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2013年03月20日

「根岸及近傍図」の文字情報3(左半分で番地表記外の部分)

「根岸及近傍図」の文字情報3(左半分で番地表記外の部分)

注意
1.例えば「@6」とは、「根岸及近傍図」の解説文の@6で触れられていることを指す。
2.「*」が初めに付いているものは、地図で触れられていないものをあえて注釈者が解説したものである。

<番地外の部分上部より>
#100王子タバタ道
金杉村に通じる道だったので金杉道ともいったようだ。西日暮里2丁目57番地付近の常磐線の踏切を「金杉踏切」というのはこの道の名に由来する。

#101フダバ(札場)
もともとは谷中本村の高札場

#102田端ステーションへ #172,#176
明治34年当時、日本鉄道(日本で最初の私鉄会社)奥羽線で上野の次の駅。
汽車とまるところとなりて野の中に 新しき家 広告の札<子規 明治32 道灌山>
1896(明治29).4.1に開業。乗客用の上野に対して、貨物用の田端として貨物連結駅としての機能を果たした。奥羽線は、川口〜熊谷間の工事は順調だったのに対して、当初予定していた品川〜渋谷〜新宿〜赤羽〜川口というルートが地形・距離の関係で工事の遅れ必至と見るや、1884(明治15)年8月に上野〜川口の支線の建設開業の認可を得て、10月には測量終了工事着手(この際、土地買収が終わらないうちに工事に入ったりして相当の無理をした様子)、12月までに西ヶ原まで築堤終了と急ピッチで工事を行い、1883(明治16)年7月に上野と熊谷間が開通した。その当時は上野の次の駅は王子、赤羽の順であった。1885(明治18)年日本鉄道品川線(品川〜池袋〜赤羽)が開通。1903(明治36)年日本鉄道豊島線(池袋〜田端)が開通。1905(明治38)年常磐線(海岸線)の開通にともなって、同4月日暮里駅と三河島駅が操業開始。三河島〜日暮里間が開通するまでは、海岸線は南千住から現在の三河島〜田端間の貨物線(隅田川線 明治29年12月開通。田端〜南千住の隅田川貨物駅間。隅田川の水運と日本鉄道の線路をつなぐ役目を担った。ちなみに土浦線も同じ明治29年12月に開通。南千住〜土浦間)を通って田端でスイッチバックをして上野へ向かったという。
明治42年設立の京成電気軌道鰍ヘ、押上から浅草への乗り入れを行う予定だったが、昭和5年に筑波〜日暮里・上野公園間の地方鉄道免許を取得していた筑波高速度電鉄と合併し、上野への乗り入れを決定。日暮里〜青砥間の開通は1931(昭和6)年である。なお西日暮里駅の開業は営団地下鉄が昭和44年、国鉄が昭和46年である。
早稲の香や 小山にそふて 汽車走る<子規 明治27 王子紀行>

*日暮里駅
1905(明治38)年4月開業。1952(昭和27).6.18午前7時45分ごろ、構内上野寄り南側陸橋の山手線側つきあたりの羽目板が、混雑する乗客のぶつかり合いではずれ十数名が高さ7メートルの橋上から落ちたところを下り京浜東北線にはねられ、死者6名(最終的には8名)、重軽傷者7名の事故が発生した。なお、谷中7−12の芋坂児童公園内に慰霊碑があるが、これがなんの事故に関する慰霊碑なのかは不明。

#103ヒグラシ道(日暮道)
日暮道とは、一般には現在の谷中7−5−7を起点とし、西日暮里3丁目の経王寺横〜諏方神社へいたる諏方台通りのことを指す。

#104こじき坂(乞食坂)
現在の日暮里駅南口の階段(紅葉坂跨線橋:昭和3年に鉄道省により架設され、昭和60年にJR日暮里駅南口が開設されたのに伴い幅員4mになった)下付近から、線路を渡った後、本行寺方面にのびる坂道。この道沿いの崖の穴に乞食が生活していたからこの名がついたという。江戸期には鳥追が暮らしていたとか。この坂の上り口あたりに、経王寺などで切り殺された彰義隊員を祀った石塚があったという。線路拡張によって移転。
さらさらと竹の落葉の音凄し<子規 明治27 そぞろありき>

#105石神井用水 @5
最後には浅草の山谷堀となり隅田川に注ぐ。幅は1.8m、深さは60cmほど。山谷堀では江戸期には、吉原への猪牙舟が盛んに往来していた。明治7年頃には蛍狩の名所として、谷中蛍沢、江戸川、小石川田圃、関口姿見橋、浅草田圃と並んで、根岸用水通が挙げられている(大和道しるべ東京の部 瓜生政和著)。ちなみに同書では轡虫の虫聞きの名所としても根岸が挙げられている。
1656(明暦2)年以前にこの用水は掘削され、王子の石堰の上流40mのところで2つに分水し、1つは王子・豊島・十条の上郷用水(管理は「上郷3か村組合」)、1つは23か村を流れる下郷用水(管理は「下郷23か村組合」)と呼ばれたが、1695(元禄8)年にさらにその上流の板橋村字根村に堰(根村堰)ができ、そこからの分流を上郷7か村組合用水というようになったため、前者の2組合は合わせて下郷26か村組合というようになった。江戸期にはこの上郷と下郷の間で渇水期の水争いが熾烈であった。また日照りのときには、村の代表が榛名神社へ出向き雨乞いの祈願をし、榛名湖の水を汲んできて村の田圃に撒いたという。
明治期に入っても農業用水としての役割は大きく、金杉村の明治21年の米の収穫高は698石3斗3升あまりであった。江戸期以降旧慣をもとに運営されていた組合は、明治初年の町村合併で「下郷23ヵ村用水組合」となったが、明治19年府知事認可のもと「石神井川下用水組合」となり、さらに明治23年の水利組合条例の制定にともない、下郷2区6町村の「石神井川用水普通水利組合」に改組し、用水の田畑への配水管理、用水路の浚渫をおこなった。しかしその後の宅地化にともない大正中期までには田圃はほぼ消滅した。農業用水としての機能を失って人々の生活における重要度は急速に失い、このころには「せき」とは呼ばれずに「どぶ」「大どぶ」と呼ばれるようになっていった。そして昭和8年に組合は解散し、同じ昭和8年ごろには根岸の部分は暗渠になったといいう。
別名、音無川というのは熊野権現の若一王子を勧請した王子権現の脇を流れていることから、紀伊の音無川の名をあてた。飛鳥山も紀州新宮の飛鳥明神を勧請したのでこの名がついた。いま音無川の名は日暮里駅東口正面向かって左の荒川消防署の出張所の名として残っているにすぎない。
春の水 根岸にそふてくねりけり<子規 明治28>
下駄洗ふ 音無川や五月晴<子規 明治30.8.27 病牀日記>
柳散り 菜屑流るる小川哉<子規 明治27>

#106したやなか(下谷中)
日暮里村大字谷中本字居村上および居村下。1688年頃谷中町と分離し、谷中本村になる。文政期の戸数は44戸。明治初期まで谷中しょうが栽培の中心地だったが、明治40年ごろには宅地化して産地は尾久に移った。

#107日暮里村役場 
1889(明治22)5月1日に金杉村(石神井用水以南及び飛地の字千束を除く)と日暮里村(下駒込村の飛地及び字南久保の内の1125〜1133を除く)と谷中本村が合併し、東京府北豊島郡日暮里村が誕生し、旧金杉村部分は大字金杉もしくは元金杉と表記された。1913(大正2)年に日暮里町になり、1932年(昭和7)に区制導入に伴い、日暮里町はなくなった。同時に大字は廃止され、字も旧金杉村の地区は日暮里1〜3丁目と名称変更した(例 字杉崎は日暮里3丁目)。村役場は字居村下1110-2にあり、現在の東日暮里5−52−7付近にあたる。

#108善性寺 @14
ねぎし古寺札所巡り第9番。長亨元年(1487)創建とか。長昌院霊廟の別当として、境内2050坪が与えられ、さらに金杉村内に持添年貢地1050坪を有し、足立郡伊刈村にも100石賜っていた。上野戦争時、彰義隊の出屯所となり兵火にかかり炎上した。また、昭和5年には寺前を流れていた音無川が暗渠になるに伴う王子街道の改良が行われ、昭和20年4月には空襲で境内焼失。昭和35年には尾久橋通りの拡張による境内縮小といった遍歴を経て今日に至っている。横綱双葉山(1912-1968 昭和12~13年にかけて5場所連続全勝優勝し、69連勝も達成した。長く時津風親方として相撲協会理事長をつとめる)や石橋湛山(1884-1973 東洋経済新報社主幹・社長、第55代内閣総理大臣。善性寺31世、久遠寺83世管主日謙上人の弟子でもあった)、中村又五郎の墓もある。寺入口に音無川にかかっていた将軍橋(当寺で隠棲した松平清武を家宣がしばしば訪れたのでこの名がついた)の遺蹟が残っている。

#109団子や @15,@39
芋阪も団子も月のゆかりかな<子規 明治27>
名物や月の根岸の串団子<子規>
芋阪の団子屋寝たりけふの月<子規 明治30.8.27病牀日記>
芋阪に芋も売らず団子売る小店<子規 明治30.8.27病牀日記>
芋阪の団子の起こり尋ねけり<子規 明治31 元光院観月会にて>
茶の土瓶 酒の土瓶や芋団子<子規 明治31 元光院観月会にて>

#110長善寺
日蓮宗。慶長2年(1597)円立院日義上人が創設。初めは実蔵坊と称したが、2世の日行上人が長善寺と名をあらためた。鉄道拡張にともない、大正14年杉並区へ移転。現在地は杉並区高円寺南2−40−50で、そこにある三十番堂は下谷中から移築したもの。

#111妙揚寺 
日蓮宗久遠寺末。自然山と号す。鉄道拡張にともない、大正14年(昭和3年1月?)世田谷区へ移転。現在地は世田谷区北烏山4−9−1。

#112いも坂
かつては自然薯がとれたことからこの名がついたという。

#113天王寺 
かつては長耀山感應寺といい日蓮宗であった。1698(元禄11)年、時の住職日遼が不授不施派に属し弾圧され(日遼は八丈島へ島流しに)、幕府の命令で天台宗に改宗し寛永寺に属す(初代住職は信濃善光寺の住職にもなった慶運僧正)。公弁法親王の御願で比叡山横川の伝教大師作毘沙門天を移し本尊とした。鞍馬山の毘沙門天は仏法守護の道場として比叡山の北西にあり、感應寺も寛永寺の北西にあたるため鞍馬山的位置付けで、寛永寺とともに拡大。1700年に富くじの興業の許可をうけ、江戸三富の一つでとして名を馳せ(あとは湯島天神と目黒不動)、1841(天保12)年の天保の改革で禁止されるまで続いた。1772(明和9)年の火事で諸堂全て燃えた。1833(天保4)年に寺の名を護国山天王寺に改める。上野戦争で庫裡と五重塔以外は焼失。1874(明治7)に境内の大部分を東京市に寄付し、共同墓地として使用され谷中墓地とる。いまでも谷中墓地内にかつての天王寺の大仏の跡地(1875(明治8)年に現境内へ移転)や五重塔跡地が点在している。
菜の花の野末に低し天王寺<子規 明治26.3.19 獺祭書屋日記>

#114谷中墓地
明治維新後神道が力をもつ中で、1873(明治6)年に火葬禁止令が出され、墓地の確保が急務となった。そこで1874(明治7)年9月に明治政府は天王寺より15,900坪を新葬地として上地させ、付近の寺地、門前町家を接収して谷中墓地を開くが、火葬禁止令は衛生上の問題や今後の土地確保の問題で1875(明治8)年5月に廃止された。

#115五重塔 
1644(寛永21)年に時の住職日長によって建てられる。1772(明和9)年の目黒行人坂火事にかかり焼け落ちる。1791(寛政3)年、3年がかりで再建。総齣「りで高さ35m。この再建にあったての話を、1891(明治24)年から2年間すぐそばに暮らした幸田露伴が、1892(明治25)年にのっそり十兵衛を主人公にした「五重塔」を発表。1907(明治40)年補修資金もないため天王寺は五重塔を東京市に寄付を申し出、翌年認可。修繕費は3936円8銭という見積もりであった。以降、東京市の所有に。しかし1957(昭和32).7.6早朝、放火心中により焼失した。洋裁の監督(男性48歳)と縫い子さん(女性21歳)の三角関係のもつれが原因という。焼失直後の五重塔を題材にした日本画家、横山操の絵がある。現在は児童公園の片隅に礎石のみ残っている。
冬木立五重の塔の聳えけり<子規 明治27>

#116安立院(あんりゅういん)
もともとは天台宗天王寺の塔頭の一つ。天台宗比叡山安楽院末で律に属していたが、昭和29年に改宗し現在は曹洞宗。

#117徳川家裏方墓地 
徳川家の正室、側室、子女が葬られている(現在墓所内整備中)。同所に田安、清水、一橋の徳川御三卿の墓もある。

#118ごいんでんの坂(御隠殿の坂)
ここにあった踏切が4号踏切。
月の根岸闇の谷中や別れ道<子規 明治27 御院田にて鳴雪、不折両氏に別る>
阪は木の実 乞食此頃 見えずなりぬ<子規 明治27 御院殿>

#119元光院 
寛永寺36坊の一つ。寛永中期に神尾備前守元勝が建立。維新前は中堂西に位置する。
明治30年前後、無住の寺になっていたのを陸氏が借り、日本新聞の倶楽部として観月会などを催した。留守番に寒川鼠骨(1875-1954子規の門人の一人。子規庵保存、再建を主導)を置いた。国立博物館東側に現存。明治40年1月調査の下谷区全図によると、この元光院の一角に本図で記載されている院以外に、林光院、青龍院、観成院もあった様子。
月曇る観月会の終り哉<子規 明治31>
三十六坊 一坊残る秋の風<子規 明治31>
月の出を斯う見よと坊は建てたらん<子規 明治31>
夕飯は芋でくいけり寺男<子規 明治31>

