カテゴリ

2008年05月09日

「根岸及近傍図」解説文および文字情報バージョンアップ完了

2006年11月バージョンから
2008年4月バージョンに
バージョンアップしました。
ただ資料を見ていただければ分かる通り、
依然、不明な点も多く情報提供お待ちしています。

2013年03月20日

参考文献

これまでの主な参考文献(随時更新)

根岸及近傍 第1輯 (昭和56年発行) 根岸倶楽部(市川任三)
根岸及近傍 第2輯 (昭和58年発行) 根岸倶楽部(市川任三)
日暮里の民俗              荒川区教育委員会
荒川(旧三河島)の民俗         荒川区教育委員会
清水誠次 訳 根岸及近傍図 私家版(2006)平成18
新撰東京名所図会 (風俗画報 増刊)  東陽堂(1896-1909) 明治29~42
生粋の下町 東京根岸 (北正史・沢田重隆) 草思社(1987) 昭和62
東京路上細見 3 (酒井 不二雄)   平凡社(1988)昭和63
根岸御行の松(大槻文彦)        御行の松保存会事務所(1926)大正15
将軍・大名家の墓 (河原芳嗣)     アグネ技術センター(1999)平成11
上野公園とその付近 下巻 (豊島寛彰) 芳洲書院(1963)昭和38
下谷繁昌記(明治教育社 編)      明治教育社(1914)大正3
根岸夜話(大熊利夫)          (1974)昭和49
荒川区史 上巻             荒川区(1989)平成元
前野蘭化 3              平凡社 東洋文庫(1997)平成9
鴬の谷 根岸の里の覚え書き(山下一郎) 冨山房インターナショナル(2007)

「根岸及近傍図」の文字情報4(左半分で番地表記内の部分)

「根岸及近傍図」の文字情報4(左半分で番地表記内の部分)

注意
1.例えば「@6」とは、「根岸及近傍図」の解説文の@6で触れられていることを指す。
2.「*」が初めに付いているものは、地図で触れられていないものをあえて注釈者が解説したものである。

<町名・字名>
#200日暮里村大字金杉
明治44年で番地は134〜221番地。
日暮(ひぐらし)の里の旧家や 冬牡丹<子規 明治33>

#201中新田
江戸時代に低湿地を排水し新田開発したものか? 現在の竹台高校付近。明治後期には「大質」という質屋の元締めを行っていた吉田丹左衛門の吉田別荘があった。

#202貝塚 @13

#203上根岸町
大正2年の番地は1〜131番地。戸数788戸、人口男1711人、女1599人。
梅の中に紅梅咲くや上根岸<子規 明治27 發句を拾ふの記>
板塀や梅の根岸の幾曲がり<子規 明治27 發句を拾ふの記>
杉垣に海棠咲くや上根岸<子規 明治31>
冬ごもる人の多さよ上根岸<子規 明治31>
先生のお留守寒しや上根岸<子規 明治33 浅井氏の洋行を送る>

#204臺の下 @10
蛙鳴く水や上野の台の下<子規 明治34>

<番地内の部分 上部より>
#205三河島道 @35
現在の尾竹橋通り(都道補助100号) 改正道路ともいわれる三河島駅前通り(日暮里銀座通り 鶯谷駅前交差点付近から宮地ロータリー付近)は1926(大正15).10.31に全線開通した。1925(大正14).3.18午後3時頃に日暮里町大字金杉字大下り1437(現在の東日暮里3丁目29番地付近)から出火し1700戸余りが燃えたとされる日暮里大火では、この通りの東側で延焼し、改正道路の空間のお陰で西側には広がらなかった。
三河島菜(いかり菜)は、明治40年代には産地が三河島から尾久に移っていたが、漬菜として有名であった。昭和に入ってからは山中湖畔でつくられていたという。
朝霜や青菜つみ出す三河嶋<子規 明治26>
あの子とあの子は三河島(川柳)三河島菜→いい菜漬→許嫁

#206湯や(大字金杉字谷中前)
銭湯。昭和6年にはこの場所に日の出湯という銭湯があった。終戦後はなくなり、その後昭和30年代以降に栄湯(石川憲三)ができたが、2002年ごろ廃業した。

* 同潤会鶯谷アパート(金杉153)
関東大震災の義捐金をもとに1924(大正13)年に設立した財団法人同潤会が1929(昭和4).3.28に竣工。当初は日暮里アパートメントといったが、昭和6年に鶯谷アパートメントに改称。1〜3号館に合計95戸あり管理人室が1戸あった。昭和26年に分譲。平成に入って取り壊しの上、リーデンスタワーが建ち地上96m、29階建てとなった。

*国際理容美容専門学校(金杉147付近)
昭和30年に駒込上富士前町に開校したが、その後手狭になり荒川区日暮里3丁目の土地180坪を地主の好意と当時の町会長である滑川寅松の協力を得て購入し、栃木県の小学校が立て直しのために売却した校舎を日暮里まで搬送し新校舎として昭和33(1958)年に運用開始(木造2階建て)。その校舎も手狭になり、昭和37(1962)年9月10日に鉄筋3階建て370坪の校舎が落成。校舎の屋上に運動場を備えていた。初代校長 松村重貴智。

#209かひづか

#210牧野家(金杉134)
牧野子爵家(明治末期時の当主 牧野忠篤 1870~)右馬允康成系 越後長岡藩主

#211カリコミ店(金杉146)

#212ソバヤ(金杉146)
清廼亭という名か?(大正元年地籍図より)

#213湯ヤ(金杉146) 
藤の湯。正岡家行きつけの銭湯。
銭湯に善き衣着たり松の内<子規 明治30>
寒き夜の銭湯遠き場末哉<子規 明治33>

#214酒ヤ(金杉161)
浜野酒店(浜野矩随の末裔)、「一本堂」の創業地(#226)

#215なかしんでん

#216ソバヤ(金杉196)
大正元年地籍図によれば瓜生外吉。

#217ささのゆき横丁(笹の雪横丁)

#218笹之雪(金杉191) @6,@37
「朝顔の入谷、豆富の根岸哉<子規 明治26>」といわれた。お店には河鍋暁斎(1831-1889)の描いた豆腐を食す恵比寿と大黒の二幅対がある。落語「茶の湯」に登場するとうふ屋は、この店の存在がヒントになっているのではと憶測する。改正道路(旧 笹の雪横丁)が完成した大正15年ごろに「笹の雪」は現在の場所(根岸2−15付近)に移転したと推測する。
うつくしき根岸の春や ささの雪<子規 明治26年1月5日>
鴬の糞の黒さよ豆腐汁<子規 明治26年2月5日 獺祭書屋日記>
鴬の糞の黒さよ笹の雪<子規 明治27年3月14日 小日本>
豆腐屋の門に夜飛ぶ蛍かな<子規 明治28>
朝顔に朝商いす笹の雪<子規 明治30年8月27日 病牀日記>
朝顔の入谷根岸のささの雪<子規>
水無月や根岸涼しき篠の雪<子規>
市の日の朝顔ならぶ ささのゆき<水原秋桜子>

#219カリコミ店(金杉267)
床屋。大正元年地籍図によれば村上耕一郎。(金杉268は魚栄となっている)

#220御隠殿跡 @11
輪王寺宮(輪王寺の名は吉野山金輪王寺に由来する。「上野宮」「日光御門跡」「一品法親王」「三山(日光・比叡・東叡)管領宮」とも呼ばれる。通常は上野にいたが、毎年3回日光に向かった。江戸出立日は4月12日、9月7日、12月26か25日と決まっていた)のご休息所として宝暦4年(1754)に設けられた。第5世公遵法親王の退職した当初は浅草伝法院を御隠殿と称したこともあるが、寛政5(1793)年に普請が完成し公延法親王は当地の御隠殿に移る。その後、文化6(1809)年第一次修理、文政8(1825)年第二次修理、天保7(1836)年第3次修理。
凧あぐる子守女や御院田<子規 明治30年8月27日>
(御院田)人の庭のものとはなりぬ月の松<子規 明治30年8月27日>

歴代輪王寺宮を列挙すると
(寛永寺御門主第1世 天海大僧正(慈眼大師1535-1643.10.2 南光坊とも呼ばれた)、寛永寺御門主第2世 公海大僧正(久遠寿院1606-1695 在職1643-1654公家花山院忠長の子 毘沙門堂門跡)のあとを受けて)
初代輪王寺宮(寛永寺御門主第3世)守澄法親王 (本照院1634-1680 在職1654-1680)
後水尾天皇第2皇子 1647年に上野の山に来られて、1654年に日光御門跡及び寛永寺御門主に、1655年に輪王寺の門室号を受ける。同年天台座主(179代)にも任ぜられたが同年辞す。
2代輪王寺宮(同上第4世)天眞法親王、天真法親王(解脱院1663-1690 在職1680-1690)御西天皇第5皇子
3代輪王寺宮(同上第5世)公辨法親王、公弁法親王(大明院1668-1716 在職1690-1715)御西天皇第6皇子 1698年瑠璃殿(根本中堂)を建立
4代輪王寺宮(同上第6世)公寛法親王(祟保院1696-1738 在職1715-1738)東山天皇第3皇子
5代輪王寺宮(同上第7世)公遵法親王(随自意院1721-1788 在職1738-1752)中御門天皇第2皇子
6代輪王寺宮(同上第8世)公啓法親王(最上乗院1731-1772 在職1752-1772)閑院宮直仁親王御子
7代輪王寺宮(同上第9世)公遵法親王(再任 随♀y院 在職1772-1780)
8代輪王寺宮(同上第10世)公延法親王(安楽心院 1761-1803 在職1780-1791) 閑院宮展仁親王御子
9代輪王寺宮(同上第11世)公澄法親王(歓喜心院1775-1828 在職1791-1809)伏見宮邦頼親王御子
10代輪王寺宮(同上第12世)舜仁法親王(自在心院1788-1843 在職1809-1843) 有栖川宮熾仁親王御子
11代輪王寺宮(同上第13世)公紹法親王(普賢行院1814-1846 在職1843-1846) 有栖川宮韶仁親王御子
12代輪王寺宮(同上第14世)慈性法親王(大楽王院1812-1867 在職1846-1867) 有栖川宮韶仁親王御子
13代輪王寺宮(同上第15世)公現法親王(1846-1895 在職1867-1868  1868.5.15の上野戦争時には根岸から脱出。三河島村名主松本市郎兵衛宅、植木職人伊藤七郎兵衛宅や下尾久、上尾久を転々とし、浅草東光院、市ヶ谷自証院を経て品川沖から船で磐城平へ、さらに仙台に移り奥羽諸藩と行動を共にするが、奥羽諸藩鎮定ののち1968.11.3千住宿を経て京へ向かった。1869.10.4に伏見宮家復帰し、1870.11還俗)伏見宮邦家親王第9子。嘉永元年、仁孝天皇の養子となる。実兄は官軍征討大総督小松宮彰仁親王(京都仁和寺門跡(仁和寺宮純仁親王)だったが戊辰戦争をきっかけに還俗。明治45年に建立された像が上野公園内(元の寛永寺鐘楼跡)にあり)。
伏見宮復帰後、北白川宮能久親王となり、1870.12~1877.7アメリカ、イギリス経由でドイツへ留学し用兵の学術研究を行う。日清戦争で領有した台湾に近衛師団長として赴任したが、マラリアにかかり病死。銅像は日光山輪王寺にあり。
いたはしき法親王の夏書かな<子規 明治28(1895)>
歴代寛永寺御門主の墓は両大師の西側にあるが、3世、4世、6世、8世、12世、13世、14世が実際に埋葬されており、その他の方は毛髪塔あるいは供養塔である。(1世天海は上野公園内旧本覚院の場所に毛髪塔あり。墓は日光山輪王寺)
明治28年に輪王寺門跡復興。元の輪王寺の場所は博物館になっていたため開山堂東南に落成。寛永寺転法輪殿には、その復興の際に三十三間堂の御本坊妙法院から移納された阿弥陀三尊像がある。

#221三島社(上根岸107)
厳島神社。元々は御隠殿内に輪王寺宮が建立したもので、弁財天が祀られていたものと思われる。上野戦争で焼失するが再建。明治34年に元三島神社と合併し、ここには神輿庫を残して売却した(約750坪)。その代金で元三島神社は別当寺であった西蔵院から自分の地所を買い受け独立(それまでは借地)。その後、厳島神社は元三島神社境内で祀られていた。

#222ミコシグラ(神輿庫 上根岸107)
上根岸の神輿庫はいまどこに?

#223ウグイスバシ(鶯橋) @12

#224薬師(上根岸117)
根岸薬師寺。布田の薬師として有名な東金市上布田の薬師と関係があるとか。眼病治療に効果ありとかいわれている。
藤咲いて眼やみ籠るや薬師堂<子規 明治29>

#225ヤクシマヘ(薬師前)

#226一本バシ(一本橋) @8
このあたりの音無沿いの道を「川端通り」と呼んだ人もいたという。また薬局チェーン「一本堂」の名はもともと昭和初期にこの橋のたもとで営業を開始したことに由来しているとの証言あり。また、一本堂の創業者は@8に出てくる浜野矩随と縁続きの浜野酒店を経営していたが、関東大震災後、薬剤師の妻を迎えて薬局に商売替えしたとのこと。
蚊の声もよわる小道の夜明かな<子規 明治27年 そぞろありき>

#227シャシンヤ(写真屋 上根岸127)
大正期は春光堂写真館 納屋才兵衛(弘化4(1847)年-昭和8年  享年87歳)。後に豊田写真館?

#228八石教会(ハチコク教会 上根岸126)
大原幽学(1797-1858 明治期の農村指導者)の教えを奉じ、農作業を実践した教団。ここは男子用の施設であり、女性用の施設は下根岸にあり、北大久保1056(現在の西日暮里4丁目27番地付近)にも支部があった。本部は現在の千葉県旭市長部(現在もここに旭市立大原幽学記念館がある)。石毛源五郎(1832-1915)が3代目教祖となった1874(明治7)以降旧幕臣の入門が相次ぎ、これまでの農村共同体的な組織から反文明開化、反明治的な精神修養を重視する教団として変質した。東京の組織の証言として、「どこまでいくにも徒歩」「髪は切らない」「どんな小さな子でも髷を結う」「収入はすべて教会に納める」「魚は食べるが肉は食べない」「洋傘や外套は用いない」といった表面的な特徴がみられたという。
当所は1881(明治14)年10月20日に上根岸の出張所として定められた。
「当、上根岸は日光山輪王寺御官坊本間相模守の永代所持の副屋敷にて、建て家・庭石・樹木などもそのままである。明治元年以降、本間氏は柳原謙吾へ建て家だけ譲り、本間氏は本屋敷で暮らした。その後、本間氏は本屋敷を加賀前田家へ譲り、柳原氏から副屋敷を取り返してそこで暮らした。それから本間氏は町人の村田氏へ副屋敷を譲渡した。さらに村田氏は旧土佐藩の伊賀氏へ譲った。明治14年に伊賀氏から譲り受けた伊藤悦子、佐藤為信、宮田正之ならびに与惣治らの希望により、同年10月20日八石教会出張所と定めた。庭木に松が5本ありこれが珍しい木なので嬉しいから、この建物を松翠堂と号することとする」(「東京登乃記」幽学記念館所蔵 明治15年9月2日の記述を現代風に書き換えたもの)
ただこの松翠堂と物置は1884(明治17).1.31の午後5時ころ焼失したため、その後再建した。しかし財政事情の悪化から1902(明治35)年頃この地所を1万円余りで売却した。同時に石毛派(新派)と反石毛派(旧派)の以前からの対立が激化し、1906(明治39)年石毛は八石本部を追放され東京に来るが、1907(明治40)年に旧派が中心となって財団法人八石性理学会を設立した。性理学、性学とも称する。
石毛はその後2代目教主遠藤良左衛門が客死した場所であり、その縁で八石の拠点があった滋賀県石部(石部にも現在、八石資料室がある)で過ごし、そこでこの世を去った。
八石の拍子木鳴るや虫の声<子規>

* * (上根岸125、126−1)中村不折宅
中村不折(1866-1943 本名中村ニ太郎 太平洋画会を創設)明治29年頃より雑誌、新聞小説への挿絵を手がける。明治30年代初頭には上根岸40に浅井忠(1856-1907洋画家1900年渡仏)と並びで暮らしていたが、1901(明治34)年フランスへ留学しロラン・ローレンスに師事、帰国後湯島4丁目3番地を経て中根岸31番地に新築し暮らした(一方で明治32年に中根岸31番地で暮らし始めたとの記録もある。平成23年にこの場所で当時の土蔵が再発見されて話題になった)。明治40年代には不折や碧梧桐が書いた六朝文字が流行した。1915(大正4)年5月、およそ3万円で約800坪を購入し、その後昭和18年に亡くなるまで暮らす。購入した建物は中根淑(なかねきよし 1839-1913 漢学者旧幕臣。香亭と号し出版社金港堂の編集長を務める)が建てたもので、土地は日本橋在住の質屋太田惣吉から入手したものと伝わる。昭和11年に書庫として書道博物館を建築。


#229たぬき横丁 今うぐいす横丁
鶯横町塀に梅なく柳なし<子規 明治30年8月27日 病牀日記>
門鎖す狸横町の時雨かな<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

* (上根岸88)陸羯南宅
陸羯南(1857-1907 くがかつなん 本名田中実 津軽藩出身、明治7年宮城師範学校入学、明治9年退学。入学時の校長は大槻文彦だった(在任明治6年〜明治8年2月)。1889(明治22).2.11に創刊した国粋主義的新聞「日本」の主筆)の家。子規の叔父、加藤恒忠の友人で、子規の保護者的役割を果たす。
金杉や二間ならんで冬籠<子規 明治25年11月25日 獺祭書屋日記>
鶯や垣をへだてて君と我<子規 明治29 (陸氏の書生だった佐藤)紅緑に送る>


* (上根岸82)正岡子規宅 
正岡子規(1867-1902 本名 升 愛媛松山藩出身。名は常規、号は獺祭書屋主人、竹の里人)上根岸88番地の陸家の道向かいで明治25年2月29日〜27年1月まで暮らした後、明治27年2月から死去する35年9月までを82番地で過ごした。明治25年12月1日、新聞「日本」の社員となる。明治27年2月には編集長として「小日本」を創刊するが、同年7月に廃刊。明治30年の家賃は5円、明治34年で6円50銭であった。革新俳句の「根岸派」(高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、中村不折、長塚節、夏目漱石)を組織するとともに、万葉調写生主義短歌のグループ「根岸短歌会」(1898(明治31)年〜 伊藤左千夫、岡麓、香取秀真、平福百穂)を立ち上げる。代表作「歌よみに与ふる書」もこの地で書かれたもの。子規全集などの純益により大正12年、1万5千円で前田家から土地を買い取る。昭和2年4月、財団法人子規庵認可。昭和20年4月、空襲のため土蔵を残して全焼。間取りそのままに再建。庭には鼠骨句碑「三段の雲南北す 今朝の秋」がたつ。
鴬の遠のいて鳴く汽車の音<子規 明治25年>
その辺にうぐいす居らず汽車の音<子規 明治25年>
名月や われは根岸の四畳半<子規 明治26>
萩桔梗撫子なんど萌えにけり<子規 明治29 病起小庭を歩きまわりて>
萩植て家賃五円の家に住む<子規 明治30年8月30日 病牀日記>

#231前田家(上根岸82)
加賀前田侯爵家(当時の当主 前田利為 としなり 1885-1942 旧七日市藩<群馬県富岡市>の前田利昭の5男。1900年1月に利嗣の娘 I子 なみこ<後にパリで客死>と結婚し婿養子に。後妻は酒井家の忠興伯の娘 菊子。太平洋戦争でボルネオ守備軍司令官陸軍大将 昭和17年ボルネオで飛行機事故で死去)。本間家から明治初期に購入したもののようである(#228)
板塀にそふて飛び行く蛍哉<子規 明治27>
加賀様を大家に持って梅の花<子規>

#232なかみち
明治後期の根岸のメインストリート。現在もその道筋はかろうじて残っている。
中道を中に梅さく籬哉<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

#233諏訪家(上根岸72) @20
信州諏訪子爵家(高島藩3万石)。明治末期の当主は、諏訪忠元(1870-1941 溝口直正伯爵の弟)。大正14(1925)年7月ごろ、引っ越し移転。

* (上根岸74)河東碧梧桐宅
明治35年3月末〜大正6年4月。同じ番地内での引越しもあった模様。大正6年4月〜大正8年10月までは82番地に移る。その後、兵庫県芦屋へ。

#234梅ヤシキアト(梅屋敷跡 上根岸131) @4,@30

#235酒屋(上根岸131)
みのや(美濃屋) 梅屋敷を開いた小泉富右衛門の子孫が経営していた。

#236ウンドン屋(饂飩屋 上根岸131)

#237カウバン(交番)
根岸町派出所(下谷坂本警察署管轄)。自働電話があった。

* 初音橋
交番前にあった、音無川にかかる橋の名前。

#238かうしんづか(庚申塚 上根岸71)
現在は道路拡張にともない根岸幼稚園前に移動している。刻像塔1基(寛文8年1668.9
月)と文字塔2基(寛文9年 1669.9月・元禄16年 1703.9月)の計3基。
蚊柱や庚申塚に泣く女<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

#239アウシュンテイアト(鶯春亭跡 中根岸41)@30
江戸時代からの料亭。明治18年版「割烹店通誌」では得意料理として鯛の黄身漬、卯の花ちらし、五毛久(ごもく)が挙げられている。「跡」とあることから明治34年頃には一時店を閉じていたのかもしれない。大正になると、卵の黄身だけで揚げた金麩羅料理、白身で揚げた銀麩羅で有名。室壁は根岸土を用い、建物は高い板塀に囲まれていた。
初午に鶯春亭の行灯哉<子規 明治31>

#240かねこやしき(金子屋敷)
文久元年の諸家人名録に見える 抱屋敷と思われるが由来不明

#241オモトヤ肴舎(万年青屋サカナヤ 上根岸63) @38
百両の蘭 百両の万年青哉<子規 明治30>

#242ふじでらまえ(藤寺前)

#243をかの れうり しるこ(岡埜 料理汁粉 中根岸36)
坂本岡埜の分店の料理屋。一名 此花園または古能波奈園。明治22年8月落成し(M22.8.9東京日々新聞)庭園も広かった。東京風俗志中巻(平出鏗二郎著 明治34)には「(汁粉屋)の旧きは、根岸の岡野、木原店の梅園、京橋の時雨庵、池之端の氷月なり」と挙げられている。「風俗画報」や「東京名所図会」の版元東陽堂は明治36年春、ここで懇親会を催した。明治39年2月からは耳鼻咽喉科専門治療所の根岸養生院として、岡田和一郎や菊地循一が看た。

* (上根岸17付近)陸奥宗光宅
(1844-1897 紀伊出身、坂本龍馬の同志。第2次伊藤博文内閣の外相) 薩長藩閥政府の現状に反発し、西南戦争時に土佐派とともに政府転覆を謀ったとして1878(明治11)年に禁固5年の刑をうけ、1883(明治16)年4月の特赦で宮城の獄から出てここに居住。しかし借金返済と息子広吉の留学費捻出のため売却(明治21.2.9陸奥広吉宛て書簡)。

#244カリコミ店(上根岸22) 
子規の文章に登場する「美術床屋」「堀口の中床」
子規の「夕涼み」(明治31年8月8日)には「あるじ自ら彫刻したといふ肖像、うつくしき椅子に並んで」という文章がある。
石像に蠅もとまらぬ鏡かな<子規 明治31年8月>

#245ソバヤ(上根岸19)

#246にざんせうこのみあん(煮山椒このみ庵 上根岸19) @40

#247もとみしままへ(元三島前)
木槿(むくげ)咲て 絵師の家問ふ 三嶋前<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

#248湯や(上根岸36)
銭湯。昭和6年には同じ場所で朝日湯が営業していた。戦後には廃業している。

#249かんちくながや(寒竹長屋)
寒竹とは、竹の一種で茎は紫がかっていて、葉は枝先に数枚あるだけ。竹の子は秋に出てきて食用。生け垣として植えられること多い。
垣間見る寒竹長屋冬の婆<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

* 鶯谷駅
1912(明治45)年7月11日開業。昭和27年5月20日より、上野公園〜根津宮永町〜(言問通り)〜谷中町〜桜木町〜鶯谷駅前〜坂本2丁目(都電21系統と接続あり)〜江戸川区今井橋へと走るトロリーバスが運転開始。短期間で廃止されたとか。

#250元三島社(上根岸42) @28
縁起には、鎌倉時代の弘安の役の際、伊予水軍を率いて伯父通時と共に元軍の船を襲って、敵将を捕虜にし船に火を放って帰ってきたといわれる武将河野通有(-1311みちあり 祖父通信の妻は北条政子の妹)が、伊予一の宮の愛媛県今治市大三島の大山祗神社を、妻の出身(江戸太郎重長の娘)である江戸上野の山中に勧進したのが始まりという。1709(宝永6)年の綱吉死後の第二霊屋造成期に現在の寛永寺墓地あたりにあった旧地が東叡山御用地となり、翌年に浅草寿町へ移転するまでの間、この地にもともとあった熊野社に仮移転していたので、この熊野社を元三島明神というようになったとか。西蔵院が別当寺で、住職が神主を兼ねた時代もあった。明治4年の神社の社格制度発足時、浅草寿町の三島神社が村社であり、元三島神社は無格社であった。明治35年大規模修繕を実施。明治39年4月に「日露戦役従軍将卒記功之碑」(大槻文彦撰 建設委員はこのみ庵の藤澤碩一郎)がたてられ(現存せず)、碑の前にはロシア一等戦闘艦「レトウキサン」浮揚調査時に発見した12cm砲弾2個が置かれていた。大正10年3月26日に村社に昇格。昭和20年3月10日の空襲で焼失。昭和23年に社殿造営。昭和51年に新造営。
例大祭は5月15日。
氏祭 これより根岸蚊の多き<子規 明治35>

「根岸及近傍図」の文字情報3(左半分で番地表記外の部分)

「根岸及近傍図」の文字情報3(左半分で番地表記外の部分)

注意
1.例えば「@6」とは、「根岸及近傍図」の解説文の@6で触れられていることを指す。
2.「*」が初めに付いているものは、地図で触れられていないものをあえて注釈者が解説したものである。

<番地外の部分上部より>
#100王子タバタ道
金杉村に通じる道だったので金杉道ともいったようだ。西日暮里2丁目57番地付近の常磐線の踏切を「金杉踏切」というのはこの道の名に由来する。

#101フダバ(札場)
もともとは谷中本村の高札場

#102田端ステーションへ #172,#176
明治34年当時、日本鉄道(日本で最初の私鉄会社)奥羽線で上野の次の駅。
汽車とまるところとなりて野の中に 新しき家 広告の札<子規 明治32 道灌山>
1896(明治29).4.1に開業。乗客用の上野に対して、貨物用の田端として貨物連結駅としての機能を果たした。奥羽線は、川口〜熊谷間の工事は順調だったのに対して、当初予定していた品川〜渋谷〜新宿〜赤羽〜川口というルートが地形・距離の関係で工事の遅れ必至と見るや、1884(明治15)年8月に上野〜川口の支線の建設開業の認可を得て、10月には測量終了工事着手(この際、土地買収が終わらないうちに工事に入ったりして相当の無理をした様子)、12月までに西ヶ原まで築堤終了と急ピッチで工事を行い、1883(明治16)年7月に上野と熊谷間が開通した。その当時は上野の次の駅は王子、赤羽の順であった。1885(明治18)年日本鉄道品川線(品川〜池袋〜赤羽)が開通。1903(明治36)年日本鉄道豊島線(池袋〜田端)が開通。1905(明治38)年常磐線(海岸線)の開通にともなって、同4月日暮里駅と三河島駅が操業開始。三河島〜日暮里間が開通するまでは、海岸線は南千住から現在の三河島〜田端間の貨物線(隅田川線 明治29年12月開通。田端〜南千住の隅田川貨物駅間。隅田川の水運と日本鉄道の線路をつなぐ役目を担った。ちなみに土浦線も同じ明治29年12月に開通。南千住〜土浦間)を通って田端でスイッチバックをして上野へ向かったという。
明治42年設立の京成電気軌道鰍ヘ、押上から浅草への乗り入れを行う予定だったが、昭和5年に筑波〜日暮里・上野公園間の地方鉄道免許を取得していた筑波高速度電鉄と合併し、上野への乗り入れを決定。日暮里〜青砥間の開通は1931(昭和6)年である。なお西日暮里駅の開業は営団地下鉄が昭和44年、国鉄が昭和46年である。
早稲の香や 小山にそふて 汽車走る<子規 明治27 王子紀行>

*日暮里駅
1905(明治38)年4月開業。1952(昭和27).6.18午前7時45分ごろ、構内上野寄り南側陸橋の山手線側つきあたりの羽目板が、混雑する乗客のぶつかり合いではずれ十数名が高さ7メートルの橋上から落ちたところを下り京浜東北線にはねられ、死者6名(最終的には8名)、重軽傷者7名の事故が発生した。なお、谷中7−12の芋坂児童公園内に慰霊碑があるが、これがなんの事故に関する慰霊碑なのかは不明。

#103ヒグラシ道(日暮道)
日暮道とは、一般には現在の谷中7−5−7を起点とし、西日暮里3丁目の経王寺横〜諏方神社へいたる諏方台通りのことを指す。

#104こじき坂(乞食坂)
現在の日暮里駅南口の階段(紅葉坂跨線橋:昭和3年に鉄道省により架設され、昭和60年にJR日暮里駅南口が開設されたのに伴い幅員4mになった)下付近から、線路を渡った後、本行寺方面にのびる坂道。この道沿いの崖の穴に乞食が生活していたからこの名がついたという。江戸期には鳥追が暮らしていたとか。この坂の上り口あたりに、経王寺などで切り殺された彰義隊員を祀った石塚があったという。線路拡張によって移転。
さらさらと竹の落葉の音凄し<子規 明治27 そぞろありき>

#105石神井用水 @5
最後には浅草の山谷堀となり隅田川に注ぐ。幅は1.8m、深さは60cmほど。山谷堀では江戸期には、吉原への猪牙舟が盛んに往来していた。明治7年頃には蛍狩の名所として、谷中蛍沢、江戸川、小石川田圃、関口姿見橋、浅草田圃と並んで、根岸用水通が挙げられている(大和道しるべ東京の部 瓜生政和著)。ちなみに同書では轡虫の虫聞きの名所としても根岸が挙げられている。
1656(明暦2)年以前にこの用水は掘削され、王子の石堰の上流40mのところで2つに分水し、1つは王子・豊島・十条の上郷用水(管理は「上郷3か村組合」)、1つは23か村を流れる下郷用水(管理は「下郷23か村組合」)と呼ばれたが、1695(元禄8)年にさらにその上流の板橋村字根村に堰(根村堰)ができ、そこからの分流を上郷7か村組合用水というようになったため、前者の2組合は合わせて下郷26か村組合というようになった。江戸期にはこの上郷と下郷の間で渇水期の水争いが熾烈であった。また日照りのときには、村の代表が榛名神社へ出向き雨乞いの祈願をし、榛名湖の水を汲んできて村の田圃に撒いたという。
明治期に入っても農業用水としての役割は大きく、金杉村の明治21年の米の収穫高は698石3斗3升あまりであった。江戸期以降旧慣をもとに運営されていた組合は、明治初年の町村合併で「下郷23ヵ村用水組合」となったが、明治19年府知事認可のもと「石神井川下用水組合」となり、さらに明治23年の水利組合条例の制定にともない、下郷2区6町村の「石神井川用水普通水利組合」に改組し、用水の田畑への配水管理、用水路の浚渫をおこなった。しかしその後の宅地化にともない大正中期までには田圃はほぼ消滅した。農業用水としての機能を失って人々の生活における重要度は急速に失い、このころには「せき」とは呼ばれずに「どぶ」「大どぶ」と呼ばれるようになっていった。そして昭和8年に組合は解散し、同じ昭和8年ごろには根岸の部分は暗渠になったといいう。
別名、音無川というのは熊野権現の若一王子を勧請した王子権現の脇を流れていることから、紀伊の音無川の名をあてた。飛鳥山も紀州新宮の飛鳥明神を勧請したのでこの名がついた。いま音無川の名は日暮里駅東口正面向かって左の荒川消防署の出張所の名として残っているにすぎない。
春の水 根岸にそふてくねりけり<子規 明治28>
下駄洗ふ 音無川や五月晴<子規 明治30.8.27 病牀日記>
柳散り 菜屑流るる小川哉<子規 明治27>

#106したやなか(下谷中)
日暮里村大字谷中本字居村上および居村下。1688年頃谷中町と分離し、谷中本村になる。文政期の戸数は44戸。明治初期まで谷中しょうが栽培の中心地だったが、明治40年ごろには宅地化して産地は尾久に移った。

#107日暮里村役場 
1889(明治22)5月1日に金杉村(石神井用水以南及び飛地の字千束を除く)と日暮里村(下駒込村の飛地及び字南久保の内の1125〜1133を除く)と谷中本村が合併し、東京府北豊島郡日暮里村が誕生し、旧金杉村部分は大字金杉もしくは元金杉と表記された。1913(大正2)年に日暮里町になり、1932年(昭和7)に区制導入に伴い、日暮里町はなくなった。同時に大字は廃止され、字も旧金杉村の地区は日暮里1〜3丁目と名称変更した(例 字杉崎は日暮里3丁目)。村役場は字居村下1110-2にあり、現在の東日暮里5−52−7付近にあたる。

#108善性寺 @14
ねぎし古寺札所巡り第9番。長亨元年(1487)創建とか。長昌院霊廟の別当として、境内2050坪が与えられ、さらに金杉村内に持添年貢地1050坪を有し、足立郡伊刈村にも100石賜っていた。上野戦争時、彰義隊の出屯所となり兵火にかかり炎上した。また、昭和5年には寺前を流れていた音無川が暗渠になるに伴う王子街道の改良が行われ、昭和20年4月には空襲で境内焼失。昭和35年には尾久橋通りの拡張による境内縮小といった遍歴を経て今日に至っている。横綱双葉山(1912-1968 昭和12~13年にかけて5場所連続全勝優勝し、69連勝も達成した。長く時津風親方として相撲協会理事長をつとめる)や石橋湛山(1884-1973 東洋経済新報社主幹・社長、第55代内閣総理大臣。善性寺31世、久遠寺83世管主日謙上人の弟子でもあった)、中村又五郎の墓もある。寺入口に音無川にかかっていた将軍橋(当寺で隠棲した松平清武を家宣がしばしば訪れたのでこの名がついた)の遺蹟が残っている。

#109団子や @15,@39
芋阪も団子も月のゆかりかな<子規 明治27>
名物や月の根岸の串団子<子規>
芋阪の団子屋寝たりけふの月<子規 明治30.8.27病牀日記>
芋阪に芋も売らず団子売る小店<子規 明治30.8.27病牀日記>
芋阪の団子の起こり尋ねけり<子規 明治31 元光院観月会にて>
茶の土瓶 酒の土瓶や芋団子<子規 明治31 元光院観月会にて>

#110長善寺
日蓮宗。慶長2年(1597)円立院日義上人が創設。初めは実蔵坊と称したが、2世の日行上人が長善寺と名をあらためた。鉄道拡張にともない、大正14年杉並区へ移転。現在地は杉並区高円寺南2−40−50で、そこにある三十番堂は下谷中から移築したもの。

#111妙揚寺 
日蓮宗久遠寺末。自然山と号す。鉄道拡張にともない、大正14年(昭和3年1月?)世田谷区へ移転。現在地は世田谷区北烏山4−9−1。

#112いも坂
かつては自然薯がとれたことからこの名がついたという。

#113天王寺 
かつては長耀山感應寺といい日蓮宗であった。1698(元禄11)年、時の住職日遼が不授不施派に属し弾圧され(日遼は八丈島へ島流しに)、幕府の命令で天台宗に改宗し寛永寺に属す(初代住職は信濃善光寺の住職にもなった慶運僧正)。公弁法親王の御願で比叡山横川の伝教大師作毘沙門天を移し本尊とした。鞍馬山の毘沙門天は仏法守護の道場として比叡山の北西にあり、感應寺も寛永寺の北西にあたるため鞍馬山的位置付けで、寛永寺とともに拡大。1700年に富くじの興業の許可をうけ、江戸三富の一つでとして名を馳せ(あとは湯島天神と目黒不動)、1841(天保12)年の天保の改革で禁止されるまで続いた。1772(明和9)年の火事で諸堂全て燃えた。1833(天保4)年に寺の名を護国山天王寺に改める。上野戦争で庫裡と五重塔以外は焼失。1874(明治7)に境内の大部分を東京市に寄付し、共同墓地として使用され谷中墓地とる。いまでも谷中墓地内にかつての天王寺の大仏の跡地(1875(明治8)年に現境内へ移転)や五重塔跡地が点在している。
菜の花の野末に低し天王寺<子規 明治26.3.19 獺祭書屋日記>

#114谷中墓地
明治維新後神道が力をもつ中で、1873(明治6)年に火葬禁止令が出され、墓地の確保が急務となった。そこで1874(明治7)年9月に明治政府は天王寺より15,900坪を新葬地として上地させ、付近の寺地、門前町家を接収して谷中墓地を開くが、火葬禁止令は衛生上の問題や今後の土地確保の問題で1875(明治8)年5月に廃止された。

#115五重塔 
1644(寛永21)年に時の住職日長によって建てられる。1772(明和9)年の目黒行人坂火事にかかり焼け落ちる。1791(寛政3)年、3年がかりで再建。総齣「りで高さ35m。この再建にあったての話を、1891(明治24)年から2年間すぐそばに暮らした幸田露伴が、1892(明治25)年にのっそり十兵衛を主人公にした「五重塔」を発表。1907(明治40)年補修資金もないため天王寺は五重塔を東京市に寄付を申し出、翌年認可。修繕費は3936円8銭という見積もりであった。以降、東京市の所有に。しかし1957(昭和32).7.6早朝、放火心中により焼失した。洋裁の監督(男性48歳)と縫い子さん(女性21歳)の三角関係のもつれが原因という。焼失直後の五重塔を題材にした日本画家、横山操の絵がある。現在は児童公園の片隅に礎石のみ残っている。
冬木立五重の塔の聳えけり<子規 明治27>

#116安立院(あんりゅういん)
もともとは天台宗天王寺の塔頭の一つ。天台宗比叡山安楽院末で律に属していたが、昭和29年に改宗し現在は曹洞宗。

#117徳川家裏方墓地 
徳川家の正室、側室、子女が葬られている(現在墓所内整備中)。同所に田安、清水、一橋の徳川御三卿の墓もある。

#118ごいんでんの坂(御隠殿の坂)
ここにあった踏切が4号踏切。
月の根岸闇の谷中や別れ道<子規 明治27 御院田にて鳴雪、不折両氏に別る>
阪は木の実 乞食此頃 見えずなりぬ<子規 明治27 御院殿>

#119元光院 
寛永寺36坊の一つ。寛永中期に神尾備前守元勝が建立。維新前は中堂西に位置する。
明治30年前後、無住の寺になっていたのを陸氏が借り、日本新聞の倶楽部として観月会などを催した。留守番に寒川鼠骨(1875-1954子規の門人の一人。子規庵保存、再建を主導)を置いた。国立博物館東側に現存。明治40年1月調査の下谷区全図によると、この元光院の一角に本図で記載されている院以外に、林光院、青龍院、観成院もあった様子。
月曇る観月会の終り哉<子規 明治31>
三十六坊 一坊残る秋の風<子規 明治31>
月の出を斯う見よと坊は建てたらん<子規 明治31>
夕飯は芋でくいけり寺男<子規 明治31>

#120普門院
寛永寺36坊の一つ。寛永初期に松平阿波守建立。維新前山下門に位置する。現存せず。

#121寶勝院(宝勝院)
寛永寺36坊の一つ。寛永末期に天海の従弟 権大僧都豪仙の建立。維新前は山下門に位置する。現存せず。

#122見明院
寛永寺36坊の一つ。権僧正盛憲の建立。維新前は中堂東に位置する。国立博物館東側に現存。

#123顕性院
寛永寺36坊の一つ。慶安年間に尾張大納言義直の建立。維新前は山下門に位置する。現存せず。

#124勧善院
寛永寺36坊の一つ。寛文年間に僧正舜承の建立。以前は常徳院といった。宝樹院(4代家綱生母お楽の方。伊勢長島藩にゆかり。徳川家裏方墓地に墓あり)霊廟の別当寺。維新前には谷中口(-1709まで現在の寛永寺中堂の場所)にあったが、大正以降に寛永寺に合併し、現存せず。伊勢長島藩主増山河内守正賢(まさたか1754-1819 号は雪斎)の遺志により文政4(1821)年に勧善院に建てられた「虫塚」(表は葛西因是の撰文、大窪詩仏 (1767-1837)の書、裏は詩仏と菊池五山の詩文)は昭和の初期に移築され、現在寛永寺根本中堂向かって右手にある。

#125墓地入口
この道は、現在も言問通りの上野桜木2丁目の信号から谷中墓地に入る道として現存している。またこの入口の右手(上野桜木2−4 台東倉庫)に京成の寛永寺坂駅があった(1933(昭和8)年12月10日開業。運輸省の疎開(日暮里〜寛永寺間の京成線路に客車を置き事務所とした)などで昭和18年10月〜21年10月まで営業中止。昭和21年11月1日に再開したが、22年8月21日休止。昭和28年3月1日廃止)。

#126現龍院
寛永寺36坊の一つ。稲葉佐渡守越智正成は現龍院道範と称し、この稲葉家が開基のためこの院の名前がある。維新前は山下門に位置する。現龍院墓地(江戸時代から信濃坂上にある)には、家光死去(1651.4.20)の際に殉死した堀田正盛(下総佐倉藩主 品川東海寺にも墓がある 義理の祖母が家光の乳母春日局)とその家臣(奥山茂左衛門安重(小十人頭)遺族が後に改葬し現在はない)、阿部重次(武蔵岩槻藩主)とその家臣4名(鈴木佐五右衛門、小高隼之助、山岡主馬、新井頼母)と槍持1名(村片某 病床にあったため快復した2年後に後追い)、内田正信(下野鹿沼藩主)とその家臣2名(荻山主税助橘氏由比、戸祭源兵衛尉藤原定経)、三枝松土佐守守恵(元書院番頭の旗本 その妻も殉死したが墓は日光山妙道院にあり)とその家臣1名(秋葉又右衛門)、の墓あり。その後、家綱時代の1663年に幕府は殉死禁止令を出した。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

#127五本松 @9,@16

#128津梁院
寛永寺36坊の一つ。寛永初期の津軽土佐守伸義(陸奥弘前藩主3代目)の建立で、先代の信枚の法名「津梁院」にちなむ。巌有院(4代家綱)、浚明院(10代家治)、温恭院(13代家定)、孝恭院(10代家治嫡子家基)霊廟の別当。維新前も谷中口にあり、現在も敷地を縮小しつつも、同所にある。現在墓所は、境内とはかなり離れている。

#129笠松 @9

#130涼泉院
寛永寺36坊の一つ。寛永5年に天海僧正の建立。維新前は中堂の西にあった。現存せず。

#131常照院
寛永寺36坊の一つ。寛永11年に加賀中納言利常が建立。維新前は山下門にあった。現存せず。

#132本覺院(本覚院)
寛永寺36坊の一つだが、中でも最も格式が高い。寛永14年に天海僧正が建立。もともと寛永寺の本坊であり、天海の本院であった。山王社の別当。維新前は中堂東にあった(現在の天海僧正毛髪塔がある場所)。狩野探幽筆「天海寿像」(天海死去の前日に描きあげたという)を有する。大正3年に現在地の国立博物館東側に移転し存続。越前丸岡藩有馬直純の供養碑がある(日向延岡藩主。父晴信はキリスト教徒だったが、直純は棄教のうえかつての島原藩主として天草の乱で島原城攻撃に参加するなどキリシタン迫害の先頭にたった)。山王社、忍ヶ丘稲荷が境内にある。戦争・戦死戦災殉難死者塔もある。

#133等覺院(等覚院)
寛永寺36坊の一つ。寛永初期に俊海法印が建立。維新前は清水門にあった。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

#134浄名院(桜木町41)
寛永寺36坊の一つの律院の浄明院。浄円院ともいった。開基は1666(寛文6)年で浄丹院圭海僧正。初め日蓮宗であったが天台宗に。妙運和尚が1000体地蔵尊建立を1850年ごろ発願し、1880(明治12)年に結願すると次に8万4千体の地蔵尊建立を発願したことで有名(北白川宮能久親王の納めた親王地蔵もある)。へちま供養を旧暦の8月15日に行い、せき、喘息に悩む人の信仰をあつめる。維新前より場所は変わらない。江戸六地蔵のなかで第6番江東区永代寺が欠けているので、明治以降唐金の地蔵を一体つくり、六地蔵の6番の代地蔵となっている。(ちなみに6地蔵の1〜5番は、1番品川区品川寺、2番新宿区太宗寺、3番豊島区真性寺、4番台東区東禅寺、5番江東区霊巌寺)

#135明浄院(正しくは明静院)
寛永寺36坊の一つ、明静院の誤植である。寛永中期に越前宰相忠昌の建立。維新前には山下門にあった。現存せず。

#136福聚院
寛永寺36坊の一つ。正保年間に権大僧都の建立。浄円院(8代吉宗生母)、深徳院(9代家重生母)、至心院(10代家治生母)、慈徳院(11代家斉生母)、香琳院(12代家慶生母)、蓮光院(家基生母)霊廟の別当。維新前には中堂東にあった。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

#137大慈院
寛永寺36坊の一つ。宝永年間に慶海法印の建立。常憲院(5代綱吉)、有徳院(8代吉宗)霊廟の別当。徳川慶喜が1868(慶応4).2.12-4.11の2ヶ月間、蟄居した葵の間(12畳半と10畳)がある(現在の葵の間は一度取り壊しの上、大正3年に少し離れたところに移築保存したものでその際、間の大きさを10畳と8畳に狭くした)。4.11に慶喜は1600人の供を従えて水戸へ向かった。現在の寛永寺は、かつて大慈院であった敷地にたっている。寺内に松平確堂(家斉の第16子。津山藩主。家達の後見)の墓もあるという。
花もまたあわれと思へ大方の 春を春とも知らぬわが身を<慶喜 謹慎時に詠める>

*台東区立上野中学校


#138寛永寺中堂
江戸時代において寛永寺中堂は東叡山寛永寺圓頓院36ヶ院の総本堂であった。1698(元禄11)年に創建され、以前は竹の台(うてな)にあった(現在の上野公園大噴水付近)。紀伊国屋文左衛門はこの中堂の造営で巨利を得たという。建立の際には、比叡山根本中堂より常燈明と竹の台の竹を招来した。本尊は薬師如来(伝教大師作 元禄9年5月に松平定直が江州矢造村石津寺より移す)なので、別名・瑠璃殿といった。両脇侍の月光、日光像は松平清武が出羽立石寺から招来した。中堂は上野戦争で焼失。1875(明治8)年、公許を得て、東叡山の一坊の大慈院の寺域に復興。1879(明治12)年に川越喜多院(川越東照宮)本地堂(1638寛永15年建立)を移転させて中堂とした。この正面にかかっている「瑠璃殿」の勅額は、元の中堂に掲げられていた霊元天皇の筆(もしくは公弁法親王による霊元天皇筆の模写)。本堂前の大水盤は、元禄11年に根本中堂に奉納されたものを移転。また寛永寺通用門にはかつての勧学寮(了翁僧都が1682年に創立した寛永寺の学寮)の表門が移転の上使用されているという。現在、中堂に向かって右側に高さ4mほどの「上野戦争碑記」という阿部弘蔵(一橋家家臣)が明治45年にたてた石碑がある。毎年5月15日を彰義隊忌として中堂にて法要を行っている。
破風赤く 風緑なり 寛永寺<子規 明治27 上野紀行>

*竹台高校
東京市立第四高等女学校として、昭和15年に上野公園内竹台に開校し、その後日暮里へ移転。現在は東日暮里5丁目14にある。

#139明王院
寛永寺36坊の一つ(別名 眞覚院?)。承応年間に天海僧上の建立。維新前には中堂西にあった(現在の芸大の黒田美術館付近)。現存せず。
大河内(松平)輝貞(1665-1747 綱吉に側用人として仕え、後に高崎藩主に。遺言に従い、綱吉の墓に向かいあう形で墓を築く)の墓があったが、後に平林寺(埼玉県新座市野火止)に改葬された

#140東漸院
寛永寺36坊の一つ。慶安年間に水谷伊勢守の建立。大猷院(3代家光)、文恭院(11代家斉)霊廟の別当。維新前までは本坊裏にあった(現在の忍岡中学)。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

<番地外で以下上野山を優先する>
* 寛永寺墓地
第2次大戦で霊廟2万坪の大部分が焼失し、徳川家は先祖の永代供養を条件に寛永寺に移管。1948(昭和23)年1月に第1霊園が開園、その後第2、第3霊園も一般に開放。民間人では第2霊園のオペラソプラノ歌手(特に「蝶々夫人」の主演)の三浦環(1884-1946)、石川賢吉(1883-1964経済誌ダイヤモンド社社主)、長田幹彦(1887-1964 情話文学者。「祇園小唄」の作詞者)、第3霊園では今東光(1898-1977 作家、中尊寺貫主)が有名。

#141天璋院
13代家定の3人目の正室・敬子(1836-1883すみこ 薩摩藩島津斉彬の一門 島津忠剛の娘で、斉彬の養女とし左大臣近衛忠煕の養女として篤姫の名で嫁入りした)の墓。温恭院墓と隣り合っている。

#142第二霊屋
下の法名の前についている漢数字は、霊屋にむかって右側からの並んでいる順番を意味する。1709年以前にはこの場所に護国院、林光院、東円院、松林院があったが移転。空襲で焼ける前までは、奥院前に本殿があった。また現在はこの場所に徳川家第16代徳川家達(-1940)公爵夫妻の笠塔婆もある。

・(三)温恭院
13代将軍家定(1824-1858) 宝塔のみ存す。

・(一)有徳院 
8代将軍吉宗(1684-1751)  宝塔(石造)のみ存す。6月20日に死去したので20日様という呼ばれかたもする。

・(二)常憲院 
5代将軍綱吉(1646-1709)。かつては二天門もあった。現在残っているのは、総唐銅造りの奥院唐門、勅額門、奥院宝塔(上州高崎城主 大河内輝貞の作。本来全て唐銅だったが大戦後前扉が盗難にあい、そこだけ石造)と水盤舎(共に国重要文化財)。現在は綱吉正室 浄光院の墓も谷中より移転し同所にある。1月10日が綱吉(10日様)の祥月命日であり、この日は毎年、将軍及び全諸侯は総参詣といい全将軍の墓に参詣した(その際の諸侯の装束変えの場所としての役割も東叡寺各坊は果たしていた)。

#143孝恭院
10代家治嫡子家基(いえもと 1761-1779 品川での鷹狩の際に東海寺で昼食を食べた後に急死。田沼意次の差配で毒が盛られていたとの伝説あり)の墓

#144第一霊屋
下の法名の前についている漢数字は、霊屋にむかって右側からの並んでいる順番を意味する。霊廟になる前(1680年以前)には津梁院、元光院、円珠院があったが移転。昭和20年3月10日の空襲で焼失するまでは、お墓(奥院)の手前に権現造りの本殿、相の間、拝殿が連結した建物があった。現在はその礎石のみ残る。

(一) 文恭院 
11代将軍家斉(1773-1841 大の日蓮宗信者で、妾のおみよの実父が雑司が谷に日蓮宗感應寺を建立した) 宝塔のみ。以前は宝塔の前に唐門、拝殿、中門が整備されていた様子。

(二)浚明院
10代将軍家治(1737-1786) 宝塔のみ。もともとは唐門、拝殿、中門が揃っていたはずだが明治初年に取り除かれた模様。

(三)巌有院 
 4代将軍家綱(1641-1680)。かつては二天門もあった。1698年の大火で焼失し、綱吉が1699年に再建。現在残っているのは、勅額門、奥院唐門と水盤舎が残る(共に国重要文化財)。参道にあった二天門から明治初年に勅額門へ移動してきた増長天、持国天は慶安年間(1648-52)の作で、昭和32年に浅草寺二天門に移動し現在も安置されている。また、現在の寛永寺の銅鐘は、巌有院廟に1704(宝永2)年に奉納されたものが移されて使用されている。1927(昭和2)年12月31日にラジオで初めて除夜の鐘が放送されたのが、この鐘の音であった。

#145大猷院霊屋アト @25
大猷院廟になる前、ここには護国院、林光院があったが移転。家光の法要は寛永寺で行われたが、埋葬は日光山に行ったので、寛永寺には霊殿のみ建立された。大猷院廟は、1720(享保5)年の焼失後、巌有院廟に合祀された。この霊屋に献上した銅鐘は現在両大師(輪王寺)の鐘となり、水盤舎が現在両大師の鐘楼として使用されている。現在の両大師と国立博物館の間の道は旧参道で、石燈籠が立ち並んでいたが、ほとんど散逸(紀伊、尾張、水戸の御三家のものだけは両大師本堂前に参道の両側にならんでおり、数基はアメリカのポトマック河畔にまでいっているとか)。江戸時代には寛永寺全山で2000余りの石燈籠があったという。

#146しんざか(新坂)@25
江戸時代にも「お女中道」と称する細い道が通っていた。明治12年に大猷院廟跡を貫いて坂道を開設。別名・鶯坂ともいう。ここにあった踏切が3号踏切。また坂上には大正2年当時、東園派出所があった。
新阪を下りて根岸の柳かな<子規 明治30.8.27 病牀日記>
(新坂上)見下ろせば灯の無き町の夜寒かな<子規 明治32.10.12 夜寒十句>

#147トウゼン山(東漸山)
東漸院がかつてあった場所。昭和20年3月の東京大空襲の際、この場所に下谷や浅草での遺体を仮埋葬し、その後移葬した。以前は照崎と呼ばれる上野山の岬の一つであったという。現在は忍岡中学になっている。

*台東区立忍岡中学校
出身者:女優坂井真紀、落語家林家いっ平


#148鶯亭
料亭、宴会場。下谷繁昌記では経営者は七條尚義。現在上野公園内に新鶯亭があるが関係不明。

#149五葉松 @25

#150音楽学校
1880(明治13)年に本郷の文部省用地にできた音楽取調掛が、1890(明治23)年2月に上野の文部省用地(西四軒寺跡)に移転し、同年5月12日に開校。開校時には日本初の音楽ホールとなった奏楽堂も完成した(昭和4年10月に日比谷公会堂ができるまでは、洋楽のメッカだった。現在は上野公園内の旧東京都美術館跡地へ昭和62年に移築保存された。昭和63年 国重要文化財指定)1893(明治26)年に名を東京音楽学校から高等師範学校付属音楽学校に改める。1899(明治32)年4月、東京音楽学校に再改称。修業年限は本科(声楽部、器楽部)が3年ないし5年。甲種師範科(中等学校音楽科教員)3年、乙種師範科(小学校音楽科教員)1年となっていた。麻布の紀伊徳川家に設立された南葵楽堂にイギリスのアボットスミス製パイプオルガン(日本最古のコンサート用オルガン)が納められ、大正9年11月にオルガン披露演奏会が行われたが、その後大正12年の関東大震災で楽堂が破損したため、昭和3年に徳川頼貞侯爵はこのオルガンを奏楽堂に寄贈した。昭和24年5月、美術学校と合併し東京芸術大学となる。

#151新帝国図書館
旧大学(開成学校)講堂を仮館として1872(明治5)年4月に設立。1885(明治18)年6月上野公園東京教育博物館構内に移り、その後この地に書庫、閲覧室を新築。その後、東京書籍館、帝国図書館、上野図書館と名称を変更。1895(明治28)年当時、男女を問わず満15歳以上の者が使用できたが、1回閲覧するのに特別求覧券(特別閲覧室利用用)5銭、尋常求覧券3銭を必要とし、館外貸出には特許票(年5円)を購入しなければならなかった。1年間で69,913人が利用したというが、女性の利用者は非常に少なかった。現在の建物は、1906(明治39)年に竣工したフランスのアンピール様式のもので、1929(昭和4)年に一部増築し、1949(昭和24)年に国会図書館支部上野図書館となったが1998(平成10)年に閉館。安藤忠雄により改築され、国際子ども図書館として2000(平成12)年から運用を開始した。前にある小泉八雲記念碑は昭和9年頃に土井晩翠が、早世した息子英一の遺志であった記念碑建設を、上野図書館長松本喜一氏と彫刻家小倉右一郎氏の支援により成就したもの。

#152二天門アト
第2霊屋への入り口にあった門(「東都下谷絵図(嘉永図)」に記載あり)
風に散るや ただ古松葉 青松葉<子規 明治27 上野紀行>
こぼるるや日傘の上の 椎の花<子規 明治27 上野紀行>

#153二天門アト
第1霊屋への入り口にあった門(「東都下谷絵図(嘉永図)」に記載あり)。明治初年に取り壊し、二天は勅額門の両翼に庇をつけて納めた。昭和32年に勅額門は旧態に戻し、二天は浅草寺二天門に移した。

#154帝国博物館構内 
1625(寛永2)年に創建された寛永寺旧本坊の跡。現在、奥に博物館庭園があるが、本坊のころの名残をとどめるものは、東洋館北側の築山、中央の池のごく一部、そして越前藩有馬家の墓石だけである。さて、彰義隊は一橋徳川家家臣が中心となり1868.2.23に発足し、謹慎中の慶喜の警護・歴代将軍霊廟と徳川家の文書宝物保護のため、上野の山に立てこもり始めた。江戸城開城の決定を受けて1868.4.11に慶喜が水戸に向かうと一部脱退者もでたものの大部分は残留し、やがて閏4月を経て5.15の上野戦争になった。戦後のどさくさの中で放火、略奪に見舞われ寛永寺の伽藍の大部分は焼失した。ただ、旧本坊の表門は残り、帝国博物館の正門として使われたが、関東大震災後の本館改装にともない、昭和12年に輪王寺に移動(国指定重要文化財)。また現在パゴダとなっている大仏殿も焼失をまねがれたが、後にとりこわしとなり露座になった。
内務省用地で開催された明治14年第2回内国勧業博覧会で美術館として使用されたジョサイア・コンドル設計の建物を本館として用い、明治15年日比谷の山下町博物館(現在の内幸町1丁目。旧薩摩藩邸、後の鹿鳴館の場所)にあった博物館施設が移転する形で「内務省博物館」が開館。明治19年に宮内庁管轄となり、明治22年に帝国博物館、明治33年に東京帝室博物館に名称変更。明治42年には時の皇太子(大正天皇)ご成婚のお祝いで表慶館が開館。関東大震災で本館が大破し、昭和13年2代目の本館が開館した。昭和22年に東京国立博物館に名称変更。平成11年には皇太子殿下のご成婚を記念して平成館も開館。(収蔵品9万点、重要文化財577点、国宝89点)
草桜や 柝(キ)うつて締むる博物館<虚子 明治37>
蟲干の 数に入りけり土器石器<子規 明治27 上野紀行>

#155徳川家墓地
明治・大正期には徳川御三卿(一橋、清水、田安家)の墓であった(現在は徳川家奥方墓地付近へ移動)。現在はこの場所にかつての寛永寺36坊中(他所にあるのも含め現存するのはうち19)15寺が移転してきている。この東側には第二次大戦後、戦災死者合葬墓地なるものがあり、また北西隅には大正2年には東園派出所(下谷上野警察署管轄)があった。

#156図書館
芸大構内に現存する、明治9年に文部省が作った教育博物館(明治4年12月に湯島聖堂で開催した日本初の博覧会を機にできた東京博物館が移転の上改名し、明治14年には東京教育博物館となるが、財政上の問題で明治19年3月閉館。後に昭和6年に開館する国立科学博物館につながる系譜)の書庫か(明治13年築 2階建てレンガ造り)、もしくは同じく現存する明治19年築の旧東京図書館の書庫(3階建てレンガ造り)であろうか。このころ(明治33年頃には)美術学校の図書館として使用していたのかもしれない。

#157美術学校
明治18年11月に置かれた図書取調掛を前身とし、明治20年に小石川植物園で設立。明治21年12月に東京へ移転し、翌22年2月1日より授業を開始。当初は教育博物館を校舎として使用した。生徒は入校1ヶ月以内に古代風ですこぶる目立つ制服制帽を調製し着用すべしと定められていた。修業年限は本科(8つのコースに分かれていた)が5年、図画師範科3年だった。現在この場所には黒田清輝の遺志を継ぎ美術の振興のため昭和3年に建てられた黒田記念館がある。

#158カウバン(交番)
帝室博物館派出所。この交番には明治40年ごろには自動電話所も設置されていた。
ちなみに大正2年当時、自働電話の下谷区での設置場所(本地図にからむ所)は、
上野桜木町22番地先
上野停車場入口及び出口
上野停車場内3ヶ所
上野帝国博物館内3階
上根岸町131番地先
下谷坂本町3丁目
下谷金杉上町
善養寺町の10ヶ所であった。
この場所は後に京成の博物館動物園駅(昭和6年竣工、8(1933)年12月10日開設、1997年(平成9)休止。2004年廃止)となった。現在もシャッターが降りた駅の入り口を見ることができる。日暮里から先の京成の延長は帝室博物館の宮内庁管轄の御料地だったため調整に手間取った。工事は昭和7年9月より全工区を3つに分けて着工したが、正式に枢密院会議にて有償の地上権30年設定につき了解がでたのは昭和8年3月8日のことであった(「枢密院会議議事録」第71巻329-339ページ、東大出版会)。昭和8年12月10日日暮里駅〜上野公園駅間が完成し開業。昭和28年に上野公園駅は京成上野駅に名称変更した。

#159動物園マへ(動物園前)
日比谷の山下町博物館(現在の内幸町1丁目 旧薩摩藩邸)で博物館と併設されたいた畜産所が移転し、明治15年3月20日に開園。敷地面積7000坪、動物は7種でスタートした。明治19年、宮内庁管轄になり、帝室博物館の付属と位置付けられる。園内には寛永寺時代の名残で、子院寒松院(彰義隊の本営となった)にあった伊賀上野藩藤堂家の墓や家光を接待した茶亭閑々亭(寛永4年建立、上野戦争で焼け明治11年に復元)が残っている。大正13年の時の皇太子(昭和天皇)ご成婚記念で宮内庁から東京市に下賜されたため、正式には恩賜上野動物園という。戦後規模を拡大し、五重塔付近や不忍池岸にまで広がり、昭和32年には園内モノレールが敷設された(モノレールとしては世界で2番目、日本初だった)。
夏瘦と しもなき象の姿かな<子規 明治27 上野紀行>

#160屏風坂通
上野12門のうちの一つ、屏風門に続く坂道。下谷に抜けることができた。地図で見られるとおり、美大方面は美大の正門口に直結しており、行き止まりだったようである。維新前には錦小路と呼ばれ紅葉が多く植えられていた。なお、この坂より一本、上野駅寄りの坂が車坂であるが、車寅次郎の苗字はこの車坂生まれであることに因んでいるという。

#161しなのざか(信濃坂)
維新前はこの登り口に上野12門の一つ、新門(坂本門あるいは坂下門ともいう)があった。江戸期においては、開門は明けの6つ、閉門は暮れの6つという決まりがあった。おそらく上野の山の時の鐘に従って開閉していたのだろう。

#162したでら通(下寺通)
ここにある踏切が2号踏切。この通りに沿って、維新前には寛永寺36坊のうち11寺が南北に連なっていた(山下門にあった寺)。ただいずれの寺ももともとは山上にあったので、各寺の墓地は全てその後も山上であった。

* (欄外メモ)上野公園に絡む明治期以降の重要な年月日
1876(M9).4.14 上野精養軒(本家は築地)のオープン   
(掛茶屋や明暁庵という僧庵をとりこわした跡地にたてる。同時に浅草山谷の八百善も出店したが、こちらは大正2年までに櫻雲台、梅川楼、常磐華壇と営業が変わった)
1876(M9).5.9 上野公園の開園 
1877(M10).8.11~11.30 第1回内国勧業博覧会(会期は102日間)
(入場者454,668人、当時の東京市15区の人口は73万人。王子〜根岸間の道も大にぎわい)
1879(M12).8 米前大統領グラント将軍夫妻歓迎式典
1881(M14).3.1~6.30 第2回内国勧業博覧会(会期は122日間)噴水が評判に。
1884(M17).3~1887(M20)0R1894(M27) 不忍池競馬場開設
(今の水上動物園付近に馬見所があり、東西300m、南北450m、周囲1,400m その後、明治31年11月には自転車競技会の会場となった)
1889(M22).8.26(旧暦の8.1) 家康入国300年祝典(家康の江戸城入城は1590(天正18)8.1)
1890(M23).4.1~7.31 第3回内国勧業博覧会(日本初の電気鉄道登場。水族館が開設)
1893(M26).6.29 福島中佐単騎シベリア遠征歓迎会
1895(M28).12.9 日清戦争戦勝祝賀会(池の植物を引っこ抜いて、戦艦「定遠」の沈没を再現)
1898(M31).4.10 奠都30年奉祝会
1898(M31).12.18 西郷隆盛像(高村光雲作)の除幕式
1905(M38).10.24 日露戦争祝捷東郷大将凱旋大歓迎会
1907(M40).3.20~7.31 東京勧業博覧会      
1907(M40).10.25 文部省第一回美術展覧会開会
1913(T2).6.25~ 明治記念博覧会
1914(T3).3.20~ 東京大正博覧会(日本初のエスカレーター登場)
1915(T4).7     江戸記念博覧会
1917(T6).3.15~5.31 奠都50年奉祝博覧会
1920(T9).5.2(日)   第一回メーデー
1922(T11).3.10~ 平和記念東京博覧会
1926(T15).3.19~5.17 第2回化学工業博覧会
1926(T15).5 東京都美術館完成(現在のものは昭和50年竣工)
1928(S3).11.13~ 大礼記念国産振興東京博覧会(日本初の和服を着た女性マネキンガール登場)
1930(S5).3~ 海と空の博覧会
1931(S6) 国立科学博物館開館
1948(S23)~1958(S33) 日没以降の立ち入り禁止期間(警視総監が男娼に殴られたのがきっかけ)
1953(S28).4 水上音楽堂の完成
1959(S34).6    国立西洋美術館開館
(フランス政府から松方コレクションを取り戻す受け皿作りとしてル・コルビジェの設計で建設)
1960(S35).7 不忍池干上がる
1961(S36).4.7   東京文化会館開館(江戸開府500年記念として)
1962(S37).5.10 竹の台の大噴水通水式
1964(S39).10 水族館の開館(東洋一といううたい文句で)
1964(S39).11.29 清水堂下に黒門復元し開扉式

<番地外以下線路向うの桜木町方面>
#163さくら川(桜川) @27

#164とくがはながや(徳川長屋)@26
明治期には徳川家の地所だったため、このように呼ばれた。

#165カウバン(交番)
交番の交代時の夜寒かな<子規 明治32.10.12 夜寒十句>

#166しんざかした(新坂下)
大戦直後には道の両側に露店がならび、闇市と化したため別名ヤミ坂とも呼ばれた。

#167櫻木町(桜木町)(坂下東北部は1−6番地まで 現・根岸1丁目)
江戸期は寛永寺の領域で、特に地名はなかった。明治10年に桜木町と称したいと寺側より希望がでて命名された(M10.5.10 読売新聞)。大きく2ヶ所に分かれ、坂下東北部エリアと上野公園西北部(現在の上野桜木2丁目周辺)を指した。桜木町全体で番地は1〜55番地。大正2年で戸数471、人口男983人、女744人。

#168鶯谷 @26
上野新坂下の桜木町の俗称。
片側は鴬谷の薄哉<子規 明治30.8.27 病床手記>

#169シオバラ温泉(志保原温泉 桜木町4)
旅館。群馬塩原の温泉水をとりよせて浴場とした。料理や庭園で名高く、「伊香保・志保原」と並び賞された。

#170イカホ温泉(伊香保温泉 桜木町2)
江戸前会席料理店(明治40年代の代表は3代目の清水榮太郎、大正9年からは朝岡善四郎)。元々は「玉の湯」という銭湯であった。明治15年頃、群馬県伊香保温泉から鉱泉を取り寄せて伊香保温泉の支店として温浴を開始。1912(大正元).10.17には青鞜が一周年記念会を行う。美術工芸の親睦団体「国華倶楽部」(会長 東京美術学校長 正木直彦 大正2年で会員380余名)の事務所にもなっていた。建物は建坪1階292坪、2階97坪で寺崎広業・山田敬中が松の樹を描いた大広間舞台の杉戸や数奇を極めた庭園で有名。建物の一部は宗教団体(ひとの道教団)の布教所として戦後まで存続。
ささ啼やうすぬくもりの湯の煙<子規 明治25.12.14獺祭書屋日記>

#171鶯渓医院(桜木町1)
高松病院ともいう。現在の「華調理製菓専門学校(創立昭和21年)」付近。幕府の奥医者で五稜郭に立てこもり官軍と戦った経歴をもつ、高松凌雲(1837(天保7)-1916(大正5))の建てた病院。大槻文彦の主治医であった。明治12年3月には高松凌雲ほか3名で社団法人同愛社をこの地に創設し、貧窮者への無料施療を行うため東京市と市中の診療所を仲介する役割を担った。(吉村昭/著「夜明けの雷鳴」参考)

#172鉄道
日本鉄道は日本で最初の私鉄会社として明治14年11月に資本金2000万円で設立し(社長は薩摩出身の吉井幸輔。出資者としては岡山藩主池田章政55万円、岩崎弥太郎30万円、岩倉具視4万円、高島嘉右衛門2万円といった具合)、1883(明治16)年に鉄道運行を開始した。明治33年には「鉄道唱歌」が刊行され(第2集が奥羽線)明治の唱歌として最も愛唱された。1906(明治39)年3月公布の鉄道国有法により、国有化し日本鉄道株式会社から鉄道国有線となった。明治40年頃の上野発着の路線は、奥羽線(上野〜青森)、海岸線(上野〜水戸〜岩沼〜仙台)、中仙道線(上野〜高崎〜前橋)、信越線(上野〜高崎〜長野〜直江津)、山手線(上野〜赤羽〜池袋〜品川〜新橋、上野〜田端〜池袋〜品川〜新橋)の5路線である。日本鉄道の創設者の一人、白杉政愛(1842-1921)は金杉153番地に居住し、1925(大正15)年ころ池袋に転居。

#173善養寺町
江戸時代に上野の宮ご用達、青物・花物(御八百屋)扱いの駿河屋田辺甚右衛門が寺表門、南角に店を構えていた。享保3年、町奉行扱いとなり善養寺門前と称したが、明治2年10月に善養寺町に。番地は1〜13番地(5,12が大正2年には欠番)。大正2年で戸数14戸、人口男31人、女22人。

#174善養寺 
天台宗。天長年間(824-834)に慈覚大師(794-864)が草創したという。本尊は慈覚大師作薬師如来(かつては小野照崎神社の本地仏だったとか)。もともとは上野山内にあったが寛文年間(1661-72)にこの地に移転。その後、鉄道敷設に伴い明治45(1912)年に巣鴨に移転。現住所は豊島区西巣鴨4−8。本堂内に江戸三大閻魔(他は杉並区松ノ木の華徳院、新宿の太宗寺)の一つと称される閻魔像(かつては正月16日と7月16日が縁日だった)があり、この像は運慶の作という(栃木の足利学校にあったものを移設したとか)。小野照崎神社の石造の祠があり、「尾先照稲荷祠 天長二乙巳年安置」との銘がある。尾形乾山(1663-1743 京都の呉服商雁金屋の三男。兄に光琳。1718年に公寛法親王に随伴して江戸へ。1823年に酒井抱一によって墓が発見される)の墓あり。この墓は、巣鴨移転時に鶯谷「伊香保」の国華倶楽部(美術雑誌「国華」は高橋健三・岡倉天心によって明治22年に発刊され、現在も朝日新聞出版から刊行されている)に置かれ、大正10年国華倶楽部の移転によって、寛永寺に移動。その後、巣鴨の善養寺に引き取られた経緯がある。そのため現在も墓の複製と抱一の建てた「乾山深省蹟」が寛永寺中堂向かって右側にある。うきこともうれしき折も過ぎぬれば ただ阿けくれの夢ばかりなる(乾山墓碑より 乾山辞世の句)

#175カウバン(交番)
坂本町派出所(下谷坂本警察署管轄)

#176上野ステーションへ 
上野停車場は1883(明治16)年に開設。同年7月26日に小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王、伏見宮貞愛(さだなる)親王の3兄弟が上野〜熊谷試運転に乗車し、28日に本開業。機関車「善光号」は2時間24分で上野〜熊谷間を結び1日2往復した。ステーション広場前にあった団子屋は汽車の発車待合で繁昌した(現在の岡埜栄泉総本店のこと)。また、小荷物は上野駅で対応したものの、大荷物は秋葉原に集結し取り扱いを行った。
その後の上野駅の歴史は
1884(M17).6.25  明治天皇を迎えての上野〜前橋間(片道4時間)の開業式
1885(M18).7.16 上野〜宇都宮間(4時間58分)開通、あわせて洋風煉瓦造りの瓦葺2階建て駅舎が完成。新橋ステーションと規模を競う。
1887(M20)   上野〜仙台間(12時間20分)開通
1891(M24).9.1 上野〜青森間(26時間25分)開通
1892(M25).10  上野〜大宮間複線化
1896(M29)   海岸線 上野〜田端〜水戸間開通
1897(M30)   海岸線 平まで延長(後に仙台へ)
1900(M33) 上野駅構内に日本で初めての「自働電話」設置
1905(M38)   信越線 上野〜新潟間開通
1907(M40)   奥羽線 上野〜秋田・山形間開通
1909(M42) 山の手線 新橋(烏森)〜新宿〜池袋〜田端〜上野間開通(環状化は1925(T14))
1923(T12).9.2  関東大震災で2日午後5時30分頃焼失
1927(S2).12.29 上野〜浅草間が日本初の地下鉄として開通(東京地下鉄道梶j
1932(S7).3.31  地上2階、地下1階の鉄筋コンクリートの新駅舎竣工(当時東洋一といわれた現在のもの)。構造に構内タクシーへの対応を行った。また鉄道弘済会の日本初の店が東京駅とともに各5店舗オープン(当時まだ自動連結器が装備されていなかったため、年150人が殉職し1000人が公傷となるという危険な職場であった。国からの労災補償もほとんどなかったため、遺族の生活支援のため、鉄道弘済会売店の売上を救済資金にしようとした。愛称のキヨスクは昭和48年8月1日より使われだす)。
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく<啄木>

「根岸及近傍図」の文字情報2(右半分で番地表記内の部分)

「根岸及近傍図」の文字情報2(右半分で番地表記内の部分)

注意
1.例えば「@6」とは、「根岸及近傍図」の解説文の@6で触れられていることを指す。「#6」とは、「根岸及近傍図」の文字情報の解説の#6で触れられていることを指す
2.「*」が初めに付いているものは、地図で触れられていないものをあえて注釈者が解説したものである。

<町名・字名>
#50中根岸町
大正2年で、番地は1~113番。戸数726戸、人口男1552人、女1374人。

#51下根岸町
大正2年で、番地は1~108番。戸数639戸、人口男1325人、女1134人。


<番地内の部分上部より>
#52大空庵(下根岸62) @1
ねぎし古寺札所巡り第2番。寛永寺の御抱所として学僧が朱子学を学ぶところとして江戸中期には機能していたが、享保13年10月に法親王が湯島の霊雲寺に下賜し、霊雲寺の末寺となった。その後、霊雲寺の塔頭の1つである妙極院の管理下にある。留守居役を尼僧が2代つとめたことがあったので尼寺といわれたが、尼寺であったことはない。また、霊雲寺講という講中があり、御行の松をなどを回っていた様子が東京名所図会「下谷区」(風俗画報増刊)の挿絵(明治41年2月11日の絵)に描かれている。
63番地の前にある音無川にかかる橋は「大塚橋」といったとか。

#53うしろや
この意味するところ不明(教えてください!)

#54西のつま
この意味するところ不明(教えてください!)

(#53と#54を合わせて「後ろや西の端」(後ろのはじ、西のはじ)と解するべきかと考える。西とは金杉町や千住道などの繁華街から西の方向であることから。明治30年代には三河島田圃がずっと広がっていた)
涼しさの はや穂に出でて早穂の花<子規 明治27.8 そぞろありき)
横雲に 朝日の漏るる青田かな<同上>
夏川の泥に 嘴入るる家鴨かな<同上>
夏柳 家鴨やしなふ 小池かな<同上>
夏木立 村あるべくも 見えぬかな<同上>
かたよりて右は箕の輪の茂りかな<同上>

#55浅野家(金杉301)
不明(教えてください!)

#56柳生家(下根岸98)
明治20~30年頃、子爵柳生俊郎宅(高家 武田信之五男、大和柳生藩主1万石)

#57抱一アト(抱一跡 下根岸86)@17
雨華庵の朝 酒盛や むし鰈<岡野知十 明治34>

#58しょうゆぐらまへ(醤油蔵前)
安政年間(1854~1860)に醤油商 唐木屋の蔵があった

#59カリコミ店(下根岸66)
床屋

#60長岡家(下根岸57)
子爵長岡護美(もりよし 熊本細川家の分家で斉護の六男、後に伯爵に昇爵)の別荘

#61鵬斎アト(下根岸57)@18

#62根岸病院(下根岸46)
明治12年に出来た日本で最初の私立精神病院。渡辺道純医師により開設。2代目の院長は松村清吾。精神医学の森田正馬(森田療法の確立者)が医長、顧問をしていたこともある。当時、周囲は高い塀に囲まれていたという。昭和13年に火災により病院、病棟の大半を焼失。昭和20年には戦災で本院全焼。昭和13年に分院を開設した国立へ昭和21年に移転し、名前も根岸国立病院となる。現在地は府中市武蔵台2−12−2。

#63くらやみよこ丁(暗闇横丁)
街灯がひとつもない横丁で、別名「人さらい横丁」

* (下根岸18)金曽木小学校
1903(明治36)年6月開校。大正2年で学級数15、児童数852、職員14。

#64どてとほり(土手通り) @19

#65石いなり(石稲荷 下根岸22) @18
社宝として1813(文化10)年2月初午に奉納された、酒井抱一の「正一位石稲荷大明神 金杉村大塚 抱一道人拝書」という幟一対があり、毎年初午の際に掲げられている。
1835(天保6)年12月8日夜、石稲荷辺りより出火し、金杉通りまで焼失(「武江年表」より)。

#66いしいなりまえ(石稲荷前)

#67御行松(中根岸57) @2
もともと福正院(真言宗。羽前国湯殿山大日坊末。新坂通りの突き当たりあたりに移ったが1860年代に廃寺になった)が1623(元和9)年までここにあり、院の代々の墓などもあった。文化3年、石造の不動が露仏として残っていたところに比丘尼貞松院が不動堂を立てたのが「時雨岡の不動」の始まりである。御行の松は明治に入った頃より樹勢に陰りが見られ始め、明治15年頃の話として笹の雪横町に住んでいた酒井亀雄なる人物(-1907書家多田親愛の弟。博物館の外吏)と植木職人松五郎の松生き残り秘話が伝わっている(万朝報 M41.1.3)。大正15年に天然記念物指定され、その時には高さ約13.6m、目通り(目の高さの直径)4.9mだった。昭和3年夏に枯死し、昭和5年に伐採された。樹齢はおよそ350年であった。その後2代目として昭和31年に上野中学校から移植されたがすぐに枯れ、現在の松は昭和51年8月に植えられた3代目。1代目の根は保存されるとともに、その根で不動明王が彫られて不動堂にまつられている。
御行の松脇の音無川にかかる橋を呉竹橋、中根岸59番地にかかる橋を水鶏橋といったという。
松一木(ひとき)根岸の秋の姿かな<子規 明治27>
薄緑お行の松は霞みけり<子規>
青田に出でず御行の松を見て返る<子規 明治30.8.27 病牀日記>

* (金杉258)大槻文彦宅
明治17年に根岸に越して来て再転の後、明治34年に終の棲家として新築。一名「雨松軒」。震災後は浅草を焼け出された兄の如電もともに暮らす。258~279番地の間の小路を大槻横丁という。

* (中根岸28)釈迦堂
三嶽社ともいい、石造の釈迦が置かれていた。天正10年に西蔵院の住職がたてたが、大正のころになくなった。

#68松平家(中根岸107)
もともと金杉村町名主の勝田次郎左衛門の屋敷で、明治期に子爵松平確堂(美作津山藩10万石)と男爵松平斉光(津山藩分家)宅に。大正10年に売却されて三業地に。現在の柳通りの根岸4丁目側を中心に、昭和6年には料亭は「こま屋」「一松屋」「福井」など30軒、芸者屋191軒、芸者399人の規模を誇った。かつては「根岸三業会館」があったが、今は根岸料亭組合、根岸芸娼妓組合、置屋で分祀した「福寿稲荷」があるのみ。
日本一高い寿司屋として政財界御用達だった「根岸 高勢」はいまはなく、暖簾わけの店として「大塚 高勢」(南大塚1−45−3)と「新高勢」(浅草3−11−7)がある。

#69安楽寺(中根岸112)
ねぎし古寺札所巡り第3番。浄土宗。仏迎山往生院と号す。1627(寛永4)年に下谷坂本町で創建。1693(元禄6)年に現在地へ移転。知恩院宮尊光法親王が関東ご下向の際に寄進された宝物が伝わっており、法親王の隠居所ともいわれる。江戸33ヶ所観音参の第五番に指定(享保20年開板の「江戸砂子拾遺」より)。昭和20年代終わりから30年代にかけ、境内の見返り地蔵(この地蔵は「江戸48ヶ所地蔵尊」の東方第7番に指定)の縁日が4の日に立ち、三業地とともに大変な人出となった。画家野口幽谷の墓あり。

#70あんらくじよこ丁(安楽寺横丁)
現在は柳通りとなっている。明治期には幅4メートル程度の狭い通りだった。

#71鮓や(鮨屋 中根岸73)

#72カリコミ店(中根岸75)
床屋。明治34年ごろは板敷きで、入り口で上草履に履き替えて、待合の長椅子で待つというスタイルが一般的。

#73魚や(中根岸52)

#74静軒アト(中根岸27) @22

#75湯や(中根岸50)
銭湯。明治34年ごろは、夜になると薄暗いランプを下げその光のもとで湯浴みをしていたはず。昭和6年にはこの場所で松の湯という銭湯が営業しており、昭和50年代もそのまま営業していたが現在はない。

#76おまじなひ横丁 @7

#77円光寺 藤デラ(中根岸38) @3
ねぎし古寺札所巡り第8番。臨済宗京都妙心寺末。宝鏡山と号す。草創は元禄12年。藤は火災に罹って枯死したとも伝わる。この寺には「鏡の松」という古木もあるが、明治41年の時点で2代目。禁酒地蔵が本堂左脇にある。

#78ふじでら横丁(藤寺横丁)

#79幼稚園(中根岸29)
明治21年1月市立根岸小学校付属幼稚園として創立。この場所から明治35年2月、中根岸16番地に新築移転(現在もその境であったレンガ塀が残っている。そのレンガ塀の下には「明治34年11月に140mにわたり千手院の手で行った工事である」ことを示す石板が埋め込まれている)。大正2年で組数4、乳幼児男63、女47、保母4。昭和50年に根岸小学校内に移転した。

#80根岸学校(中根岸29) @23
明治7年2月に西蔵院の庫裡を使って、第5中学区5番公立小学根岸小学校(第5中学区で5番目にできた小学校という意味。ちなみに第4は現在足立区の新井学校、第6は千住北組の慈眼寺にできた千寿学校)として開校。教員3名、生徒60名であったという。設立当初の学区は谷中より金杉、三ノ輪、日暮里、谷中本、三河島、町屋、上・下尾久まで含んでいた。明治20年1月に敷地を購入し、10月に落成。その後、万年青おもと屋(#241)の土地へ移転。大正2年で学級数18、児童897人、職員20人。

#81西蔵院(中根岸26) @22
真言宗仁和寺末。圓明山法福寺と号す。境内の土中より康安2年(1362)の文字がある板碑が発見されており根岸では最古の寺。弘法大師21ヶ所参拝の第11番(第20番は上野一乗院、第21番は湯島霊雲寺)。荒川辺88ヶ所弘法大師巡拝の第2番(「東都歳時記」)。

#82しんやしき(新屋敷) @16
江戸時代に輪王寺宮の抱屋敷があったところに道を通した

#83ふたまたえのき(二股榎) @20

#84西念寺(中根岸82) @16
ねぎし古寺札所巡り第4番。浄土宗深川霊岸寺末。東国山と号す。創立は寛永7年。「江戸48ヶ所地蔵尊」の東方第6番の目洗地蔵(空海作の地蔵と伝わっている。昔、的山が眼を悪くしたときにこの地蔵が夢で教えてくれた方法で眼を洗ったら治ったという。小野お通が見出した地蔵(@16)といわれるものと同じ地蔵のこと)がある。

* (中根岸87)尾竹竹坡宅
日本画家。明治45年7月、この家から竹坡の姪の尾竹紅吉(数枝子)、平塚雷鳥、中野初子の青踏の3人が吉原の大文字楼に登楼。「女の吉原遊興」として物議をかもす。この前年の明治44年4月9日、吉原は江戸町2−20の貸座敷美華登楼より出火し大火となり廓内6573戸を焼失し、さらに西は龍泉寺町、金杉上町へと延焼した。

#85世尊寺(中根岸88) @21
ねぎし古寺札所巡り第5番。真言宗仁和寺末。鉄砂山と号す。寺の大日如来像は昭和20年の大空襲で頭部を残して焼失、現在の像はその頭部を生かしつつ復元されている。荒川辺88ヶ所弘法大師巡拝第一番(「東都歳時記3」)。森田思軒(明治期の翻訳家 住居は上根岸82)の墓あり。吉原の角海老楼、北越楼の墓がある(一般に遊女は楼主の菩提寺に葬られた)。

#86石川家(中根岸24)
子爵石川成秀(伊勢亀山藩6万石 明治10年生まれ 学習院卒、フランスソロボンヌ大学へ留学)邸宅。後に特殊法人「日本私学振興財団」の運営する下谷病院に。平成13年12月に閉院し病院機能は永寿総合病院(西町小学校跡)に引き継がれた。現在は根岸防災公園になっている。

#87永称寺(中根岸22)
浄土真宗西本願寺の末。長久山と号す。開基は浄念(-宝治2年)。松が多いので別名「松の寺」。元々は龍泉寺町付近にあったが、江戸初期に現在地に移った。大槻如電撰文の山田流琴奏者の山勢松韻碑あり。高崇谷「竹虎之図」という屏風が伝わっているとか。


#88千手院(中根岸19)
ねぎし古寺札所巡り第6番。真言宗音羽護国寺末。補陀落山と号す。五智如来安置。寛永19年、神田小柳町に創建され、元禄年間に根岸に移転。荒川辺88ヶ所弘法大師巡拝第88番。
門内南側に忍屋長春の俳句碑がある。「立臼も見へぬ野分のあした哉」

#89おしたやしき(御下屋敷)
輪王寺宮の抱屋敷があった

#90要傳寺(上根岸6)
ねぎし古寺札所巡り第7番。日蓮宗安房小湊誕生寺末。1615年、本是院日厳(-1668)が創建と伝わる。1841(天保12)年に火災により焼失。お初地蔵なるものがあるとか。

#91清正公(セイショウコウ 上根岸6)
加藤清正(1562-1611)は日蓮宗に深く帰依しており、その死後、清正を異能・権化の人「清正公大神祇」して信仰することが盛んになった。1854年に肥後の児玉峻徳が、満願清正公を熊本より要傳寺へ招来した。その後昭和46年の改築工事に伴い、同尊像を熊本本妙寺に返還。現在は清正公堂はない。明治37年頃には、毎月18日と24日が縁日だったという。

「根岸及近傍図」の文字情報1(右半分で番地表記外の部分)

「根岸及近傍図」の文字情報1(右半分で番地表記外の部分)

注意
1.例えば「@6」とは、「根岸及近傍図」の解説文の@6で触れられていることを指す。「#6」とは、「根岸及近傍図」の文字情報の解説の#6で触れられていることを指す
2.「*」が初めに付いているものは、地図で触れられていないものをあえて注釈者が解説したものである。

<番地外の部分上部より>
#1三ノ輪町
奥東京湾に突き出た台地の先端部であり「水の鼻」が転じて「三ノ輪」になったという。昭和40年の町名変更までは現在の根岸5丁目、三ノ輪2丁目と東盛小学校(現 東泉小)の北側の範囲をいい。現在の三ノ輪1丁目の大部分は金杉下町であった。大正2年で番地は1~173番。戸数1307戸、人口男2405人、女2080人。

#2千住路 @16
江戸期において千住は四宿のうち品川に次いで賑わっていた地であり、現在の南千住側を小千住、北千住側を大千住といっていた。この千住路は奥州裏街道として寛永年間にできたとか。日本橋を出発点に上野広小路、坂本、金杉を通り、三ノ輪で奥州表街道(浅草橋〜蔵前〜浅草〜三ノ輪)と合流する。そこから宇都宮までは日光街道も兼ねた道であった。
昭和通りが関東大震災復興計画の1つとして昭和5年に完成するまでは、この通りが上野から千住に抜けるメインロードであった。市電の新線として1910(明治43).4.11に車坂町〜坂本町〜金杉上町が開通し、1912(大正元)年に全線開通したのが、千住4丁目から上野駅前を経由し日本橋人形町の水天宮までを結ぶ都電21系統である。では明治期には人や大八車以外にはこの道を何が走ったか? 明治4〜5年頃から駕籠が人力車にかわり、あとは牛車、馬車程度である。自動車は明治41年の東京市下で十数台、明治43年で100台くらいしかなく(今の荒川区域内で大正7年の自動車登録は1台のみだったという)、自動車が一般的に見られるようになるのは大正以降である。
燕(つばくろ)や くねりて長き 千住道<子規 明治27 發句を拾ふの記>

#3みちなし
行き止まりなので道無しという名か? 現在は金杉通りと音無川の道をつなぐ道が通っており、行き止まりではない。

#4みちなし横丁
安政3年の尾張屋版「日暮里豊島辺図」にすでに「みちなし横丁」と出ている。

#5金杉下町 
1745(延享2)年から金杉上町とあわせて金杉村から分離して町奉行支配となった。明治24年3月には元金杉村飛地の字千束も吸収。番地は1~200番。大正2年で戸数2429戸、人口男4326人、女3654人。

#6龍泉寺町
以前は龍泉寺領であったからきた名とか。広く新吉原町辺りも含む領地であったという。1598(慶長3)年の検地帳には梅沢町と出ているが後に、龍泉寺町に。幕府領(代官野村彦太夫ご支配地)であったが、1644(正保元)年からは寛永寺領に。1872(明治5)年に梅沢村という名に戻ったが、明治22年の下谷区編入を受けて明治23年より下谷龍泉寺町に。大正2年で番地は1~416番。戸数4985戸、人口男8276人、女7592人。

#7ざるや横丁
名称の由来不明(調査中)。千住路から入る左側(金杉上町65)に昭和16年頃には河合キネマという映画館があった。

#8金杉上町
江戸時代の名主は勝田次郎左衛門といい、元々は金杉町及び金杉村の全ての名主であった。1826(文政9)年に御鷹野御場所肝煎役を仰せつかり3人扶持、脇差、野羽織が許された。
文久年間(1861-1863)から現在まで続く蕎麦屋「田毎庵」がある。番地は1~103番。大正2年で戸数1567戸、人口男2954人、女2475人。

#9ひよけ(火除)@19

#10カウバン(交番)
金杉上町派出所。金杉村・金杉上町・下町共用の高札場、自身番屋、火の見やぐらがあった場所。

#11三島社 (金杉上町21)
もともと江戸時代では金杉上町・下町の火除地で、三島神社の浅草寿町移転(@28)の後、あまりに地元と離れているので金杉上町、下町の氏子向けにここに遷座し三島神社とした。金杉村の方も、もとからある熊野神社へ合祀し、元三島神社とした。三島神社内には火除稲荷も鎮座している。

#12火除観音(金杉上町84)@19
了源院は臨済宗で覚法山と号する。正保元年(1644)創建といい、その本尊が「火除観世音菩薩」。元禄元年(1688)5月、厳有院殿13回忌の折、時の寺社奉行本田紀州候がこの火除観音の由来を尋ね、その結果境内104坪を賜ったという。

#13吉原ミチ(道) 
ここよりおよそ700mで吉原に至る。明暦の大火(1657)を機に日本橋葺屋町(元吉原)から移転し新吉原として繁栄したが、1958(昭和33)年3月31日、売春防止法により吉原の赤線は廃止され、300年の歴史を閉じるが、現在もいくばくかの名残が残っている。
吉原の 太鼓聞ゆる 夜寒哉<子規 明治30.9.22 病牀日記>

#14大音寺まへ(前)
「大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町と住みたる人の申しき。三島神社(さま)の角を曲りてより、これぞと見ゆる家もなく、かたぶく軒場の十軒長屋、二十軒長屋…」(たけくらべ 明治28年発表より)。樋口一葉は1893年7月〜1894年5月の間、本郷菊坂町69から引っ越して、大音寺前(竜泉寺町368)で荒物・駄菓子屋を開いていた。その後、本郷丸山福山町4番地へ移転した。昭和36年5月、駄菓子屋を開いた場所に一葉記念館が完成した。

#15せそんじだいもん(世尊寺大門)
世尊寺前の参道の意。

#16坂本町四丁目
元亀(1570~1573)の頃は広沢村と称した(現在、下谷2-6にある正洞院の山号が広沢山というのはその名残)。坂本という地名は、比叡山のふもとにある坂本にちなんで付けられたという説もあるが、天正(1573~1592)の文書に既に坂本の名があり、これは偶然の一致である。この偶然を天海も喜んだとか(「砂子の残月」)。
坂本町は旧坂本村のうち、延享2(1745)年に成立した町奉行支配地で、坂本町は1〜4丁目と新坂本町、坂本裏町、浅草坂本町、深川坂本代地町(現在の江東区福住1-3付近)に分かれていた。明治12年4月に下谷小野照町(旧町名・嶺松院門前)が坂本町4丁目に合併した。番地は1~32番。大正2年で戸数327戸、人口男589人、女530人。1番地には、明治6年1月設立の私立代用渡邊小学校があったが、明治41年11月に東京市が買収し市立台東小学校となった。

#17あめぶん横丁
名称の由来不明(教えてください!)

#18東源院アト(跡)
詳細不明(教えてください!)

#19坂本裏町
番地は1~6番。大正2年で戸数51。人口男99人、女99人。

#20小野照崎社
祭神は小野篁(おののたかむら 802-852平安前期の公郷、漢学者 小野妹子の孫 遣唐使派遣の際にトラブルを起こし一時隠岐に流される。野相公、野狂ともいわれる。陸奥守もしくは上野国守に任ぜられた時に上野の山に滞在したという。儒教に造詣が深く足利学校の創設者とされ、また百人一首の「わたの原 八十嶋かけてこぎ出でぬと 人には告げよ海人のつり舟」の歌人)。創建は852年といわれる。もともと上野の山の照崎の地(現在の忍岡中学付近)にあり、善養寺の薬師堂に相対していたとも、湯島に移る前の忍ヶ岡聖堂の横に小野明神として祭られていたともいう。寛永寺創建時に長左衛門稲荷があった今の場所に移転させられる(このため、「狐の尾の先が照る」で小野照崎という名になったという、まことしやかな洒落話もある)。旧坂本町、坂本村の鎮守。1782年に山本善光が中心になり築山した富士山が境内にある(山開きは6月30日及び7月1日のみ)。大正期までは富士塚のまわりに富士五湖を模した池もあった。山開き時のみ授けられる土鈴の竜神守は素朴。祭礼は8月19日。
境内の庚申塚は日本3大庚申の一つといわれる(残りの2つは、京都の八坂、大阪天王寺の庚申)。青面金剛の塔は聖徳太子が作ったと伝わっている(江戸名所図会に「入谷庚申堂 喜宝院に安ず。摂の四天王寺の青面金剛と同作の霊像なりといへり」とでているのがこれであろう。ただ、東都歳事記には「木像。聖徳太子の作。秘仏なり」となっている)別当寺は嶺照院(小野照山禅定寺と号し(下谷繁昌記)、寛永寺の末寺。開山は慶賢。1629年寛永寺より寺社地を与えられる。元は禅林寺という名だったが、1676年今の院号に改める。現在は延暦寺の末寺)。明治5年に村社になった。

#21入谷町 
以前は坂本村であったが、明治24年に入谷町となった。大正2年で番地は1~412番(138,141番は欠番)。戸数7664戸。人口男12699人、女12148人。

#22おたんす(御箪笥)
鉄砲の出納を司る鉄砲箪笥奉行組の同心に寛永9年に給せられた場所。この奉行職は万治3年(1660)に幕府に置かれ、定員ははじめ6名でのちに2名となった。役扶持10人扶持。享保9年より公役銀を納める。領地主は金井、新島、小林、近藤、小野、村田、田吹、戸田、坪田の9氏。

#23箪笥町
6番地には明治時代の小児科医で奇人として有名な福井信敏の病院があった(主著「杏林叢志」明治35年刊 住居は中根岸79)。明治40年頃には、箪笥町1〜8番地及び中根岸1〜4番地に蔬菜市場(ヤッチャ場)が開かれていた。番地は1~10番。大正2年には戸数78戸、人口男164人、女138人。

#24興業貯蓄銀行(興業銀行)
資本金10万円で明治30年12月創設(代表 中澤彦吉)。本店は京橋区南新堀町1−2にあった。

<以下・入谷の朝顔栽培業者の名前、#38新亀まで>
#25横山
#26入竹
#27入十
#28入又
#29丸新 
花戸丸新といい明治34年から見料3銭をとった。明治44年に池之端へ移転し、百草園と合併。当時の東京勧業協会の裏にあったという。

#30植長

#31この辺り朝顔 @37
入谷の朝顔の元祖は鈴木豊吉(入谷27番地)。明治2~3年頃に近くの寺院であさがおの鉢植えを並べ始め、明治10年頃から2~3の植木屋が「入谷朝顔」を宣伝しはじめ、明治15~16年頃には本格的になった。最盛期は明治24~25年で、日露戦争頃までは「菊の団子坂、朝顔の入谷」と称される。この地図に出ている業者のうち、入十・入又・丸新・入久・新亀のほか、松本・植徳・入長・植松の9軒が明治41年刊行の「新撰東京名所図会」のなかで言及されている。その後、近所の開発にともない、朝顔を育てるための入谷田圃の溝土がとれなくなり、また地主も植木屋に土地を貸すより畑をつぶして貸家を建てるほうが有利と考え明治末に廃業増。大正元年には植惣、植松、入久、入長の4軒のみとなり、大正2年に最後まで踏ん張った植松(本地図には見られず)が廃業し、朝顔は姿を消す。
昭和23(1948)年に朝顔市は再興。現在出店130軒、鉢植え十数万鉢といわれる。
入谷から出る朝顔の車かな<子規>

#32鷲明社へ 
龍泉寺町字浅草田圃の鷲神社のこと。別名「お鳥様」「新鳥」。享保の頃(1716-36)より11月の酉の市の縁起物として熊手、芋頭、粟餅で有名。別当は日蓮宗長国寺。明治6年に村社に。明治期には1年で酉の市の日のみ、午前1時より吉原遊郭の非常門と水道尻の自由通行が許されるため、大変な人出であった。
世の中も淋しくなりぬ三の酉<子規 明治27>
夕餉すみて根岸を出るや酉の市<子規 明治32> 
吉原ではぐれし人や酉の市<子規 明治32>
人並に押されて来るや酉の市<虚子 明治37>
その年の遊び納めや三の酉<荷風>

#33入久
#34松菊
#35入松
#36高野
#37植総(高野植総)
#38新亀

#39坂本町3丁目
大正2年には番地は1~31番(22,24,26,28が欠番)。戸数は195戸、人口男383人、女315人。

#40札の辻 @24
坂本町四ヵ町、坂本村一体持ちの高札場だった。

#41カギヤ(鍵屋) 
鍵屋横丁にあった店は全て鍵屋という屋号で呼ばれたという。現在鍵屋という名は文具店と酒屋に残っている。文具店は橋本善兵衛が浅草紙(ねずみ色した手洗い専用の再生紙)を売り出した紙屋から発し、現在は根岸3−1で(資)鍵屋橋本商会として商売を続けている。
一方酒屋は上野寛永寺出入りの酒問屋として1857(安政3)年に創業し、後に小売もはじめる。1915(大正5)年の言問通り造成の際に下谷2丁目2番地に移転。震災、戦災を生き延びて、大衆居酒屋になったのは昭和24年から。昭和48年の言問通りの拡張工事のときに、安政3年建築の建物は取り壊される予定であったが、文学研究家サンデンステッカー氏の「この国は人間より車のほうが偉いのですか?」という新聞投書から保存運動が巻き起こり、現在小金井の「江戸東京たてもの園」で見ることができる。いまは根岸3−6にて大正元年築の建物で営業している。先代 清水幸太郎(1920-1980)は游谷と号し、詩集「風の歌」を1965年に刊行した。女性のみの入店お断りを伝統としている。

#42かぎや横丁
名前の由来は不明。前述の鍵屋2軒のほか、鍵屋茗荷屋という足袋屋もこの通りにあったとか。スリの親分、仕立屋銀治もここに住んでいたとか。

#43ヲカノクワシヤ(岡埜菓子屋 坂本2丁目19もしくは2丁目の9)
坂本岡埜。明治22年には支店の古能波奈園を出す(#243)。明治40年頃の当主は岡野徳之助。明治の末には、一門9店で岡埜の「最中」を一日1万個製造していたとも伝わっている。現在、岡埜栄泉は上野駅前の岡埜栄泉総本店(明治6年創業 上野北大門町7.大正2年の当主は岡野金平)と上野広小路の岡埜栄泉総本舗(安政年間創業)を筆頭に都内の30店舗以上あり、どこも大福を名物としている(現在もこの場所の2階に岡埜喫茶部が看板を出しているが休業中)。今の根岸の竹隆庵岡埜は、谷中の岡埜栄泉(上野駅前系 明治33年創業)からののれんわけで昭和33年に創業した。ここのこごめ大福を石原裕次郎が贔屓にしていたという。ちなみに虎ノ門の岡埜栄泉は上野広小路系という。

#44坂本町2丁目
江戸時代には、寛永寺御用達米屋の川嶋屋、寛永寺御用達の金御紋と御用掛札の庄兵衛店平右衛門が店を構えていた。大正2年で番地は1~30番(16番は欠番)。戸数200戸、人口男507人、女456人。

#45鬼子母神(入谷町62)
日蓮宗真源寺。明暦4年頃創建。江戸3大鬼子母神の1つ(あとは雑司が谷と市川市中山の鬼子母神)。地口で「どうで有馬の水天宮 うそを築地の御門跡 恐れ入谷の鬼子母神 びっくり下谷の広徳寺 志やれの内のお祖師様 なんだ神田の大明神」の連続技で有名(一番最初に使ったのは蜀山人こと大田南畝だとか)。上野の宮、公寛法親王に従って江戸へ下り、入谷に窯を築いた尾形乾山(1662-1742 けんざん 光琳の弟 <善養寺>の項参照)窯元の碑がある。乾山は江戸時代の入谷の名物「入谷土器(かわらけ)」(松井新左衛門または寛永寺御用職人仁右衛門により1800年代初頭に作られていた)の祖といわれる。鬼子母神像は日法上人の眞作、日蓮開眼と称されている。鼓の師匠、幸清流の代々の墓がある。

#46坂本町1丁目
幕末の名主は二葉伝次郎。現在、東尾久3丁目にある二葉山満光寺が上野にあったころ一帯は二葉郷と呼ばれていた。そのなごりで名主は上野の宮に正月2日、名物の二葉牛蒡25本を献上するのを常とした。番地は1~22番。大正2年で戸数322戸、人口男576人、女527人。

#47とよすみ丁(豊住町)
江戸時代は下谷御切手町(寛永元(1624)年 御切手同心拝領、元禄12(1699)年町屋敷となる)といい、明治2年に改名した。下谷万年町や山伏町とともに土地が低くしめった土地で、明治以降貧民窟として知られた。番地は1~60番。大正2年で戸数682戸、人口男1244人、女1096人。

#48養玉院(豊住町59)
天台宗。金光山大覚寺と号す。寛永12年に屏風坂下に寛永寺塔頭の三明院として天海の弟子賢海が創建。元禄11年(1698年)にこの地へ移り対馬藩主宗家の菩提寺となり、宗義成の母養玉院の法号をとって、養玉院に改名した(東京市編纂 東京案内より)。ただ、かつては江戸城内大手にあったとか、三藐院という名であった、など諸説あり。明治41年に品川へ移転し高輪にあった如来寺と合併して「養玉院如来寺」となり、現在地は品川区西大井5−22−25で「大井の大仏(おおぼとけ)」として有名。

#49鉄道馬車会社
現在の上野郵便局付近。上野における馬車運行は、1874(明治7)年に馬車屋千里軒の乗合馬車が雷門〜新橋間を1日(6:00~20:00)6往復の運行を開始したことから始まる。1880(明治13)年11月新橋〜上野〜浅草間の鉄道馬車敷設が許可され、1882(明治15)年9月新橋〜日本橋から上野広小路まで延長。同年10月上野山下〜雷門間開通。同年12月に馬車鉄道開業式が挙行された。1901(明治34)年当時、新橋(汐留)と上野間には鉄道は走っておらず、そこを鉄道馬車が結んでいた形となる。上野山下から新橋まで明治23年の時点で賃料6銭であった(ちなみにはがきは一枚1銭だった)。明治40年には東京鉄道会社上野出張所として地図に記載されている。新橋と東京間を院電(のちの国電)が開通するのは1914(大正3)年。東京と上野間が開通し、山手線の環状運転が始まるのは、神田―上野間の高架線が完成した1925(大正14)年11月1日のことである。

鉄道馬車会社の系譜は以下の通り。
1903(M36).11.25 新橋〜上野間の市街電車が開通(明治23年の上野公園での第3回内国勧業博覧会に日本初の電気鉄道が登場してから13年後)
(明治37年3月までは、浅草から新橋に行く人は日本橋区本町3丁目の角で馬車鉄道から電気鉄道に乗り換え、新橋から浅草に行く人は日本橋区本白銀町3丁目の角で電気鉄道から馬車鉄道に乗り換えたという)
1904(M37).3  上野〜浅草間の市街電車が開通(馬車鉄道の廃止、ちょうどこのころ明治37年2月10日に宣戦布告した日露戦争による馬匹調達あり)
1906(M39)   東京市街鉄道と東京電気鉄道が合併し東京鉄道株式会社に
1911(M44)   東京鉄道株式会社を東京市が買収し、市営となり「市電」と呼ばれる。
1944(S19)    東京市が東京都となったのに伴い「都電」となる。
1967(S42).12~1972(S47).11  都電荒川線を除き、都電は随時廃止される

根岸及近傍図(左下の解説文)

「根岸及近傍図」 左下の解説文

図中の記事の多くは、江戸砂子(*1732享保17年刊 6巻6冊 菊岡沾涼(1680-1747)著 伊賀上野出身 主著「諸国里人談」)・続江戸砂子(*1735享保20年刊)、江戸名勝志(*1746年もしくは1733年刊 藤原之簾著)、武蔵演露(*大橋方長著)、新編武蔵風土記稿(*全265巻付録1巻 林大学頭述斎が1810年に幕府に建議し、11年かけてまとめたもの)、江戸名所図会(*1836年刊 7巻20冊 斉藤幸雄、幸孝、幸成(月岑)の親子3代で完成。645枚の絵は長谷川雪旦が描く)などに拠った。嘯月(その人について詳しくは分からないが)が描いた宝暦の頃(*1751-1764)の根岸の景16枚や(訳注:太田謹氏が所有していたが、現存せず)、月崖(やはりこの人についてもよくわからない)の文政3年(*1820)の版図も参考にした。原徳斎(*志賀理斎の三男)の記はその父である志賀理斎(*1761-1840名は忍、理助。幕府の士)の「妙めを(*みょうみょう)奇談」(*1838(天保9)年刊)の中に出ている。
そのほか、本間八郎(*1849- 元輪王寺宮の御用人。大本間と呼ばれる。上根岸73に居住)、斎藤信太郎、瑞雪湖、幸堂得知(*劇・文学に通じた古老 上根岸120)、内田佐平次(*下根岸87)、前島平五郎などこの地のお年寄りや三ノ輪の石川文荘氏(*漢学者。本名石川二三造。主著「覚書 根岸人物誌」都立中央図書館所蔵)などから聞いたことは多い。発刊の労を取ってくれたのは、太田謹(*上野帝室博物館職員で大正2年には部次長。校訂者 主な仕事として「増訂 古賀備考」 上根岸130)、平坂閎(*この地図の発行者)、藤沢碩一郎(*このみ庵主人 上根岸19−2)の3氏である。

上、中、下 根岸町の境 ・−・−
旧字(*あざ)根岸、中村、大塚、杉崎の境  −−−−


田舎道が曲がりくねっていて、おとずれる人が迷うのは、わが根岸だけであるまいか。抱一の句の「山茶花や 根岸はおなじ垣つづき」や「さざん花や 根岸たづぬる 革ふばこ」は、また一種の味わいであろう。ところが今は、名物であった山茶花や寒竹の生け垣もほとんどその影をとどめず、今風の石レンガの塀が造られ、名のある樹木は抉り取られ、いにしえの奥州道の地蔵など大切にされていたのに取り除けられ、鶯の巣は鉄道のひびきに揺り落とされ、水鶏の声も汽車にたたきつぶされ、およそ味わいや趣といったものは次第に失せて、ただ路地がくねっているのだけが昔のままである。「市区改正はどうすれば、この地にまで及んでくるのだろう」と嘆く人もいるが、「路が狭いからいいのだ。金持ちの馬車など入ってきたら、我らはここに住むものか」という貧乏学者もいる。わが根岸倶楽部の仲間は新年のお年玉として根岸の道しるべの地図を頒布し、人々に迷わせまいと思い、その製作を私に託した。絵ができてみたところ、余りに洋物っぽく、根岸の地図もこうでは鶯が泣くばかりという思いがおこり、少しばかり風雅めかそうと思い、余白に旧跡の説明などを加えることにした。今よりは空谷の足音(*くうこくのそくおん 静けさの中での訪問者の足音)を多く聞くことになるのか。金持ちの馬車の侵入を押しとどめられるだろうか。
それにしても、唐代晩期(*836-906)の詩「澧(*レイ)水の橋西 小路斜めなり 日高くしてなお未だ君の家に到らず 村園 門巷 多くは相似たり 処処の春風 枳殻の花」
(訳注:澧水(れいすい 湖南省より洞庭湖にそそぐ川の名)にかかる橋の西 小道が斜めに走っている 日は高いがまだ君の家にたどり着かない 村里では路地や門口はみな同じようなものばかりであちこちに春風吹き、白いカラタチの花はいまが盛りである)
のとおり、かつての脱俗の人々が静かに暮らしたさまを今なお慕っているこの図は雅なのだろうか、俗っぽいのだろうか。

明治辛丑(*かのとうし 明治34年)元旦 
          「仮名の舎」主人しるす(大槻文彦)(復軒)
(*1847-1928 おおつきふみひこ 号とて仮名の舎、復軒と称す 国語学者、史伝家 代表作「言海」「広日本文典」  やや寒み文彦先生髯まだら<子規 明治31 元光院観月会にて>)

明治33年(*1900年)12月30日印刷
明治34年(*1901年)1月3日発行
(訳注:ちなみに1900年12月30日から1901年1月1日にかけ慶応大学では午後8時より「19世紀・20世紀送迎会」を挙行した。1901年2月3日に福沢諭吉が68歳でこの世を去った)

根岸倶楽部出版
(訳注:根岸倶楽部とは、森田思軒を中心に、饗庭篁村、岡倉天心、須藤南翠、高橋大華、森鴎外、幸堂得知、幸田露伴などをメンバーとして明治23〜24年頃にできた根岸に住む文人たちの集まりの総称で根岸派、根岸党ともいわれた。基本的には近くに住んでいる人たちが集まって飲み会をしていただけで、時に1泊旅行の能美努計無尽(のみぬけむじん)なるものを開催した。「美術之日本」第5巻第10号(大正2年10月15日発行)にこの会の逸話がでているという。なお「倶楽部」という言葉は明治20年ごろより日本では流行語としてもてはやされた)

代表者 著者兼発行者
    東京市下谷区上根岸町41番地(*元三島神社東隣)
    平坂 閎

印刷者
    東京市神田区東松下町16番地
    小柴 英侍(*明治33年刊行「大槻文彦閲 萬年青図譜」の印刷も手がける)

売捌所 
    東京市日本橋区通1丁目
    林 平次郎(*六合館館主 自宅は上野桜木(現 根岸1丁目)にあったという)

(訳注:六合館(りくごうかん)は教科書・辞書を中心に出版活動を行った出版社。明治20年代には神田区表神保町2番地にあり、30年代に日本橋区通3丁目6番地に移った。当初、文彦の自費出版として刊行された「言海」は後に同社にて出版された。大型判は明治22年が初版で昭和4年には15版、中型判は明治37年が初版で昭和3年には526刷を記録した。昭和7年10月には冨山房より言海の改訂版となる「大言海」が発売となり、「大言海」は昭和12年11月に索引が出て完結した)

発売元 根岸 このみ庵 藤澤   縮尺 2345分の1
(訳注:この縮尺率の表記にもユーモアを感じてもらいたい)

根岸及近傍図(右下の解説文)

訳にあたっての注意
1.「根岸及近傍図」内の解説で○印付で説明書をしているものを、「@数字」で順番に通し番号を振った。「図中の文字情報」も「#数字」として通し番号を振り、相互に関連する項目には該当の番号を挿入することで検索の便を図った。
2.「*」は訳者による付け足しの記述(西暦や読み仮名など客観的なもの)
3.「訳注」は訳者が一歩踏み込んで、蛇足的に付け加えた情報(主観的なもの)。


@16古奥州街道(中根岸82ほか)
月崖という人が文政3年(*1820)につくった根岸図では、中根岸の二股榎(*#83)の路に「古オウシウミチ」と出ている。お年寄りもこの樹は奥州路の土手にあったものと今に伝えている。また天保9年(*1838)の原徳斎の記には、上根岸の西 上野山の崖上の五本松(*#127)について「村人の説では、かつて奥州街道の並木の松だったという。また金杉の新屋敷(*#82)内に一本の古樹があり、その下には古い地蔵がある。それも奥州街道の跡だと伝わっている」と述べている。
この古地蔵というのは中根岸新屋敷(*#82 しんやしき)の旧構内、安楽寺表門の向かいの辺りにあって、小野お通(*戦国〜江戸期の伝説的な才媛。岐阜の北方の里に小野正秀の娘として生まれ、池田輝政の家臣に嫁ぐが離縁。豊臣秀頼の正室千姫に仕え大坂城に入るが、家康の招きで駿府城を経て、江戸城へ入り、将軍家大奥の行儀作法の指導を行ったという。1616年に彼女が根岸で横たわっている地蔵を見つけ、1630年に的山(願蓮社勢誉的山)が京都から奥州へ向う途中で草庵の中のその地蔵を見つけ、一堂建立したという)に縁のある仏像といわれたが、明治維新後に同じ中根岸の西念寺(*#84)に移して、いま身代地蔵といわれているものにあたる。
また下根岸のざるや横丁の土手通りの北角(*下根岸85 現在の根岸5-11-1)にも南向きの地蔵があったが、これも奥州道の傍にあったものと言い伝えられている(最近、同じ下根岸の大空庵に移した)。
また千住道(*現在の金杉通り)三ノ輪通り西側の薬王寺境内に、今も後向地蔵としてある像は、かつて西側に奥州道がありそれに面してあったものなので、今は千住道に対して背を向ける形になったと伝えられている(像には正徳4年(*1714)と書かれているが後世の改作であろう)。また嘯月(*左下の解説文中で出てくる)という人が書いた古い絵には、薬王寺境内の東北隅に「奥州道一里塚」いうものが描かれており、その塚は維新前まではあったという。今の上野の下寺通りと千住道は後世に切り開かれたものといわれれば、そうだろうと思う。
(訳注:鎌倉時代からの古奥州街道は、滝野川から西ヶ原、田端、尾久、三ノ輪を通っていたが、江戸前期までに本郷から上野の山を横切り照崎(現在の忍岡中学)を通り、中根岸の新屋敷付近から土手通りを通った後、音無川沿いに北東に向かう道になったようだ。そして寛永寺創建以降、新街道が出来て古奥州街道はすたれたようである)

@17雨華庵(*うげあん)跡(下根岸86)#57
酒井抱一道人(*1761-1828 姫路藩主酒井忠仰(ただもち)の次男として小石川の藩邸に生まれる。多病のため出家し西本願寺文如上人の養子になり、後に琳派を再興した画家。谷文晃、亀田鵬斎の3人は下谷の三幅対といわれよく飲み歩いていたという)が文化6年(*1809)から過ごした旧宅跡。維新の3,4年前に焼けてしまった。家来で門人の鈴木其一(*きいつ 1796-1858 江戸の染物屋の家に生まれ、抱一の内弟子となって間もなく、酒井家の家臣で抱一の付き人だった鈴木蠣潭(れいたん)が急死したために、彼の姉と結婚、鈴木家を継ぐ。以後、抱一が亡くなるまで付き人として、また抱一亡き後も酒井家に仕え、絵師として活躍)、蒔絵師の原羊遊斎(*はらようゆうさい 1770-1845 抱一の図案を用いた作品を多く手がける)もこの庵の隣に住んだ。


@18石稲荷社(下根岸22)#65
小祠、ご神体はともに石でできている。この稲荷の向かいに亀田鵬斎(*1752-1826 儒学者・書家 「寛政異学の禁」で排斥されるのち諸国放浪)と浮世絵師の北尾重政(*1739-1820 北尾派の祖。絵本さし絵を多く描く。弟子に山東京伝(北尾政演)がいる)が住んでいた。

@19火除(ひよけ)(金杉上町)#9
金杉通りの火除の十字路あたりは、かつては上野の火除地として野原に松などが生えていたという。また金杉町の西側の裏通りを土手通りと呼ぶのも、かつて防火堤があったためだという。一方ここにある三島神社の東側の裏手の了源院に火除観音という像があり、火難の守り神なので地名になったのだともいう。北峰山崎美成(*よししげ 1796-1856 北峰は号。随筆家、博識家。下谷長者町の薬種商の子に生まれる。通称新兵衛。文政8年(1825)暮れごろ下谷金杉町に居を移し、文政末ごろ旗本の鍋島直孝に仕える。著書「三養雑記」「世事百談」)はこの火除の辺りに住んでいた。


@20二股榎(中根岸82ほか)#83
西念寺前にある。元は東側の囲いにあったのだが、路を広げたので今は路上に立っている(*大正2年までに伐採された)。上のほうの幹は一本だが、下のほうは股となっている大木である。根の土を崩されて、根が露出したためだという。文政図には根岸三本の一本と書かれており、他の一本は御行の松、もう一本は「カイホウノモミ」といい、またの名を天狗の樅ともいう。今は上根岸の諏訪家邸内(*#233上根岸72 信州高島諏訪家)にその大きな切り株が残っている。


@21世尊寺(中根岸88)#85
宗派は真言宗で、応安5年(*1372:室町時代)に豊島左近将監輝時(*-1375豊島宗家10代目 石神井城主)の創立だという。


@22西蔵院(中根岸26)#81
真言宗。天正年間(*1573-1591)以前からの寺である。かつては元三島神社、石稲荷の別当寺であった。寺内に村田了阿(*1772-1843 国学者 主著「事物類字」)の墓がある。この寺の構内の東北隅に寺門静軒(*1796-1868 生まれたのがここだったようで、水戸藩江戸詰の妾の子だった。漢詩人で塾は谷中・三浦坂下に開く。主著「江戸繁昌記」は幕府により取り締まられ、のち諸国放浪。杉本章子「男の軌跡」(文春文庫「名主の裔」に収録)を参考のこと)が住んでいたことがあるという。


@23根岸小学校(中根岸29)#80
明治20年(*1887)に新築したもの。ここの向かい側辺りに(*中根岸47付近)浮世絵師の柳川重信が住んでいた(*-1832 りゅうせんしげのぶ 葛飾北斎の弟子。北斎の長女美与と結婚し一子もうけるが離縁。「南総里見八犬伝」の挿絵などが代表作。この中根岸47、48番地には二代目重信(天保9年の「妙めを奇談」を製図)も暮らし、後に岡野知十(1860-1932おかのちじゅう 一時期、子規と覇を争った俳人 句集「鶯日」)が住む)。


@24札の辻(坂本町3丁目)#40
坂本村の高札があったところ。去年(*明治32年 1899)路を大きく広げた。
(訳注1898(:明治31).4.20午後に坂本3,4丁目の一部、箪笥町全域、中根岸町の一部が焼失し、それを受けて道路改正を実施した。ちょうど岡倉天心が、美術学校を辞め日本美術院を旗揚げするにあたり、中根岸4番地の家を売ろうとしていたが、その直前にこの火事で焼失。また天心と九鬼隆一 妻、星崎波津子(御行の松付近に暮らしていた)との修羅場はこの近辺で展開された。参照 九鬼周三「岡倉天心氏の思い出」)


@25大猷公(*3代将軍家光公 1603-1651)廟跡(上野山、新坂上)#145
新坂(鶯坂)上の地。承応元年(*1652)造成、享保5年(*1720)焼失。路沿い西側にある五葉松は家光公のお気に入りの松。


@26鶯谷(桜木町1〜6番地付近)#146,#164
文政図では徳川家霊屋下の地を「ウグヒスダニ」と記している。元禄(*1688-1704)の中頃、上野の宮が鶯を多くこの地にお放しになられたと伝えられている。もともと霊屋の下は火除地で、一面に樹木、笹が生い茂り、池には大蛇が住んでいるなどといわれた。維新後(*1879)、上野から大猷公廟跡を貫いて坂を通し(*新坂)、坂下はことごとく人家となったが、今でも徳川家の所有地である。


@27桜川(上根岸24〜26付近)#163
上野の山際の清水が流れ出て、今の徳川長屋前の大溝を通る入谷辺りの用水であった。鉄道が開通して(*明治16年)つぶされた。


@28元三島神社(上根岸42)#250
金杉村の元々の村の中心は、昔は上野の廟屋の地にあり、三島神社もそこにあったという。今も第一、第二霊屋の境にある大楠は、かつての三島神社の神木であったという。宝永6年(*1709綱吉死後、第2霊屋ができたころ)4月に浅草寿町へ移されたが、現在の場所にも一社あり、この地の鎮守となっている。

根岸名物
@29鶯
元禄の頃(*1688-1704)、時の上野の宮第三世 公辨法親王(*こうべんほっしんのう 1669-1716 輪王寺宮門跡在位なのは1690-1715)が「関東の鶯には訛りがある」とお思いになられて、上方から数百羽の雛をとりよせ根岸の地に放ったことから、この土地の鶯の声は訛って聞こえないという。それから鶯の名所となり、初音の里とさえもいわれた。鶯はこの地にある竹林に巣をかける。他所の鶯の脚は黒いが、根岸産のものの脚は灰色で赤みがあり、その道の人は見分けられるという。


@30鶯会
昔は毎年、向島の請地村(訳注:牛島須崎村の茶亭 梅本)で開かれていたが、弘化4年(*1847)6月に根岸の梅屋敷に移ってきて今まで続いている。
(訳注:梅屋敷廃園後は鶯春亭(#239)で行われ関東大震災まで続いた。その後は日暮里渡辺町の方で太平洋戦争中も開催されていた様子)
毎年4月、各地より飼鳥を持ち寄って、笹の雪あたりで軒並みに人家を借り、美麗な籠に入れて軒先につるす。人々が次々に立ち寄って耳を澄ませて、鶯の声を評して優劣を判定する。一等の鳥を「准の一」と称した。
(訳注:松川伊助という者が自ら工夫した笛で子飼いの鶯につけ声を行い、これが縁日で売られる鶯笛の始まりと伝わっている)
鶯の覚束なくも初音哉<子規 明治26>
鶯や東よりくる庵の春<同上>
雀より鶯多き根岸かな<同上>
鶯の糞の黒さよ 笹の雪 <子規 年不明>
鶯の籠をかけたり上根岸<子規 明治30>
鶯の隣にすんで今朝の春<子規 明治27>


@31鶴
文政図には根岸の三鳥として「ウグイス」「タカモリヒバリ」「ツル」と記してあり、大塚の田んぼには「ヒバリ」とある。鶴は徳川の時代に三河島道(*今の尾竹橋通り)の沼(*明治初頭まであった「前沼」のこと。今の東日暮里3丁目の東日暮里3丁目遊園周辺(旧大曲通りの東日暮里3丁目部分はこの沼の周回路と思われる))で餌付けをしており、その鳴き声は喧しいほどであった。将軍は鶴御成として、毎年(*11月〜2月の間に)鷹にて鶴を捕まえて、「おこぶし(御挙)」と称して京都へ献上された。今は鶴も雲雀も来ない。
(訳注:1628(寛永5)年より将軍の御鷹場に指定され、一旦綱吉は鷹を伊豆諸島に放鳥するが、吉宗の時代に復活。将軍自らが拳に鷹を据えて獲物を捕ることから「おこぶし」といった。鶴の血を絞って酒に入れた鶴酒は珍重され、その鶴はいったん臓腑を出して改めて縫合し、昼夜兼行の早飛脚で京の朝廷に献上したという。朝廷は半分を受取り、残りは東下りの早飛脚で改めて将軍家へ下された。年頭登城の諸大名旗本に鶴の吸い物が振る舞われた 参考:広重 名所江戸百景「蓑輪金杉三河しま」)

@32水鶏(くいな)
これも根岸名物であったが今は見ることができない。しかし、私の庭の池(*金杉258大槻文彦宅)などに稀にやってきて、夜、汽車の響きに合わせて叩く(訳注 戸を叩くように鳴くので「叩く」という)こともある。ほととぎす(時鳥、子規)も喧しいほど鳴いていたが、鉄道が出来てからは声を聞かなくなった。
(訳注:子規が明治25年の高浜虚子あての手紙のなかでこう書いている。「当地(*根岸)はさすがの名所だけに、鶯も鳴き、杜宇(*ほととぎすの意)も鳴き、水鶏も鳴くよし。今夜も陸氏と話しつつある時に水鶏の声しきりに聞こえければ座上即興。雨にくち風にはやれし柴の戸の 何をちからに叩く水鶏ぞ」)
水鶏叩き鼠答へて夜は明ぬ<子規 明治25>


@33山茶花(さざんか)
根岸産のものを「根岸紅(*ねぎしこう)」と称して別種としている。中くらいの大きさの花で、紅色が特に鮮やかである。金魚も根岸産のものは色がよいといわれる。
山茶花のここを書斎と定めたり<子規 明治28>


@34夏葱
金杉村の特産品として都下で食べられている。抱一の句に「枯葉ゆく 葱の小川や 牛の絵馬」がある。この句は「瀬見(蝉)の小川」(*京都右京区下鴨神社の東部を流れ、糺の森の南で賀茂川と合流する小川)に掛けたものであろう。ちなみに、かつては水の神への感謝の意味で、用水の所々に牛を描いた絵馬額がたててあったという。


@35生姜・漬菜 #205
金杉村でも生産し名産ではあるが、谷中と三河島の名がもっぱら付けられている。


@36根岸土
壁塗りに使われる。50年程前(*1850頃)に平六という者が発見した。村内の地中に層をなして産出する赤茶色の砂土を搗いてふるいにかけたもので、江川氏(*不明。上根岸8の江川福太郎か、下根岸35の江川権左衛門か?) が専売している。
(訳注:この亜種として茶根岸土、鼠根岸土もあるという。なおこの土で上塗りした壁を「根岸壁」といい、その壁の色を「根岸色」という。また根岸色より少し薄い色を「うぐいす色」という)


@37笹の雪 (@6も参照) #218
京都の製法の絹ごし豆腐に葛餡をかけて食べさせる。初めに高貴な方から「柔らかきこと笹の雪の如し」と賞せられたのでこの名前にしたという。かつては大名や旗本が上野の寺院などへお遣物にしたり、吉原、根津、谷中(*いずれも江戸期の花街)の朝帰りの客や天王寺の富くじの客などが群れて訪れたという。今も入谷の朝顔を見てから朝飯を食べる客は多い。
(訳注:明治期の朝顔市は9軒の朝顔栽培業者の庭園を廻って鑑賞するものであり、毎年7月のお盆から、8月下旬までの約50日間が開園期間であった。入園料無料の業者と有料の業者がおり(当時の狂歌「朝顔におあし取られて貰い泣」)、菊人形ならぬ朝顔人形も展示された。モデルコースとしては、まず朝一番で不忍池の蓮が開くのを見た上で、朝9時が見ごろの朝顔を鑑賞し、帰り道に笹の雪もしくは上野池之端の揚出し(大衆料亭、豆腐の揚出しを名物とする。洋画家子絲源太郎の生家)で一杯やるのが推奨されている。今も7月の朝顔市の3日間は午前7時に開店する)


@38万年青(おもと)
栽培している家を篠常五郎(*1860-1917 明治18年に元勲三条実美、報知新聞社主筆栗本鋤雲、山岡鉄舟らの助力のもと「万年青図譜」「万年青培養秘録」を発刊。後に大槻文彦の編で「続 万年青図譜」を刊行。明治末期の地所は3000坪に達する)の肴舎(*さかなや)という。4代の祖である吉五郎は魚屋であったが、この草の栽培をはじめてから現在までその業を継いでいる。そのうち、根岸松(*名は御行の松に由来する)という種が国内でも絶品とされる。
明治10年に全国万年青競進会がこの家で開かれてから、毎年10月に開会されている。数千金の値がつくものもあり、およそ根岸にあって日本一と称すべきものはこの家の万年青であろう。
(訳注:この記事をうけて子規の病床日記<虚子、左千夫、碧梧桐 記>の明治35年1月22日の部分に以下の記述がある。
(前略)大槻文彦氏の根岸地図中に書して 根岸に日本一唯だ一つあり肴屋の万年青なりと 日本一を万年青なりとは何等の俗さ加減ぞ 若し日本一を言わば多田氏(?)の仮名でも挙ぐべきに など話さる
左千夫氏若し日本一を言わば山下の表具屋こそ正に適当なるものなれと語る
病人も大いに之を賛して万年青に勝る萬々と笑わる そう言えば根岸には日本一多し 第一不折 第二粂八などいろいろ数えらる(後略)

文中に注釈を加えれば
多田氏の仮名=多田親愛(1840-1905)のかな書を指す。1892年当時、金杉村215番地に暮らし、博物局(現在の東京国立博物館)に勤めながら、かな書道界の先頭にたっていた。明治20年に明治天皇の妃、昭憲皇太后の命により色紙24枚を奉献したことで一躍有名になった。
山下の表具屋(金杉160番地ほか一帯)=宮内庁御用経師 山下七兵衛(1850-1920)を指す。江戸時代は仏師屋を家業とし、明治期に入り美術院等諸大家の出入りを許される表具屋となった。根岸の大地主の一族(明治末期でおよそ4500坪を所有)であった(上根岸88の陸家の地主でもあるが、正岡家の地主は加賀前田家)。日本の印象派の先駆けで二科会創立メンバーの一人である洋画家 山下新太郎(1881-1966 代表作「読書」「靴の女」)の実家である。
不折=中村不折(#228下)
粂八=明治の女役者(女芝居の歌舞伎役者)市川九女八(1846-1913)。最初の役者名が岩井粂八。本名は守住けい。「女団洲(団十郎)」とも呼ばれ人気を博す。9代目市川団十郎門下になってからは市川升之丞、一時破門されてのちにゆるされて、明治27年に市川九女八と改名。新派や文士劇にでるときは守住月華を名乗る。月華の名は漢学者で団十郎のブレーンだった依田学海が命名。夫は狂言作家の藤基輔(守住新作)。


@39羽二重団子 (@15も参照)#109
極めて柔らかいのでこの名となった。三重や熊本の精米を用いて長く蒸すことを秘伝としている。小豆餡をまぶすものと、醤油をつけて焼くものがある。

@40煮山椒 (上根岸19−2)#246
元三島神社前の藤澤氏が売っている。原料は静岡県産の朝倉山椒の子(*木の芽)に限る。精製した絶品の醤油で長く煮ることを秘伝としている。
しばらく保存するとなお風味を増す。また青紫蘇の葉を粉にして売っている。種から精選して作っており年を経ても、香り、色に変化がなく、あまねく賞せられている。

根岸及近傍図(右上〜左上の解説文)

訳にあたっての注意
1.「根岸及近傍図」内の解説で○印付で説明書をしているものを、「@数字」で順番に通し番号を振った。「図中の文字情報」も「#数字」として通し番号を振り、相互に関連する項目には該当の番号を挿入することで検索の便を図った。
2.「*」は訳者による付け足しの記述(西暦や読み仮名など客観的なもの)
3.「訳注」は訳者が一歩踏み込んで、蛇足的に付け加えた情報(主観的なもの)。



東京根岸の里は、かつて武蔵国豊島郡(*明治11年11月2日からは北豊島郡)金杉村の一部であったが明治22年(*1889)5月1日より、村内の石神井用水から南の土地が下谷区内に編入され、上、中、下根岸町となった。用水から北の土地は日暮里村となった。
金杉村は、室町時代の応永年間(*1394-1427)の文書に、「金曽木」と記されている。「金曽木」という地名は所々にある。「鉋」を昔は「かな」といい、「そぎ」は殺ぎ(*削ぎ)の意味で「こけら」(*屋根に用いる薄い板や鉋屑)の厚いものを指す。「こけら」の産地であることに由来した名と考えられる。
(訳注:この地名由来の説明にはいささか、疑念がある。一般的には、「新編武蔵風土記稿」で紹介されている鶴岡八幡宮の文書(*1399)から、この地に住んでいた金曽木彦三郎なる人物の名に由来しているという説が主流である。だがその名前「金曽木」は何に由来するのかは不明)
天正(*1573-1592:室町時代)の文書にはすでに「金杉」という地名が見える。正保3年(*1646:徳川家光の世)に東叡山寛永寺領となり、金杉町とは分かれた。
(訳注:この頃に町屋村、三河島村、谷中本村、中里村、田端村、新堀村も寛永寺領になった。また、金杉町とは町方支配地である奥州裏街道沿いの金杉上町、金杉下町のこと。現在の金杉通り沿いの下谷3丁目と根岸4・5丁目の一部である)
金杉村の中央以南の地の字(*あざ)名は、南部を「根岸」、西北及び新田を「杉ノ崎」、東北を「中村」、更に東北を「大塚」と分けて呼んだ。「根岸」が一番南側なので、江戸のほうからはこれらの地をまとめて「根岸」と呼んでいた。「根岸」という地名は、上野山の根の岸にあるから付いたものである。
(訳注:金杉村の中央以北の地の字名は、谷中前、中下り、大下り(おおさがり)、井戸田の4つである)
長禄(*1457-1460:室町時代)の江戸図というものには金杉村と根岸村が並べて書いてあるが、そんなはずはない。この図は後世の偽造の図であるので、取るに足らないものである。金杉村民の戸数は、昔は18戸にすぎなかったが、のちに36戸となり、文化文政の頃(*1804-1830)には230戸となった。
この場所は上野の山の北の影に位置するせいか、元々、静かで趣き深い環境であったので、江戸の武士や町民で別荘などを設ける人が多く、文政天保の頃(*1818-1844)もっともその動きが盛んであった。天保6年(*1835)の「諸家人名録」を見ると根岸に住む者は文人だけで30名もいた。ところが、天保の華奢厳禁の政令(*老中水野忠邦の天保の改革での倹約令)で、武家町人が百姓地に住むことを禁じ、みな家を引き払ったため一時原野のようになったと、今に伝えられている。

さらに、天保12年(*1841)1月5日に、村内貝塚(*現在の荒川区東日暮里5-42アインスタワー付近か)より失火して、金杉・坂本・入谷まで全焼した。30〜40年前(*1865年頃)まで、上野山の裾野にはきつね、たぬき、山うさぎなど、多く棲んでいたという。その後、だんだんと都会人が来て、住む人も見られ明治維新後(*1870年頃)になるといよいよ、その傾向が強くなり、今では(*1900年)田んぼまで人家となっている。地元の大地主、文人、いろんな技芸士の住まいが軒を連ねて、去年(*1899年)の調べでは根岸3町(*上、中、下根岸)だけで975戸ある。「幽静の趣」とは昔のこととなってしまったが、いまなお、俗世から離れた小天地である。

@1大塚(下根岸62)#52
大空庵、宗派は真言宗。40メートル四方くらいの小さな丘の上にある。文政(*1818-30)の図(*月崖の図のこと)には、この場所に「ビクデラ(*尼寺) 大塚イナリ」と書かれている。「大塚」という地名もこの塚に由来するものだろう。
太田道灌(*1432-1480 室町時代の相模国守護であった扇ケ谷(おうぎがやつ)上杉氏の重臣、現在日暮里駅前に銅像がある。墓は伊勢原市)の七塚(*道灌が築いたとされる斥候用の塚)の1つといわれている(谷中本行寺の道灌の物見塚もその1つとか)。
雪中庵蓼太(*1718-87 俳人 雪門、大島蓼太ともいい、芭蕉庵を再興した。深川要津寺に墓)が「大塚の小高きところの尼寺の中で過ごした」というにはここと思われる。そのときの句として
「端居(*はしい)して 鶯に顔 みしらせむ」
(訳注:風通しのいい縁側に腰掛けて 鶯に顔を 見知ってもらったよ、の意)
「礼帳や まず鶯と 書初めむ」
(訳注:年賀の芳名帳の 一番目に鶯と 書いたことよ、の意)
がある。


@2御行の松(中根岸57)#67
笠をかぶせた形をした巨大な松で、西側の枝振りが一番いい。金杉村の水帳(*検地帳)に大松と書いてあるので、これが本名だろう。輪王寺宮の旧臣の本間八郎氏は、「上野の宮様が、御加行として100日間、毎朝上野山内および根岸あたりの神社仏閣を徒歩で廻られることがあり、この松の下で一息つかれるのが常であったので、地元の民は御行(*おぎょう)の松と呼んだ」という。この説を採用するのがよさそうだ。
(訳注:ご加行繞堂(にょうどう)といって一代に一度、2月の初めより100日間、毎朝3時に起きて、御掛かり湯を浴び、粥を食べ(お供のものも同様に)種々のご修法があり、これを加行という。次に繞堂とは、山内の中堂、法華堂、常行堂、東照宮、山王社、慈眼堂両大師、御本坊うちなる東照宮、弁天社、稲荷社、将軍家の霊屋、位牌所、女霊屋、律院など巡拝することをいう。<大槻文彦著 「根岸御行の松」より>)
小畑詩山(*1794-1875 名は行簡 呼称は良卓 現在の宮城県大崎市古川の出身で公現法親王に仕えた医師)は、上野の宮様の侍読(*個人教授)だった。その御行の松での作品として、「後凋松偃翠髯清 雨雪風霜老倍栄 一自台王蒙御幸 晝宵時有吹笙声」がある。
(訳注:松偃(しょうえん)、しぼむ後も翠髯(りょうぜん)清く、雨雪風霜、老いて栄えを増す。一人、台王、自ら御幸(みゆき)を蒙り(こうむり)、昼宵時に、笙吹く声有り、といった意)
拙い作品であるが、間接的な証拠として紹介する(空海や文覚(*もんがく 平安末期・鎌倉期の真言宗の僧。源頼朝に気に入られ神護寺を再興し、東寺を修理したが頼朝没後、策略で佐渡および対馬に流される)が行法をしたという説は採らない)。
この松の下に不動堂がある。ここは昔、奥州路だったとも伝えられており、文明年間(*1469-1487:室町時代)の道興准后(*どうこうじゅごう 京都聖護院門跡)の「廻国(*かいこく)雑記」(*1486)に「忍ぶの岡というところの松原のある陰に休んで、霜の後 あらわれにけり 時雨をば 忍びの岡の 松もかひなし」と読んでいることに因んで、ここを時雨が岡といい、松を時雨の松ともいう。
(訳注:ただ一般に「忍が岡」という場合には上野の山を指すため、上の歌で詠われたのは上野山中の松原と考えるのが自然である。また御行の松は昭和3年に枯死したが、その年輪はおよそ350年だったという。よって1580年頃に芽生えたことになり、文明年間にはこの木は存在しなかった)


@3円光寺(中根岸38) #77
臨済宗の寺。以前は園内に名木の藤があった。藤棚の長さは約50メートル、幅1.2メートルで、花房の長さは1.2〜1.5メートルもあった。開花の頃には都下の人が群れ集まってきたため藤寺ともいわれた。
市川白猿(*1741-1806 5代目市川団十郎、後の市川蝦蔵 東洲斎写楽の錦絵に、彼を描いた「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたづな)竹村定之進役の大首図がある。ただし、7代目市川団十郎1791-1859の可能性もある)は、かつてこの近所に住み
「猿猴(*えんこう)の手よりも長き 藤の花」という句を詠んだ。藤は、いまはない。
(訳注:猿猴とは、中国・四国地方に古くから伝わる伝説上の生き物。河童の一種。海又は川に住み、泳いでいる人間を襲い、肛門から手を入れて生き胆を抜き取るとされている。この妖怪のモデルは中国に住むオナガザルであるともいう)


@4梅屋敷跡(上根岸131)#234
天保14年(*1843)、村民の小泉冨右衛門が梅園を開園した。弘化2年(*1845)2月、時の将軍徳川家慶(*いえよし)の世継ぎ家定公が鷹狩りの時、「お通り抜け」と称して園内を鑑賞された。安政・文久の頃(*1854-64)、園は閉鎖された。嘉永元年(*1848)の「初音の里鶯の記」の碑が、この跡地に残っている。(訳注:現在も根岸2-18の前田邸内に残っており、戸川安清(1787-1868)による書である)


@5石神井用水 #105
地元の人は「せき」と言っている。音無川と記す場合もある。西方の王子村金輪寺(*きんりんじ 王子神社の別当寺)の下で、石神井川の水を5mの堰で止め(*明治25年に経費1748円をかけて大改修を実施)村内を東に流して、近隣の数カ村の用水とし、最後には隅田川にそそいでいる。


@6笹の雪(@37も参照)(金杉191)#218
豆腐の名前であり、これを売る店がある。ここには元は二軒茶屋といって両の角に2軒あって飴菓子などを売っていたところである。80年前(*1820年頃 文政年間)に京都出身の奥村忠兵衛がこの地に豆腐店を開店し、今までに5代営業している。
(訳注:80年間で5代、代が変わるのはいささか代わりすぎと思う。「笹の雪」で伝える歴史は以下の通り。「元禄4年(*1691)初代玉屋忠兵衛が上野の宮様(公弁法親王)のお供をして京都より江戸に来て初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが当店の始まりです。宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と称賛され、「笹乃雪」と名付け、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は現在も店内に掲げてございます」。一方、幸堂得知が明治40年に書いた「上野下一巡記」にはこうある。「文化初年(1804)頃の開店にて、元は三河島より市場へ野菜を出す者、朝飯を立ち寄りて食し行くために出来たる店ゆゑ、朝は未明に門を開き正午には売り切るというのが定めなりしも、明治の後は百姓より他の客が多く…」。また明治末期において店で提供したのは、お酒のほかはあんかけ豆腐と焼き海苔とご飯だけで、営業は午前5時から11時ぐらいまでだったと伝わっている)


@7おまじない横町(金杉265と266の間)#76
文政(*1818-1830)の頃、呪術にて病を治す者がここに住んでいた。その術では脚で患部を蹴って全て治したという。弘化(*1844-1848)の頃、浅羽某という者がここに住み算木による占いで灸をすえて治療を施したという。


@8一本橋(上根岸124の前)#226
かつては丸木橋であった。この西北角の酒屋(*金杉161)は、彫物師の濱野矩随(*はまののりゆき<2代目>1771-1852 江戸中期・装剣彫金工の一派、浜野派の一人。腰元彫りともいわれ帯留、つばなどを作った。講談および落語で知られる「浜野矩随」のモデルである)の旧宅である。また平田篤胤(*あつたね 1776-1843秋田佐竹藩出身 江戸後期の国学者・幕末国学の主流 平田神道の創始者)は、この橋の北の田んぼ辺りに住んでいた(*1835年12月〜1841年1月までの間。輪王寺宮の用人 進藤隆明の世話で転居し、1836年には著書「大扶桑国考」を舜仁法親王に献上した)とのこと。


@9五本松(上根岸85の南西)#127
上野山の津梁院(#128訳注:寛永寺裏に規模縮小なるも現存)の北裏の崖上にある数株の松をいう。その東には笠松というものもあった。この辺の上野の森の雪景色は美しい。


@10台の下(上根岸85〜103付近)#204
五本松の崖下の地をいう。かつてはこの辺りは松原と田んぼであったが、今はみな人家となってしまった。


@11御隠殿跡(上根岸96及び107〜114)#220
上野の宮の隠居御殿であった。古図には御隠居所とのみ記しているものもある。宝暦3年(*1753 吉宗の死去後、家重の世 輪王寺宮公遵法親王の隠居時)7月、杉ノ崎の土地4反1畝(約1230坪)余りを買い上げられて造営した。荘厳を極め、一種の宮家の庭園であった。五本松の下に茅門(*ぼうもん)があって、宮は裏伝いに御殿へ入られたそうだ。御殿内の絵は狩野洞春美信(*かのうどうしゅんよしのぶ 1747-1797 江戸後期の画家。駿河台狩野家4代目。3代元仙方信の養子)の作であり、庭には池、池中の島、そして朱欄の橋などがあり、池の中には錦邊蓮(*白花の蓮の一品種 英名 Pink Tip White Bowl)を植え、月夜などには舟をうかべて楽曲を奏でたという。
徳斎(*原徳斎 1800-1870 儒者「先哲像伝」「徳斎日新録」といった著書がある。古河藩の地誌『許我志』を著した原念斎の養子)の記では、この地の四季の景色を「月は御隠殿まえ、また台の下 松原辺り最もよし、いわんや管弦の音、山岳にひびく夜は、また仙界の趣あり」と書き記している。
戊辰の彰義隊の戦争で、官軍により旧殿は焼き払われ、その跡はいま民家(訳注:明治6年に駒形どぜうの渡辺家が払い下げを受けたが、明治16年の鉄道敷設の際に大部分が失われたいう伝承もある)となり、残っているのは御隠殿の表門前にあった用水に掛かる大石橋のみである。
(訳注:この御影石づくりの橋は長さ2.7m×幅3.9mで、44cm角2本、33cm角9本の石材でつくられていたが、1935(昭和10)年にその橋も撤去され、その瓦礫は国鉄の線路際に打ち捨てられていたというがそれもいつしか何者かによって持ち去られた。ただ橋桁だけはいまも道路の下に残っているという)
元禄図にはこの西に火屋とでているが、火葬場であろう。
(訳注:4代将軍家綱(1641-1680)は東叡山参詣の際、火葬の臭気が山内の及ぶことに不快を示しため、小塚原の一町四方の土地への火葬寺の集団移転を行ったという)


@12水鶏橋(*くいなばし)(上根岸114の前)#223
御隠殿の敷地の東北角に、用水に掛かった幅30センチほどの石橋を指す。近年、石橋を架け替えて「うぐいす橋」との名を刻んだ。かつてはこの辺りの用水の北側は田んぼで、この辺や御隠殿の池などに水鶏が最も多く棲んでいたという。
(訳注:東日暮里5丁目のリーデンスタワー前にこの橋の複製がある)

@13貝塚(金杉134〜148付近)#202
金杉村の北、三河島村辺りは大昔、海が入り込んでいた。むかし3万坪にも及ぶ蠣殻山があり、享保(*1716-1736)の頃まで盛んに胡粉を製造したという。いまでもこの辺りの土の中は蠣殻である。蘭学の開祖、前野良沢(*1723-1803 名は熹(よみす)、字は子悦。蘭化、楽山とも号す。大分中津藩出身。1771(明和8)年3月に小塚原刑場にて、えたの虎松の祖父(90歳くらい)が行った通称青茶婆(50歳くらい京都出身)の腑分けを見学。1774(安永3)年に杉田玄白らと「解体新書」全5巻を著す。1780年大槻文彦の祖父大槻磐水(玄沢)が24歳で良沢のもとに入門し、1783(天明3)年に「蘭学階梯」を出版する。1793年頃から1802年頃までこの地もしくはこの近辺に居住した。良沢の墓は池之端七軒町の慶安寺にあったが、大正3年の寺の移転にともない杉並区梅里1−4−24へ移動。吉村昭著「冬の鷹」が参考になる)がここに住んだという。
(訳注:大字金杉字杉ノ崎141番地付近では、現在でも地面を少し掘れば大型の貝のかけらが次々とでてくる)


@14善性寺(貝塚の西、日暮里村大字谷中本字居村下1031の2)#108
日蓮宗で関小次郎長耀入道道閑(*鎌倉時代の豪族)が開基といわれる(西日暮里の道灌山はその宅地であったという)。日蓮上人(*1222-1282)がかつて関氏のところに泊まり、自筆でしゃもじにお題目を書いたという。それをこの寺で保管していたが、今は谷中の瑞林寺にある。徳川6代将軍家宣の母、長昌院(*1637-1664 甲府宰相徳川綱重(家光の子で、家綱の弟・綱吉の兄)側室 北条氏直の旧臣であった田中勝守の娘 お保良の方。後に越智松平家へ再嫁するが、28歳で難産のため死去)は初めこの寺に葬られたが、宝永2年(*1705)上野(*寛永寺子院の林光院)に改葬された。(訳注:現在は寛永寺墓地内 徳川家裏方墓地にある)
寺内には松平清武(*1663-1724 家宣の異父弟。母は長昌院。上野館林藩の初代藩主、後の石見<島根>浜田藩主家 宝永年間(*1704-1711)に当寺に隠棲という)、篠崎東海(*1686-1740享保期の儒学者。荻生徂徠の門に出入りし、林大学家にも短期入門。主著『不問談』(とわずがたり))、吉田圓齋(*1755-1794暦学者 吉田子方、名は平)(鵬斎(*@18参照)の碑文)、一刀流中西忠太郎(*-1801 小野一刀流)(葛西因是(*1764-1823 儒学者)の碑文)の墓がある。


@15団子や(@39も参照)(日暮里村大字谷中本字居村下1137)#109
文政図に「フジノチヤヤ」と出ており、菜飯を売っていたという。お年寄りは今でも藤棚といっているが、藤はもうない。明治元年(*1868)より村人の澤野庄五郎が団子を名物として売りはじめ、羽二重団子として今は有名である。
(訳注:なお、「羽二重団子」自らは創業を1819(文政2)年といい、寛永寺出入り植木職人であった初代庄五郎が、街道往来の人々に自慢の庭を見せながら団子を供したのがはじまりという。酒も提供したので、団子で酒というのが上戸下戸を兼ねるとして妙案とされた。1838(天保9)年の妙めを奇談に「芋坂下酒店の軒、何れも盛なり」との記述あり。1907(明治40)年頃までは軒先に澄んだ水をたたえた井戸があったという)

「根岸及近傍図」解説文および文字情報バージョンアップ終了

「根岸及近傍図」解説文および文字情報を2008年バージョンから2013年バージョンへ変更し終えました。