれ異なっていた。

第一夜は高橋氏の送別会で、とても壮大にかつ最も洒落に催されたものであった。あらかじめ世界を忠臣蔵と定め、各夫人連は揃いの赤前垂れで一力の仲居に扮し、由良之助に見立てた高橋夫妻を歓迎した。高橋氏夫妻は無双の洒落者で、夫人のごときは晩年一中節の家元になる位の人であったからわざと大星の定紋水巴の揃いでやって来られ、一同をあっといわせたものであった。得知翁の采配で離れの茶室に「早野勘平浪宅」という名札が掲げられ、浮世絵を貼り混ぜた煤けた二枚折の腰屏風の中で栄螺の壺焼きの模擬店が開かれていた。「一寸さこいの内緒事」という通り文句をきかせた洒落であったらしい。二日目、三日目にどんな客が招待されたか今記憶にはないが、三日目の晩に蕉雨という俳名に隠れていた大本間小本間として聞こえた輪王寺の宮付の高格の士の隠居が、福禄寿の逆さ踊りをやったことを覚えている。

こんな宴会は中根岸四番地に移ってからも、今一度あったように覚えているが、その時の記憶は彫刻家の竹内久遠氏が泥酔して、臨席して居られた坪内博士に絡まり「小説家では春廼舎先生(訳注:坪内逍遥の号)、彫刻家では天下の竹内だ」と怪気焔をあげていたことをやっと覚えているに過ぎない。

今の鴬谷駅の真っ下の線路沿いに、鶯花園という細長い庭園があった。園の中には芙蓉とか菊とかが確かに栽培されてはあったが、七分は自然のまま放置されていた向島の百花園式の庭園であった。そこもしばしば根岸党の催しに用いられていた。藤田隆三郎氏が東京から奈良地方裁判所長に栄転される際も、川端玉章翁が何かの賀筵を催した時にもここが利用されていた。前者の場合にはいろいろな模擬店があり、また各種の地口行燈が掲げられていた。そして後者の時には、床几を連ねた毛氈の上で村田丹陵、山田敬中の諸画伯が狂言の「千鳥」を舞ったことを覚えている。

今では加州候の下屋敷が分譲されてしまったので、昔のあり様を偲ぶよすがもないが、元三島神社の社殿をめどとして見ると、上根岸の大部分と中根岸の一部は著しく改変されほとんど昔の面影は消え失せている。しかし中根岸の大部分と下根岸の一部とには、やや旧観が残っていないでもない。例えていえば永称寺、西蔵院前の通り。世尊寺、二股榎前の小路の如きものである。こう繁華になってきては二股榎の前で丑三つ時に転んでも、狸の化けた「おかめ」にお茶を出されることもあるまいけれど。

三十年前までは入谷の朝顔が盛んであったにつれて「笹の雪」の豆腐料理が、夏の朝まだき麗奸を競うこのとりどりの花を賞する騒人の朝食を認める場所であった。豆腐料理のほかには焼き海苔くらいしか出来なかったこの店も、星移り物変わった今日では、縄暖簾が撤廃され、箱が這入ると聞いては全く開いた口がふさがらない。

笹の雪横町から、三昧道人(訳注:小説家宮崎璋蔵の号 子に大正期の少年向け小説家宮崎一雨がいる)の家居のあった方面は、元金杉と称えて真実の根岸の領分ではなかったが、日清戦争の終わる頃から、家がびしびしたち込んで、そのけじめが判らなくなってしまった。しかしその以前までは三河島の本村まで一望目を遮るものなく水田が続いて、好個の凧揚げの場所を我々に提供していた。私が中学生になった頃も、その水田で鴫(しぎ)や鷭(ばん、クイナ科)やさては鴨なぞの銃猟をやったことを覚えている。

<三>

根岸一帯の祭りは、若葉がようやく青葉と緑を増す六(ママ:五の誤り)月十四、五日に行われる。花車や踊屋台こそ出なかったが、元三島、中村の御行の松、大塚の石稲荷で催される里神楽は、他に比類を見ないほど盛大を極めたものであった。おそらく現在でも旧を追って年々挙行されているに相違ないが、昔通りの三百八十五座といった大掛かりのものではあるまい。

根岸党の大人方や、子規はじめ日本派俳人の諸先生方とは、ほとんど何の関係もなかろうが、当時子供であった我々には、見逃しがたい年中行事の首位に位していた。殊に元三島神社に行われた里神楽は、三河島の神職何やら要さんという男を座頭に、十人足らずの同勢をもって組織されていた一座であった。中にも馬鹿踊の名人常さんというのが、一人で人気をさらっていた。
彼らはおそらく上六番町の里神楽の総家吉田家の支配を受けた三河島派の面々であったに違いない。総帥の要さんというのは長身な男で、得意とした「退治」の主役に最も適していた。彼が弓矢を携え、もしくは長剣を振って舞台を活躍する様は、たしかに素盞嗚尊を、そして日本武尊を巧みに再現していた。それでその従者とか対手役に回る常さんの馬鹿が、とても滑稽で我々子供達の腹の皮をよらせたものであった。従って我々は元三島の神楽を礼讃し、渇仰するにいたったものである。同じ根岸小学校に席を並べていた田中芳雄工学博士の如き、二三級下にいた漫画家池部釣、水島爾保布の両君の如きは、必ず元三島党であったに違いない。池部君の如きは「畑にしようか、田にしようか」の馬鹿踊のかくし芸に、天才常さんの衣鉢を伝えている。

御行の松で催された神楽も、元三島のそれに負けず劣らず壮んなものであったが、此所のものは面の中で台詞をいう里神楽道の外道であったようである。従って出し物も「桂川力蔵」とか「石井常右衛門」とかいう神楽としては目新しいものであった。大塚の石稲荷の神楽も元三島や中村のそれに劣らぬもので、なかなか贔屓があったようである。歌人の川田順君なぞはこの方面に在った乃父剛先生の別宅に起臥されていた関係上、石稲荷党であったに違いない。

輪王寺の宮様が御引退後に住まわせられたという御隠殿は、私が明治二十三年に見た頃でもその面影を偲ぶべき一宇も残存していなかったが、唯二百坪ほどの瓢箪池が濁った水を湛えているに過ぎなかった。私たちはよくその池で鮒を釣ったものであったが、見かけほど沢山は釣れなかったようである。祖父からの談に聞いた新光琳派の巨匠酒井抱一の雨華庵(うげあん)の跡を大塚方面に探してみたが、ついに見当がつかなかった。
無極博士の父君である明治書道の大家成瀬大域翁の住まわれた中道の角から、左に這入った通りには、風流な隠宅とか、閑雅な寮が邸を接していた。そしてその一軒一軒が苔むした広やかな庭を持っていた。その頃でも旧幕時代の匂いが最も高かったのは、おそらくその界隈であったろう。異称を山茶花の里といったのも、たしかにふさわしい。

藤に名を得た藤寺が顰まり、根岸の草分けともいわれた篠氏の邸跡も亡びてしまった。今ではわずかに芋坂の搗抜団子が、稍々昔の面影を偲ばせるが、こことても亡き天心が名月の夜陰に馬を停めて、酒を買った時代の姿はとうに消えうせている。(終)
posted by むねやん at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 岡倉一雄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする