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2009年10月06日

饗庭篁村「松の雨」

松の雨(全6回)
小説むら竹 第2巻 明治22(1889)年7月20日印刷 7月25日出版 刊行春陽堂
(*この年2月、陸羯南主筆の「日本」創刊。5月、大槻文彦の「言海」第一巻の初版が刊行。10月、岡倉天心の美術雑誌「国華」が創刊。)
発行者 日本橋区通4丁目5番地 和田篤太郎
印刷者 同所          岡本桑次郎

(所蔵:国立国会図書館「近代ライブラリー」●は解読できなかった文字を表す)

第1回
なまぬるい野郎畳(*注:縁のない畳)といわばいえ あの女なら尻に敷かれん
と畳という題にて狂歌をつくった詠み人の(住む)呉竹の根岸の里に
近頃移り住んだ小林何某という人は、年40に近いが女嫌いの賢人。
顔油、白粉の匂いを嗅ぐと胸がむかついて堪らぬとて、通りすがりに袖が触っても打ち払い
真向かいに向かい合えば睨みつけるというほどなので
友達も感心し「彼ほどに女嫌いもないものだ。おおかた律宗(*注:戒律に厳しい宗派)の坊主が布施を捧げて受戒に来るであろう。
今の世の弁慶柳下恵(*注:中国魯の賢人の名)がもしいたら散髪にして供につれるであろう。あの人にこそ細君を託して、湯治に連れて行って貰える」との評判うすうす当人の耳に入ればなお更の高慢
「いにしえより名将勇士と称される人が、女色に溺れて身を誤つなどとは、もってのほかの不覚悟。我等の眼から見れば、みんな盛りのついた猫さ
一般嗚呼なんぞ世界に真の英雄の乏しきや。かの色欲の劣情などに制されて本心を乱すは精神が高尚ならぬ故なりは、今少しく世間にて哲理を講究するようにしたきものなり。
酒と女が人生第一の楽しみだなどというは、まだ眼のつけどころが低い低い」と白痴が雪だるまをつくる指図をするような言い草、だれももっともとは聞かねど、
なにしろこの年まで独身で行いすますとは余程な変人だと噂しあっていたが、この人もこれ有情の動物なんぞ中心よりその心なしといわんや。
頃はそれ年七月下旬弁慶先生かねて根岸は住むに良いところといい暮らしたる念願届きて同地へ引き移りたれば、無暗と土地が面白くある夜、入湯の戻りに涼みながらぶらぶらと闇の根岸はまた一入妙だ。
二町歩いても三町歩いても気障な女などに逢わぬ所が妙だ。
オッと石橋か躓いても落ちぬところが妙だと一人妙●のて御行の松の下へ来たり。
どうもいはれぬ涼しい。なることならば、この松の下風を袋につめて馬車の小便の臭いと砂けむりに咽いでいる俗人どもに分けてやりたい。
オヤオヤ吾輩と同感の人がいると見えて闇の松を探りにきたよ。どんな人だか詞敵(*注:話相手)になるだろうと松の根に腰うちかけて透かして見れば、ここへ来るは婦人にて年も若き様子なるが松の下に人が居るも居ぬも構わず一散に来て神前に額づき
「南無不動明王母の病気を癒させたまえ」と細やかなる声にうるみを含みて暫く念じ、そのままもと来し方へ足早に立ち去りたる跡は見えねど眺めやり、
ハテ感心な孝行な顔は見えねど心の器量の美しさが思いやらるる
エエ洋犬か吃驚したはエ

第2回
見し人がらの懐かしきも孝行の徳の光り、闇にて顔は分らねど、さぞ美しき女ならん。
年のころは十八、九か、それとも二十を越しているか、何でもその辺であろう。
察するところ母の大病を平癒の願いに夜参りするならんが、石に彫った不動明王が医師の代脈もなさるまいし無益な迷いだが、ただし旧弊育ちの女の身ではそれも少しは心やり病人の神経に感じて思いの外の功があるかも知れないと、
常には女の事などに頓着せぬ男なれどこれは頻りに心に掛かりしと見え、翌日の夜も用を終りて「また今夜も来るかも知れない。様子を見よう」と立ち出でる。
時しも一天に蔽いし雲の袋の口破れて、夕立ちは篠を束ねて降るが如く。
「これでは出られぬ。止めにしよう」と座敷へ座って読みさしの本を取り出せしも、蚊がうるさきゆえ「松下に雨の音を聞くのも一興ならん。この雨にも参詣すればそれこそ真の孝行だ。試みに行ってみよう」と、
わざわざ浴衣を着替えて傘を傾け、「この雨にどこへいらっしゃる」と不審がる清蔵という下男には「ちょっと友達の所へ碁を打ちに行ってくる」といいおいて立ち出でしは
九時頃にてわずか二丁ばかりの御行の松、中音の河東節でたちまち来たり。
どうもいえぬ涼しさだ。平生の熱腸をこの雨で洗って音無川へ流してしまうようだ。
従来物象の妙多く静中に向って知ると淡窓先生の詩もあるが、人は俗務を離れずして己が引き受けた事に出精するは第一の本分ながら、また時あってはそれを脱してこの淋しみの境も経なければ、広大なる造化の妙の一班を知ることは難いものだ。
「来たぞ、来たぞ。あれは違いない」と透かし見れども、闇の夜の殊に降る雨は●しければ、鼻をつままれるも知れぬという程なれば、かの女は外に人ありとも思わず一心に祈念して、やがて傍らに置きし傘を探り立ち戻らんとする様子に、
「もしもし御女中。私もここへ参詣の者だが、この降りの中に女の身で御参詣は、よくよくの願い事でござろう。一樹の陰の雨宿り他生の縁、とかいう事もあれば、仔細によってはお力になりましょう」と呼び止められて、女はギョッとし声する方を振り返れど、
どんな人やら分らねば、なおなお恐ろしく思いてや「宅に病人がござりまして、心が急ぎます。ご免下さりまし」といったばかり、早や石橋を渡り越し行方知れずなりたれば、
小林は打ち笑い「なるほど。暗がりからだしぬけに声を掛けたので仰天して逃げたと見える。これは近ごろ大不出来をやった。松の雫と横しぶきで身体も湿った。どれ帰ろう。思えば我ながらとんだ物好き。しかし男の身でさえ不気味といえば随分不気味なこの堂へ裸足参りか下駄の音もなく、毎夜来るとは感服至極」と
独り心に感じつつ、そのまま我が家へ立ち帰りぬ。

第3回
「旦那。よい鰹が参りました。今日は日曜だから御留守かしらんと実は心配しました。何にいたしましょう」と買うとも買わぬともいわぬうちに盤台を下して俎板を出すとは気の早い魚屋の倅。
面白い男なれば小林も贔屓にして、おりおり俳諧の添削などして友なき折りの話し相手とすれば、この男も外の得意場を廻ると違って心安くし話しながら、鰹を刺身に作り
「おい清蔵さん。大きいお皿と摺鉢を出して下さい。旦那、このアラは私にください」と盤台へ残すに、小林は打ち笑い
「アラを持っていくのはいいが、お前の家で総菜にするなら、それだけ値を引かなくてはいかないよ」といえば魚屋も打ち笑い
「旦那、ご冗談をおっしゃる。まさか。これをお貰いして家へ持って行きはしません。帰りに孝行娘の所へ遣ってゆくのであります。旦那、お聞きなさい。感心な者もあるじゃあございませんか。じきここからこう出て、金杉下町のある裏長屋にいる者ですが、母親と娘の二人暮らしで紙漉き道具の簾を編むのを内職にしていましたが、
先月上旬母親のほうが眼を患い出し、それに付いて余病も起こり、この頃は床についたぎりなれば、常から孝行の娘はしきりに心配し、昼間は看病の片手間に内職をし、夜は御行の松の不動様へ裸足参りをします」というに
さては、と小林はうなずきながら、さあらぬ顔。「ふーん、それは感心だね」と受け答えをするに、魚屋は調子に乗り「お聞きなさい。その孝心が通じてか」といいかけしが、心付きし様子にて
「旦那の前でこういうも可笑しいが、不動様のご利益という訳か少しずつ病気はよくなるが、眼の方はやっぱり悪く、それに医者といったところが生薬屋兼帯の先生だから、なんだかさっぱり分らずに薬の代は随分かかり、それやこれやでお粥がようようという難渋でございます。
もちろん元はよい人でその娘は針仕事をよくするそうですが、近所で仕事を頼むという家もまあ、余りありませんのさ。それに年頃ですから婿を取ったらと勧める人もあるそうですが、いづれ人の家へ入り婿になろうというに良い人も少ないもの。なまじ他人が交じって気兼ねをするよりはと断って、
一人で孝行を尽くしているのが余りに感心ですから、このアラを持って行ってやるのでござります」と聞いてますます感心し、「そういう訳なら俺もなにか恵んでやろう。米や衣類より手つかず金がよかろう。一円持って行ってやれ」と
紙入れから紙幣を出して魚屋へ渡せば「これを恵んでお遣んなさるのですか。それにありがとうございます。さぞ喜びましょう。こうしてご親切の方もあるのに、旦那お聞きなさい。
一昨日の晩だそうですが、あの降りの中を厭わず孝行娘が例の通り不動様へ裸足で参詣して帰ろうとすると、御行の松の下あたりに気味の悪い奴がいてネ、しきりに呼び止めたそうですが、娘は一生懸命に逃げてきて、もう夜はお参りに出られないと昨日から朝にしたそうです。追剥だか何だか、ずいぶん暗い晩にはここらでも油断はなりませんね」というに
小林は「それは俺だ」とも言えず、苦笑いして聞いたり。

第4回
十年、二十年または五十年、百年過ぎて、のちに今のこの世の有り様を追想すれば、当時の人は谷中がいやなら、青山深川墓地地地。「ぽちぽちとみな死にうせて、宮も藁屋も」と詠みたる如く、富貴貧賤の跡は流れる水の行方を尋ねると同じならん。
実に夢の間の境界と悪く澄ましていれれぬ浮世。息あるうちに吊るした亀の子、手足をもがくそののちに幸と不幸は免れず。
落ちぶれ果てし親子あり、元は上野へ立ち入りて世に時めきし者なりしが浮かべる雲の吹き散りし後は、なす事みな外れて追々零落するに屈し、主の病死にいよいよ蓑へ頼む木陰の雨漏りもつくろい兼ねし世帯のしが金杉下町の裏家へ入り母子が僅かの手内職にて笑うことなき日を送りしが、
母がこのごろの眼病に、ある物はみな売り尽くし粥を焚くさえ漸くなれば、顔見合せて溜息の外に言葉はなかりけり。
かかる輩をせ●●廻して世渡りをする烏のお金というが、表口よりしわがれ声にて「おっかさん、ちっとはいいかね。お島さん、例のものは出来ているだろうね」と言われて母よりお島はぎっくり慌てて門口へ出て
「今日は簾が編み上がりますから、これを問屋へ持って行って15銭だけは内金にきっといれますから、もう2,3日」と顔赤らめての言い訳をお金は聞かず嘲笑い、
「いけないよ。毎日同じことばかりでは、待てません。お前が孝行だから一銭三厘づつは取る蚊帳を一銭づつで貸したのに、ひと月と今日で17日になるに、たった先月12銭入れたばかり。35銭を日なしにしてごらん。5厘づつは稼いでいるよ。35銭は貸金にして、蚊帳は今持って行く。さあ出しておくれ。困るのはお前の方より私が困るよ」と容赦なくかけあう所へ
「どうですね、おっかさんは。お島さん、これを総菜にしなさい」とかの魚屋が盤台を出せば、お金は頬を膨らませて
「おやおや、これを買ったの。何だね。鰹の中落ちかなにかで洒落ながら、私の方へよこしてくれないとは酷いじゃないか。これを見てはなお待てない。さあ、蚊帳をよこしておくれ」というを
「さては」と魚屋は悟り「お島さん、ちょっと」と脇へ呼び「これは私の得意先の小林という旦那から、お前の孝行を感心してのお遣いものだ。一円あるよ」「いいわ」「義理の固いことをいわずと、せっかくの志だ●取ておいてくれなくては、私が困る」と無理に渡せば、押し戴き
「おっかさん、これをいただいてもようございますか。はいそれならすぐ、そのうちから」とお金に蚊帳の損料を渡せば、世辞たらたらの現金婆、笑顔つくりて帰りし後には、母子そろって魚屋へ礼を述べるに魚屋は頭をかき
「なに、この魚もその旦那のところから貰ってきたのさ。お礼ながらお出でなさい。いい旦那だからまた心付けを下さるだろう。それに男ばかりで洗濯物や仕立物もあるからお出入りになると都合がいい。何さ、女嫌いの旦那だ。なりなんぞを飾っていくとかえって悪い。私がいっしょに行きましょう」と親切に勧めけり。

第5回
一時の苦情を永世の保存に換え難く断然実行せし浅草公園の改正は、規模を大きいにし体面を新たにし、風致というには乏しけれど士女来遊の設けには適当な位置に、それぞれの飲食店、休息所あるが中にも古物茶屋を●この頃開きし捻り者、変わった人のたちやすら●は、はくらんの薬をはくらん病が買うというにも似たり。
四人噛んだ楊枝を捨てながら、中の一人が声高に「なんと諸君子、古物というもその上神代とか元禄とか頭字を置いて自ずから党を分かつが高尚なれば、俗を離れて、止まり枝が高すぎるし、流行に従って低いところをもてあそべば、俗受けはよいが、気位が低し、春と秋との争いではないが、こいつは裁判がむずかしい。それをまた上下打ち通し、遠いも近いもなんでもかでも、博く愛をと白痴な儒者が仁の字の講義をするように来ては、目も心も忙しすぎて、物をもてあそべば志を失うという小言を免れまい。
何にしても偏らずに往来の真中を歩くというはむずかしい。おっとドブへ落ちるところ、しかしこの公園のドブは煉瓦で畳んで清潔だから、踏み込んでも仔細はない。
踏み込むといえば、この頃根岸の小林が女に踏み込んで大夢中という話をきいた」と一人で喋れば、次の一人が
「これ渡辺氏、君も聴神経がレーマチスに掛ったと見えるね。弁慶先生の深田へ馬を乗り入れて首ったけになっているのを、新しそうに今聞かれたのか。彼は先月上旬からのことだ。何にしろあのくらいの女嫌いがにわかにわが党の主義に変じたのだから、その溺れ方の反動力は激しいそうさ。しかしこれまで弁慶で押し通した者だからいまから、兜巾篠懸を脱いで吾輩へ降参するともいかぬと見え、あくまでもそのことを秘密にして皆にちょいちょいとせぐられても、一向知らぬ顔のところが罪深い。
このあいだもある人が訪れると何か急に障子を立て切ってゴタゴタとの騒ぎ、やがてようこそのご入来と澄まして出たが、例の落ち着きにも似合わず、少し慌てていた様子は変だと思って、座敷へ上がり四方へキッと眼を配れば、つづらへ入れた桜姫ではないが押入戸棚から女の着物の裾が見えたというが、大方その女を戸棚へ隠したものであろう」といったが、
「どうだ、これからこの人数で押しかけ否応なしに尻尾をつかまえ、頭巾を脱がせてやろうではないか」といえば
残らず賛成し、「そいつは近頃面白かろう。それほど秘密にするところを見れば、代物も定めて運慶の作という別嬪だろう。幸い表からも裏からも入られるあの家の追手搦め手をみんな断ち切り、貴落として降参させん」と
遊び仲間の悪洒落に日もやや西に入谷の里を横に通りて根岸へと赴きぬ。

第6回
男女の中にて憐れと感じ、可哀そうと思うことは、時ありていと深き愛情と変わることあり。
色こそ見えぬ香は、隠れぬ闇の梅よりなつかしきものと思えば、小林は何となくその女が慕わしく、また孝行な話を聞き、不憫いとおしと思う心の加わりて、いかなる女かみまほしと平生に似ぬ心起きし所へ
魚屋に連れられて礼に来たりしお島を見れば、優しき姿と思いのほか髪の毛は赤く縮れた顔には疱瘡のあと多く、猪首にして手足も太く、背は低くして横に開きたるは、見所●らになけれども、昔の育ち優しくも挨拶ぶり大人しく、先方の情けに深く感じたる様子にて、言葉すくなけれども何となく小林の肝に沁み、
姿の上には取る所なけれど、心の中の美しさは楊家の娘、孝氏の妹というとも及ぶべからず。
我の婦女を憎むは、かれら皆色を飾り、姿に誇り高慢の鼻●しました口、流し目に気障を売り、人に見られんを第一の喜びとなすが癪に障るゆえなれど、この女の如きはそれに反し姿色に誇る煩いなく内徳自ずから修まりて、かの斉の宣王を諌めたる無塩君、城の資長を助けたる板額女にも似たり。
かつは母に孝を尽くせど貧にして届かざるは憐れむべしなどと一人無暗に心の内に褒めこみ、これより折々物など送りその孝志をば助しにぞ、お島もこの厚き情けに報いんと、折々来りて洗濯物なにやかやと真実に働くうちに、いつしか睦まじき仲となり、小林はこの女をなおよく教育して天晴の者に仕立て、妻を選ぶにただ容貌をのみ取る世間億万の俗物輩の眼をさまさんと思いしが、今まで女嫌いと評判されし身がかような者に手をつけたとは、物好きも極まると悪口の友達に噂さるるも残念なれば、いま一二年は極秘にして、
母の方に預けおき「学問はもちろん、西洋の編み物でも、風琴の稽古でもさあ、来い」としてから表立ち晴々しく呼び迎え、彼が孝行の徳も明らかにしてやらんと我娘か妹を育つるほどに楽しみがり、親族はじめ世間へは伏せおきしを、早くも悟りし友達4人二手に分かれし。
「裏表先生ご在宅かね」と表門の潜りを開ける。折しもお島が来て、袷の裁ち物をしている最中なれば「そら邪魔が来た。これは家へ持っていって截つがよい。早く庭口から帰れ」とトバクサするうち、はや表門の二人は玄関へ上がり、合図に聞かせる笑い声。「時分はよし」と庭口より「小林君お家かね。ちょっとこの辺まで用事があったついでというは失礼ながら、これはだいぶ柘榴がつきました」とわざと大声に入り来る。
前後の敵に小林は狼狽したが、もとより心を隔てぬ友達、さてはこの女のことを聞きしりて、わざと進撃せしならんと思えば、いまさら隠しもならず「当山第一の什物だが、しかたがないお目に掛ける。さあこっちへ」とさっと障子を引き開ければ、四人はどっと打ち笑い「味方の勝利。勝鬨がわりのご祝言。めでたいめでたい」とはやし立て、果ては大騒ぎの酒盛りとなりこの連中が仲人または親許となり
めでたく婚礼の式を行いたりとぞ。お島が思わぬ幸いにも母に孝ある報いというべし。
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2013年06月18日

今年竹(第1節 明治22年)現代語訳および注釈

今年竹(全27節)  (現代語訳および注釈)
作・饗庭篁村

(*1855-1922 号は竹の舎主人 名は与三郎。兄の与三吉は大音寺前で三木屋長屋を経営し、1,000軒はあったとか)

むら竹 第6巻 明治22(1889)年9月16日印刷 9月25日出版 刊行 春陽堂

(*この年2月、陸羯南主筆の「日本」創刊。5月、大槻文彦の「言海」第一巻の初版が刊行。10月、岡倉天心の美術雑誌「国華」が創刊。)

発行者 日本橋区通4丁目5番地 和田篤太郎
印刷者 同所          岡本桑次郎

第1節

「我もまた ふしある人とならばやと うえてともなう 庭の呉竹」とは、福羽美静(ふくはびせい)翁の
(*1831-1907 山口津和野出身 号は木園、硯堂。長州藩の養老館に学び、平田鉄胤に師事した国学者。神道政策に尽力し後に貴族院議員。明治23年(1890)60歳で公職を退き、父美質の暮らす角筈の別荘(現 西新宿3丁目)に転居。6世尾形乾山を招いて別荘内の窯で和歌入りの茶碗を焼かせたという。明治29年に肴屋が刊行した「萬年青銘鑑18号」に「千代八千代 ふかきみどりの根岸松 さかえめでたき 万年青なりけり」という歌を贈っている。養子が福羽逸人(1856〜 農業博士、子爵 日本に初めてイチゴを伝え、福羽イチゴとしてもてはやされた)根岸での居住歴などは不明)

読み歌なるが、その呉竹の根岸の里も今は、昔の静かなるに似ず、汽車の響きに
(*6年前の明治16(1883)年に上野〜熊谷間が開通)

焼場の煙り、
(*2年前の明治20(1887)年に蛇塚に日暮里火葬場が設立)

御行の松は西洋風の3階作りより見下ろされ、
鶯谷は砂利を軋る車の音となり、
(*10年前の明治12(1879)年に大猷院廟跡を貫いて新坂(鶯坂)が通る)

水鶏橋は布田薬師(ふだやくし)の題目太鼓に叩き立てられ、
(*5年前の明治17(1884)7月に上総布田より薬師仏が薬師堂(上根岸117)に遷座した。当時、眼病の治癒のために篭って祈ることが盛んだったという)

藤寺に藤枯れて、
(*円光寺の藤の花は、時期は不明だか火災に罹って枯死したという)

梅屋敷の跡は酒屋に残る。
(*酒屋の「みのや」は平成の世にもなお当地にある)

金魚屋の池は埋められてもボウフラの蚊となるは減らず。
音無川は石灰(いしばい)に濁りて飛ぶ蛍の影を止めず。
(*音無川の川上に製造場ができ石灰灰汁などを流していたとか)
建続く貸し長屋は余りて、三河島に後(しり)を出だし、繁昌おさおさ(*「全く」の意)下町のゴチャ通りに譲らず。
されば、伊香保楼上三味線の音絶えず、
磯部の座敷笑う声に響く。
岡野屋、華族仕立ての汁粉店を出せば、
笹の雪、古格を破って紳士入りの間を張り出す。
登能(のと)屋に西洋料理を引き受け、
神田川に団扇の音高し。
鶯春亭名の如く鶯会の本営となれば、
芋坂下の団子屋は却って酒の善きを売るというに名あり。
万年青師、葉茂りて領主の如く、
(*上根岸64の肴舎のこと。4年前の明治18(1885)年に肴舎から「万年青図譜」が刊行された)

表具師、業盛んにして新道を開く。
(*金杉160に住んでいた宮内庁御用経師の山下七兵衛)

狂人の病院あれば、
(*現代では使われない表現であるが、原文のまま記す。10年前の明治12(1879)年に下根岸46に日本初の私立精神病院として根岸病院ができた)

酒乱の美術家もあり。
(*具体的に誰かを指すのかは不明だが、刊行年の明治22年の夏、岡倉天心は中根岸7番地に引っ越してきているし、彼は根岸派(根岸倶楽部)の中心メンバーとなり、かつ酒乱の美術家であった)

よしやこの世界細かに切れて、この根岸だけ大洋の中に漂うとするも恐らく事を欠く患いはなからんというまでに、便利となり、雑駁となり、押し合いとなり、込み合いとなる。
かかる中にも世に侘びて、昔のままの藪垣に、まとうも寂し昼顔の花も傾ぶく6時過ぎ、片手で押しては開けかねる、ひずみし木戸を引き開けて
「お節さん、お静かですね。もうそろそろ手元が暗くなりましょうに、よくご精がでますこと」というは、50に近いあたりの肝煎のカカア。
「おお、おさがさん。お出でなさいまし。ちょうどお頼みのお浴衣を今仕上げて、持ってまいりましょうと存じたところ」
「いいえ、それは今日でなくってもいいのさ。巡査のおかみさんのくせに針が持てないからと、人仕事に出すとは贅沢じゃありませんか。あのお軽さんがさ」
「でも、お子供衆はあり、お勤めもお骨が折れれば、それだけおうちもご用があり、こうしてよこして下さいますのも、私どものためを思し召してでありましょう」
「大違いさ。それはどうでもいいが、お照さんにもさっき中道でチョッと逢いましたが、おっかさん、どうですあの話は?」
「あの話とおっしゃるのは?」
「まあじれったい。おお痛い蚊だ。立って話もできない。ごめんなさいよ。おやおや大層美しい縮緬に、こんな絣りができますかね。どこの。おお、あそこのですか。お嫁入りの支度。左様ですか。もし、お節さん。こんな衣服を子供に着せたら、親はさぞ嬉しゅうございましょうねえ。あそこの娘ごはいつでも綺麗につくってお出でだから見られるのだが、飾りをとったら……。ねえ、お節さん。これをお照さんに着せたらさぞ立派に似合いましょう……。ねえ、お節さん。親というものは子で苦労しますねえ」と、口占(くちうら)を引く巫女(いちこ)上がり。
お節は、眼の持つ涙をば蚊遣りの煙にまぎらして、煽げど去らぬ胸の雲、重きは梅雨の空のくせ、晴れぬ返事におさがは付け入り
「もし、お節さん。いつぞや話したお照さんの事をどう考えてご覧なすった? かの旦那は髪の毛が長いので恐ろしく見えるけれど、眼は鯨のようで優しい方さ。年は若いし、ご親切だし、末々のためにもきっとよいし、弟御(おとこご)のためにもなる方だから。お望みなさるを幸いに権妻(ごんさい)にお上げなさい。あのお屋敷へ上げておいたとて、そう申しては悪いけれども大してためになる事はありませんよ。お照さんにも話したら、おっかさんさえよければと。ああいう大人しい子だから素直な返事。お前さんの了見次第で楽もできれば、可哀想にやつれているお照さんが縮緬物も普段着になるようになりますよ。まだ鉄道を音ばかり聞いて、お前さん、王子へも行かないというじゃありませんか。ちっとは楽をする身におなんなさい。石稲荷の傍に住むとて、堅いばかりは流行りませんよ」と、弁にまかせて説きつけたり。

第2節
いるものは作らず、作る者はおらず、千歳を契る軒の松も、住み変わる主に世を憂く嘯くらん。虎の威を借る狐罠、鳥三(とりぞう)という者あり。左せる才学あるものにあらねど不思議な人に、不思議に気に入られて、何事も鳥三より持ち込まねば、埒開かず。かえって本尊様よりこのお前立の方、参詣多く従って賽銭蔵に満ちて没落跡の根岸の寮を熨斗付きにて買い入れ風雅めかした人となれり。強欲の者でも風流気がないとは極まらず、悪人にても忠臣孝子の話を聞き、また芝居浄瑠璃にて見るときは涙を流すと同じ事で、鳥三なかなか美術品を愛玩す。ただし取り次いでいくらかその間にて泳ぐなりという評も満更形なしにてもあらざるか。今を這い出し、紳士にて道具屋を兼ねざるはなしと決め込んだ人に逢いては、言い訳の詞(ことば)なかるべし。ここに立ち入る者どもは幇間まがいの書画骨董担ぎまわって御前あしらい、土にて庭をはく情比べ。一人を突き倒して、一人進めば、また跡より小股をすくい、立ち合いで負ければ竈方、きやつめは御前が新橋のを連れて江の島行きのお供を致しまして、先日(以下略)
posted by むねやん at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 饗庭篁村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

根岸の五難(読売新聞 明治21年11月14日)

○根岸の五難
呉竹のなどと奥ゆかしげなりし上野の麓、根岸の里は、いかに鶯渓隠士が筆を揮って弁護さるるもまぬがれがたき殺風景の五大厄難に覆われて、今や裏屋続きのただの場末の汚い町とならんとす。五大厄難とは何ぞや。第一は名に流れたる音無川川上の製造場とやらにて、石灰灰汁等を流すため赤渋の濁り水となり、垣の山茶花一輪落ちても趣きをなさず。第二は日暮里に火葬場あるため、煙は被らねど棺桶の往来となりしこと。第三は空き地は無駄だの勘畧(訳注:考えて事をはかること)より焚付のような長屋を建て並べ、却って町並みを悪くして地価を落とすこと。第四は肥取、夜分となりしより日暮里三河島荒木田尾久辺りより続々出かけし連中、七八時ごろよりまた続々とお帰りになりて是の間に挟まれては駆け抜けても駆け抜けても先にお出でになること。第五は一番怖い事にて例の市区へ抱込み一條(訳注:一件)なり。村では幅が利かないから区の方へ入れてやろうという思召しはありがたけれど鶏口となるとも牛後となるなかれとやらで、これが市区のうちとなりては戸長役場の便を失い、納税や戸籍諸届け等に一日がかりの大不便を蒙るのみか、市区並みの入費が掛っては悠々と庭地を取っては置けぬと裏に裏の小屋を建てついによき人は逃げて、安物残り、いぶせき(訳注:きたなくて不快な)所となりて地価は一層下落すべしと歎ずる者ありという中に、いまだ市区となりては酒の税が高くなる、それが一番難儀なと頭をたたく者もありとぞ。
posted by むねやん at 23:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 饗庭篁村 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする