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2013年03月20日

「根岸及近傍図」の文字情報4(左半分で番地表記内の部分)

「根岸及近傍図」の文字情報4(左半分で番地表記内の部分)

注意
1.例えば「@6」とは、「根岸及近傍図」の解説文の@6で触れられていることを指す。
2.「*」が初めに付いているものは、地図で触れられていないものをあえて注釈者が解説したものである。

<町名・字名>
#200日暮里村大字金杉
明治44年で番地は134〜221番地。
日暮(ひぐらし)の里の旧家や 冬牡丹<子規 明治33>

#201中新田
江戸時代に低湿地を排水し新田開発したものか? 現在の竹台高校付近。明治後期には「大質」という質屋の元締めを行っていた吉田丹左衛門の吉田別荘があった。

#202貝塚 @13

#203上根岸町
大正2年の番地は1〜131番地。戸数788戸、人口男1711人、女1599人。
梅の中に紅梅咲くや上根岸<子規 明治27 發句を拾ふの記>
板塀や梅の根岸の幾曲がり<子規 明治27 發句を拾ふの記>
杉垣に海棠咲くや上根岸<子規 明治31>
冬ごもる人の多さよ上根岸<子規 明治31>
先生のお留守寒しや上根岸<子規 明治33 浅井氏の洋行を送る>

#204臺の下 @10
蛙鳴く水や上野の台の下<子規 明治34>

<番地内の部分 上部より>
#205三河島道 @35
現在の尾竹橋通り(都道補助100号) 改正道路ともいわれる三河島駅前通り(日暮里銀座通り 鶯谷駅前交差点付近から宮地ロータリー付近)は1926(大正15).10.31に全線開通した。1925(大正14).3.18午後3時頃に日暮里町大字金杉字大下り1437(現在の東日暮里3丁目29番地付近)から出火し1700戸余りが燃えたとされる日暮里大火では、この通りの東側で延焼し、改正道路の空間のお陰で西側には広がらなかった。
三河島菜(いかり菜)は、明治40年代には産地が三河島から尾久に移っていたが、漬菜として有名であった。昭和に入ってからは山中湖畔でつくられていたという。
朝霜や青菜つみ出す三河嶋<子規 明治26>
あの子とあの子は三河島(川柳)三河島菜→いい菜漬→許嫁

#206湯や(大字金杉字谷中前)
銭湯。昭和6年にはこの場所に日の出湯という銭湯があった。終戦後はなくなり、その後昭和30年代以降に栄湯(石川憲三)ができたが、2002年ごろ廃業した。

* 同潤会鶯谷アパート(金杉153)
関東大震災の義捐金をもとに1924(大正13)年に設立した財団法人同潤会が1929(昭和4).3.28に竣工。当初は日暮里アパートメントといったが、昭和6年に鶯谷アパートメントに改称。1〜3号館に合計95戸あり管理人室が1戸あった。昭和26年に分譲。平成に入って取り壊しの上、リーデンスタワーが建ち地上96m、29階建てとなった。

*国際理容美容専門学校(金杉147付近)
昭和30年に駒込上富士前町に開校したが、その後手狭になり荒川区日暮里3丁目の土地180坪を地主の好意と当時の町会長である滑川寅松の協力を得て購入し、栃木県の小学校が立て直しのために売却した校舎を日暮里まで搬送し新校舎として昭和33(1958)年に運用開始(木造2階建て)。その校舎も手狭になり、昭和37(1962)年9月10日に鉄筋3階建て370坪の校舎が落成。校舎の屋上に運動場を備えていた。初代校長 松村重貴智。

#209かひづか

#210牧野家(金杉134)
牧野子爵家(明治末期時の当主 牧野忠篤 1870~)右馬允康成系 越後長岡藩主

#211カリコミ店(金杉146)

#212ソバヤ(金杉146)
清廼亭という名か?(大正元年地籍図より)

#213湯ヤ(金杉146) 
藤の湯。正岡家行きつけの銭湯。
銭湯に善き衣着たり松の内<子規 明治30>
寒き夜の銭湯遠き場末哉<子規 明治33>

#214酒ヤ(金杉161)
浜野酒店(浜野矩随の末裔)、「一本堂」の創業地(#226)

#215なかしんでん

#216ソバヤ(金杉196)
大正元年地籍図によれば瓜生外吉。

#217ささのゆき横丁(笹の雪横丁)

#218笹之雪(金杉191) @6,@37
「朝顔の入谷、豆富の根岸哉<子規 明治26>」といわれた。お店には河鍋暁斎(1831-1889)の描いた豆腐を食す恵比寿と大黒の二幅対がある。落語「茶の湯」に登場するとうふ屋は、この店の存在がヒントになっているのではと憶測する。改正道路(旧 笹の雪横丁)が完成した大正15年ごろに「笹の雪」は現在の場所(根岸2−15付近)に移転したと推測する。
うつくしき根岸の春や ささの雪<子規 明治26年1月5日>
鴬の糞の黒さよ豆腐汁<子規 明治26年2月5日 獺祭書屋日記>
鴬の糞の黒さよ笹の雪<子規 明治27年3月14日 小日本>
豆腐屋の門に夜飛ぶ蛍かな<子規 明治28>
朝顔に朝商いす笹の雪<子規 明治30年8月27日 病牀日記>
朝顔の入谷根岸のささの雪<子規>
水無月や根岸涼しき篠の雪<子規>
市の日の朝顔ならぶ ささのゆき<水原秋桜子>

#219カリコミ店(金杉267)
床屋。大正元年地籍図によれば村上耕一郎。(金杉268は魚栄となっている)

#220御隠殿跡 @11
輪王寺宮(輪王寺の名は吉野山金輪王寺に由来する。「上野宮」「日光御門跡」「一品法親王」「三山(日光・比叡・東叡)管領宮」とも呼ばれる。通常は上野にいたが、毎年3回日光に向かった。江戸出立日は4月12日、9月7日、12月26か25日と決まっていた)のご休息所として宝暦4年(1754)に設けられた。第5世公遵法親王の退職した当初は浅草伝法院を御隠殿と称したこともあるが、寛政5(1793)年に普請が完成し公延法親王は当地の御隠殿に移る。その後、文化6(1809)年第一次修理、文政8(1825)年第二次修理、天保7(1836)年第3次修理。
凧あぐる子守女や御院田<子規 明治30年8月27日>
(御院田)人の庭のものとはなりぬ月の松<子規 明治30年8月27日>

歴代輪王寺宮を列挙すると
(寛永寺御門主第1世 天海大僧正(慈眼大師1535-1643.10.2 南光坊とも呼ばれた)、寛永寺御門主第2世 公海大僧正(久遠寿院1606-1695 在職1643-1654公家花山院忠長の子 毘沙門堂門跡)のあとを受けて)
初代輪王寺宮(寛永寺御門主第3世)守澄法親王 (本照院1634-1680 在職1654-1680)
後水尾天皇第2皇子 1647年に上野の山に来られて、1654年に日光御門跡及び寛永寺御門主に、1655年に輪王寺の門室号を受ける。同年天台座主(179代)にも任ぜられたが同年辞す。
2代輪王寺宮(同上第4世)天眞法親王、天真法親王(解脱院1663-1690 在職1680-1690)御西天皇第5皇子
3代輪王寺宮(同上第5世)公辨法親王、公弁法親王(大明院1668-1716 在職1690-1715)御西天皇第6皇子 1698年瑠璃殿(根本中堂)を建立
4代輪王寺宮(同上第6世)公寛法親王(祟保院1696-1738 在職1715-1738)東山天皇第3皇子
5代輪王寺宮(同上第7世)公遵法親王(随自意院1721-1788 在職1738-1752)中御門天皇第2皇子
6代輪王寺宮(同上第8世)公啓法親王(最上乗院1731-1772 在職1752-1772)閑院宮直仁親王御子
7代輪王寺宮(同上第9世)公遵法親王(再任 随♀y院 在職1772-1780)
8代輪王寺宮(同上第10世)公延法親王(安楽心院 1761-1803 在職1780-1791) 閑院宮展仁親王御子
9代輪王寺宮(同上第11世)公澄法親王(歓喜心院1775-1828 在職1791-1809)伏見宮邦頼親王御子
10代輪王寺宮(同上第12世)舜仁法親王(自在心院1788-1843 在職1809-1843) 有栖川宮熾仁親王御子
11代輪王寺宮(同上第13世)公紹法親王(普賢行院1814-1846 在職1843-1846) 有栖川宮韶仁親王御子
12代輪王寺宮(同上第14世)慈性法親王(大楽王院1812-1867 在職1846-1867) 有栖川宮韶仁親王御子
13代輪王寺宮(同上第15世)公現法親王(1846-1895 在職1867-1868  1868.5.15の上野戦争時には根岸から脱出。三河島村名主松本市郎兵衛宅、植木職人伊藤七郎兵衛宅や下尾久、上尾久を転々とし、浅草東光院、市ヶ谷自証院を経て品川沖から船で磐城平へ、さらに仙台に移り奥羽諸藩と行動を共にするが、奥羽諸藩鎮定ののち1968.11.3千住宿を経て京へ向かった。1869.10.4に伏見宮家復帰し、1870.11還俗)伏見宮邦家親王第9子。嘉永元年、仁孝天皇の養子となる。実兄は官軍征討大総督小松宮彰仁親王(京都仁和寺門跡(仁和寺宮純仁親王)だったが戊辰戦争をきっかけに還俗。明治45年に建立された像が上野公園内(元の寛永寺鐘楼跡)にあり)。
伏見宮復帰後、北白川宮能久親王となり、1870.12~1877.7アメリカ、イギリス経由でドイツへ留学し用兵の学術研究を行う。日清戦争で領有した台湾に近衛師団長として赴任したが、マラリアにかかり病死。銅像は日光山輪王寺にあり。
いたはしき法親王の夏書かな<子規 明治28(1895)>
歴代寛永寺御門主の墓は両大師の西側にあるが、3世、4世、6世、8世、12世、13世、14世が実際に埋葬されており、その他の方は毛髪塔あるいは供養塔である。(1世天海は上野公園内旧本覚院の場所に毛髪塔あり。墓は日光山輪王寺)
明治28年に輪王寺門跡復興。元の輪王寺の場所は博物館になっていたため開山堂東南に落成。寛永寺転法輪殿には、その復興の際に三十三間堂の御本坊妙法院から移納された阿弥陀三尊像がある。

#221三島社(上根岸107)
厳島神社。元々は御隠殿内に輪王寺宮が建立したもので、弁財天が祀られていたものと思われる。上野戦争で焼失するが再建。明治34年に元三島神社と合併し、ここには神輿庫を残して売却した(約750坪)。その代金で元三島神社は別当寺であった西蔵院から自分の地所を買い受け独立(それまでは借地)。その後、厳島神社は元三島神社境内で祀られていた。

#222ミコシグラ(神輿庫 上根岸107)
上根岸の神輿庫はいまどこに?

#223ウグイスバシ(鶯橋) @12

#224薬師(上根岸117)
根岸薬師寺。布田の薬師として有名な東金市上布田の薬師と関係があるとか。眼病治療に効果ありとかいわれている。
藤咲いて眼やみ籠るや薬師堂<子規 明治29>

#225ヤクシマヘ(薬師前)

#226一本バシ(一本橋) @8
このあたりの音無沿いの道を「川端通り」と呼んだ人もいたという。また薬局チェーン「一本堂」の名はもともと昭和初期にこの橋のたもとで営業を開始したことに由来しているとの証言あり。また、一本堂の創業者は@8に出てくる浜野矩随と縁続きの浜野酒店を経営していたが、関東大震災後、薬剤師の妻を迎えて薬局に商売替えしたとのこと。
蚊の声もよわる小道の夜明かな<子規 明治27年 そぞろありき>

#227シャシンヤ(写真屋 上根岸127)
大正期は春光堂写真館 納屋才兵衛(弘化4(1847)年-昭和8年  享年87歳)。後に豊田写真館?

#228八石教会(ハチコク教会 上根岸126)
大原幽学(1797-1858 明治期の農村指導者)の教えを奉じ、農作業を実践した教団。ここは男子用の施設であり、女性用の施設は下根岸にあり、北大久保1056(現在の西日暮里4丁目27番地付近)にも支部があった。本部は現在の千葉県旭市長部(現在もここに旭市立大原幽学記念館がある)。石毛源五郎(1832-1915)が3代目教祖となった1874(明治7)以降旧幕臣の入門が相次ぎ、これまでの農村共同体的な組織から反文明開化、反明治的な精神修養を重視する教団として変質した。東京の組織の証言として、「どこまでいくにも徒歩」「髪は切らない」「どんな小さな子でも髷を結う」「収入はすべて教会に納める」「魚は食べるが肉は食べない」「洋傘や外套は用いない」といった表面的な特徴がみられたという。
当所は1881(明治14)年10月20日に上根岸の出張所として定められた。
「当、上根岸は日光山輪王寺御官坊本間相模守の永代所持の副屋敷にて、建て家・庭石・樹木などもそのままである。明治元年以降、本間氏は柳原謙吾へ建て家だけ譲り、本間氏は本屋敷で暮らした。その後、本間氏は本屋敷を加賀前田家へ譲り、柳原氏から副屋敷を取り返してそこで暮らした。それから本間氏は町人の村田氏へ副屋敷を譲渡した。さらに村田氏は旧土佐藩の伊賀氏へ譲った。明治14年に伊賀氏から譲り受けた伊藤悦子、佐藤為信、宮田正之ならびに与惣治らの希望により、同年10月20日八石教会出張所と定めた。庭木に松が5本ありこれが珍しい木なので嬉しいから、この建物を松翠堂と号することとする」(「東京登乃記」幽学記念館所蔵 明治15年9月2日の記述を現代風に書き換えたもの)
ただこの松翠堂と物置は1884(明治17).1.31の午後5時ころ焼失したため、その後再建した。しかし財政事情の悪化から1902(明治35)年頃この地所を1万円余りで売却した。同時に石毛派(新派)と反石毛派(旧派)の以前からの対立が激化し、1906(明治39)年石毛は八石本部を追放され東京に来るが、1907(明治40)年に旧派が中心となって財団法人八石性理学会を設立した。性理学、性学とも称する。
石毛はその後2代目教主遠藤良左衛門が客死した場所であり、その縁で八石の拠点があった滋賀県石部(石部にも現在、八石資料室がある)で過ごし、そこでこの世を去った。
八石の拍子木鳴るや虫の声<子規>

* * (上根岸125、126−1)中村不折宅
中村不折(1866-1943 本名中村ニ太郎 太平洋画会を創設)明治29年頃より雑誌、新聞小説への挿絵を手がける。明治30年代初頭には上根岸40に浅井忠(1856-1907洋画家1900年渡仏)と並びで暮らしていたが、1901(明治34)年フランスへ留学しロラン・ローレンスに師事、帰国後湯島4丁目3番地を経て中根岸31番地に新築し暮らした(一方で明治32年に中根岸31番地で暮らし始めたとの記録もある。平成23年にこの場所で当時の土蔵が再発見されて話題になった)。明治40年代には不折や碧梧桐が書いた六朝文字が流行した。1915(大正4)年5月、およそ3万円で約800坪を購入し、その後昭和18年に亡くなるまで暮らす。購入した建物は中根淑(なかねきよし 1839-1913 漢学者旧幕臣。香亭と号し出版社金港堂の編集長を務める)が建てたもので、土地は日本橋在住の質屋太田惣吉から入手したものと伝わる。昭和11年に書庫として書道博物館を建築。


#229たぬき横丁 今うぐいす横丁
鶯横町塀に梅なく柳なし<子規 明治30年8月27日 病牀日記>
門鎖す狸横町の時雨かな<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

* (上根岸88)陸羯南宅
陸羯南(1857-1907 くがかつなん 本名田中実 津軽藩出身、明治7年宮城師範学校入学、明治9年退学。入学時の校長は大槻文彦だった(在任明治6年〜明治8年2月)。1889(明治22).2.11に創刊した国粋主義的新聞「日本」の主筆)の家。子規の叔父、加藤恒忠の友人で、子規の保護者的役割を果たす。
金杉や二間ならんで冬籠<子規 明治25年11月25日 獺祭書屋日記>
鶯や垣をへだてて君と我<子規 明治29 (陸氏の書生だった佐藤)紅緑に送る>


* (上根岸82)正岡子規宅 
正岡子規(1867-1902 本名 升 愛媛松山藩出身。名は常規、号は獺祭書屋主人、竹の里人)上根岸88番地の陸家の道向かいで明治25年2月29日〜27年1月まで暮らした後、明治27年2月から死去する35年9月までを82番地で過ごした。明治25年12月1日、新聞「日本」の社員となる。明治27年2月には編集長として「小日本」を創刊するが、同年7月に廃刊。明治30年の家賃は5円、明治34年で6円50銭であった。革新俳句の「根岸派」(高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、中村不折、長塚節、夏目漱石)を組織するとともに、万葉調写生主義短歌のグループ「根岸短歌会」(1898(明治31)年〜 伊藤左千夫、岡麓、香取秀真、平福百穂)を立ち上げる。代表作「歌よみに与ふる書」もこの地で書かれたもの。子規全集などの純益により大正12年、1万5千円で前田家から土地を買い取る。昭和2年4月、財団法人子規庵認可。昭和20年4月、空襲のため土蔵を残して全焼。間取りそのままに再建。庭には鼠骨句碑「三段の雲南北す 今朝の秋」がたつ。
鴬の遠のいて鳴く汽車の音<子規 明治25年>
その辺にうぐいす居らず汽車の音<子規 明治25年>
名月や われは根岸の四畳半<子規 明治26>
萩桔梗撫子なんど萌えにけり<子規 明治29 病起小庭を歩きまわりて>
萩植て家賃五円の家に住む<子規 明治30年8月30日 病牀日記>

#231前田家(上根岸82)
加賀前田侯爵家(当時の当主 前田利為 としなり 1885-1942 旧七日市藩<群馬県富岡市>の前田利昭の5男。1900年1月に利嗣の娘 I子 なみこ<後にパリで客死>と結婚し婿養子に。後妻は酒井家の忠興伯の娘 菊子。太平洋戦争でボルネオ守備軍司令官陸軍大将 昭和17年ボルネオで飛行機事故で死去)。本間家から明治初期に購入したもののようである(#228)
板塀にそふて飛び行く蛍哉<子規 明治27>
加賀様を大家に持って梅の花<子規>

#232なかみち
明治後期の根岸のメインストリート。現在もその道筋はかろうじて残っている。
中道を中に梅さく籬哉<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

#233諏訪家(上根岸72) @20
信州諏訪子爵家(高島藩3万石)。明治末期の当主は、諏訪忠元(1870-1941 溝口直正伯爵の弟)。大正14(1925)年7月ごろ、引っ越し移転。

* (上根岸74)河東碧梧桐宅
明治35年3月末〜大正6年4月。同じ番地内での引越しもあった模様。大正6年4月〜大正8年10月までは82番地に移る。その後、兵庫県芦屋へ。

#234梅ヤシキアト(梅屋敷跡 上根岸131) @4,@30

#235酒屋(上根岸131)
みのや(美濃屋) 梅屋敷を開いた小泉富右衛門の子孫が経営していた。

#236ウンドン屋(饂飩屋 上根岸131)

#237カウバン(交番)
根岸町派出所(下谷坂本警察署管轄)。自働電話があった。

* 初音橋
交番前にあった、音無川にかかる橋の名前。

#238かうしんづか(庚申塚 上根岸71)
現在は道路拡張にともない根岸幼稚園前に移動している。刻像塔1基(寛文8年1668.9
月)と文字塔2基(寛文9年 1669.9月・元禄16年 1703.9月)の計3基。
蚊柱や庚申塚に泣く女<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

#239アウシュンテイアト(鶯春亭跡 中根岸41)@30
江戸時代からの料亭。明治18年版「割烹店通誌」では得意料理として鯛の黄身漬、卯の花ちらし、五毛久(ごもく)が挙げられている。「跡」とあることから明治34年頃には一時店を閉じていたのかもしれない。大正になると、卵の黄身だけで揚げた金麩羅料理、白身で揚げた銀麩羅で有名。室壁は根岸土を用い、建物は高い板塀に囲まれていた。
初午に鶯春亭の行灯哉<子規 明治31>

#240かねこやしき(金子屋敷)
文久元年の諸家人名録に見える 抱屋敷と思われるが由来不明

#241オモトヤ肴舎(万年青屋サカナヤ 上根岸63) @38
百両の蘭 百両の万年青哉<子規 明治30>

#242ふじでらまえ(藤寺前)

#243をかの れうり しるこ(岡埜 料理汁粉 中根岸36)
坂本岡埜の分店の料理屋。一名 此花園または古能波奈園。明治22年8月落成し(M22.8.9東京日々新聞)庭園も広かった。東京風俗志中巻(平出鏗二郎著 明治34)には「(汁粉屋)の旧きは、根岸の岡野、木原店の梅園、京橋の時雨庵、池之端の氷月なり」と挙げられている。「風俗画報」や「東京名所図会」の版元東陽堂は明治36年春、ここで懇親会を催した。明治39年2月からは耳鼻咽喉科専門治療所の根岸養生院として、岡田和一郎や菊地循一が看た。

* (上根岸17付近)陸奥宗光宅
(1844-1897 紀伊出身、坂本龍馬の同志。第2次伊藤博文内閣の外相) 薩長藩閥政府の現状に反発し、西南戦争時に土佐派とともに政府転覆を謀ったとして1878(明治11)年に禁固5年の刑をうけ、1883(明治16)年4月の特赦で宮城の獄から出てここに居住。しかし借金返済と息子広吉の留学費捻出のため売却(明治21.2.9陸奥広吉宛て書簡)。

#244カリコミ店(上根岸22) 
子規の文章に登場する「美術床屋」「堀口の中床」
子規の「夕涼み」(明治31年8月8日)には「あるじ自ら彫刻したといふ肖像、うつくしき椅子に並んで」という文章がある。
石像に蠅もとまらぬ鏡かな<子規 明治31年8月>

#245ソバヤ(上根岸19)

#246にざんせうこのみあん(煮山椒このみ庵 上根岸19) @40

#247もとみしままへ(元三島前)
木槿(むくげ)咲て 絵師の家問ふ 三嶋前<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

#248湯や(上根岸36)
銭湯。昭和6年には同じ場所で朝日湯が営業していた。戦後には廃業している。

#249かんちくながや(寒竹長屋)
寒竹とは、竹の一種で茎は紫がかっていて、葉は枝先に数枚あるだけ。竹の子は秋に出てきて食用。生け垣として植えられること多い。
垣間見る寒竹長屋冬の婆<子規 明治30年8月27日 病牀日記>

* 鶯谷駅
1912(明治45)年7月11日開業。昭和27年5月20日より、上野公園〜根津宮永町〜(言問通り)〜谷中町〜桜木町〜鶯谷駅前〜坂本2丁目(都電21系統と接続あり)〜江戸川区今井橋へと走るトロリーバスが運転開始。短期間で廃止されたとか。

#250元三島社(上根岸42) @28
縁起には、鎌倉時代の弘安の役の際、伊予水軍を率いて伯父通時と共に元軍の船を襲って、敵将を捕虜にし船に火を放って帰ってきたといわれる武将河野通有(-1311みちあり 祖父通信の妻は北条政子の妹)が、伊予一の宮の愛媛県今治市大三島の大山祗神社を、妻の出身(江戸太郎重長の娘)である江戸上野の山中に勧進したのが始まりという。1709(宝永6)年の綱吉死後の第二霊屋造成期に現在の寛永寺墓地あたりにあった旧地が東叡山御用地となり、翌年に浅草寿町へ移転するまでの間、この地にもともとあった熊野社に仮移転していたので、この熊野社を元三島明神というようになったとか。西蔵院が別当寺で、住職が神主を兼ねた時代もあった。明治4年の神社の社格制度発足時、浅草寿町の三島神社が村社であり、元三島神社は無格社であった。明治35年大規模修繕を実施。明治39年4月に「日露戦役従軍将卒記功之碑」(大槻文彦撰 建設委員はこのみ庵の藤澤碩一郎)がたてられ(現存せず)、碑の前にはロシア一等戦闘艦「レトウキサン」浮揚調査時に発見した12cm砲弾2個が置かれていた。大正10年3月26日に村社に昇格。昭和20年3月10日の空襲で焼失。昭和23年に社殿造営。昭和51年に新造営。
例大祭は5月15日。
氏祭 これより根岸蚊の多き<子規 明治35>
この記事へのコメント
#248湯や(上根岸36)さん
銭湯。昭和6年には同じ場所で朝日湯が営業していた。戦後には廃業している。
とコメントがございましたが、この場所はどこですか。
あるいは昔、根岸小学校の隣に銭湯があったと聞きましたが、情報・写真などございませんでしょうか。
宜しくお願いいたします。
Posted by 深さ家 at 2015年11月03日 17:57
ご質問の朝日湯の場所は現在の元三島神社から言問通りに抜ける道を通り、元三島神社の石柱のところから最初の信号を渡ったところの言問通りの道路上と推定されます。
根岸小学校付近の銭湯といえば、現在の根岸3丁目23番地に松の湯が明治期から平成一ケタ年まで営業していたので、こちらのことではないでしょうか。写真は↓
http://blog.goo.ne.jp/ryuw-1/e/39b74b9d14c856cd56034e2f99b1d5a2
Posted by むねやん at 2015年11月03日 22:32
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