#120普門院
寛永寺36坊の一つ。寛永初期に松平阿波守建立。維新前山下門に位置する。現存せず。

#121寶勝院(宝勝院)
寛永寺36坊の一つ。寛永末期に天海の従弟 権大僧都豪仙の建立。維新前は山下門に位置する。現存せず。

#122見明院
寛永寺36坊の一つ。権僧正盛憲の建立。維新前は中堂東に位置する。国立博物館東側に現存。

#123顕性院
寛永寺36坊の一つ。慶安年間に尾張大納言義直の建立。維新前は山下門に位置する。現存せず。

#124勧善院
寛永寺36坊の一つ。寛文年間に僧正舜承の建立。以前は常徳院といった。宝樹院(4代家綱生母お楽の方。伊勢長島藩にゆかり。徳川家裏方墓地に墓あり)霊廟の別当寺。維新前には谷中口(-1709まで現在の寛永寺中堂の場所)にあったが、大正以降に寛永寺に合併し、現存せず。伊勢長島藩主増山河内守正賢(まさたか1754-1819 号は雪斎)の遺志により文政4(1821)年に勧善院に建てられた「虫塚」(表は葛西因是の撰文、大窪詩仏 (1767-1837)の書、裏は詩仏と菊池五山の詩文)は昭和の初期に移築され、現在寛永寺根本中堂向かって右手にある。

#125墓地入口
この道は、現在も言問通りの上野桜木2丁目の信号から谷中墓地に入る道として現存している。またこの入口の右手(上野桜木2−4 台東倉庫)に京成の寛永寺坂駅があった(1933(昭和8)年12月10日開業。運輸省の疎開(日暮里〜寛永寺間の京成線路に客車を置き事務所とした)などで昭和18年10月〜21年10月まで営業中止。昭和21年11月1日に再開したが、22年8月21日休止。昭和28年3月1日廃止)。

#126現龍院
寛永寺36坊の一つ。稲葉佐渡守越智正成は現龍院道範と称し、この稲葉家が開基のためこの院の名前がある。維新前は山下門に位置する。現龍院墓地(江戸時代から信濃坂上にある)には、家光死去(1651.4.20)の際に殉死した堀田正盛(下総佐倉藩主 品川東海寺にも墓がある 義理の祖母が家光の乳母春日局)とその家臣(奥山茂左衛門安重(小十人頭)遺族が後に改葬し現在はない)、阿部重次(武蔵岩槻藩主)とその家臣4名(鈴木佐五右衛門、小高隼之助、山岡主馬、新井頼母)と槍持1名(村片某 病床にあったため快復した2年後に後追い)、内田正信(下野鹿沼藩主)とその家臣2名(荻山主税助橘氏由比、戸祭源兵衛尉藤原定経)、三枝松土佐守守恵(元書院番頭の旗本 その妻も殉死したが墓は日光山妙道院にあり)とその家臣1名(秋葉又右衛門)、の墓あり。その後、家綱時代の1663年に幕府は殉死禁止令を出した。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

#127五本松 @9,@16

#128津梁院
寛永寺36坊の一つ。寛永初期の津軽土佐守伸義(陸奥弘前藩主3代目)の建立で、先代の信枚の法名「津梁院」にちなむ。巌有院(4代家綱)、浚明院(10代家治)、温恭院(13代家定)、孝恭院(10代家治嫡子家基)霊廟の別当。維新前も谷中口にあり、現在も敷地を縮小しつつも、同所にある。現在墓所は、境内とはかなり離れている。

#129笠松 @9

#130涼泉院
寛永寺36坊の一つ。寛永5年に天海僧正の建立。維新前は中堂の西にあった。現存せず。

#131常照院
寛永寺36坊の一つ。寛永11年に加賀中納言利常が建立。維新前は山下門にあった。現存せず。

#132本覺院(本覚院)
寛永寺36坊の一つだが、中でも最も格式が高い。寛永14年に天海僧正が建立。もともと寛永寺の本坊であり、天海の本院であった。山王社の別当。維新前は中堂東にあった(現在の天海僧正毛髪塔がある場所)。狩野探幽筆「天海寿像」(天海死去の前日に描きあげたという)を有する。大正3年に現在地の国立博物館東側に移転し存続。越前丸岡藩有馬直純の供養碑がある(日向延岡藩主。父晴信はキリスト教徒だったが、直純は棄教のうえかつての島原藩主として天草の乱で島原城攻撃に参加するなどキリシタン迫害の先頭にたった)。山王社、忍ヶ丘稲荷が境内にある。戦争・戦死戦災殉難死者塔もある。

#133等覺院(等覚院)
寛永寺36坊の一つ。寛永初期に俊海法印が建立。維新前は清水門にあった。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

#134浄名院(桜木町41)
寛永寺36坊の一つの律院の浄明院。浄円院ともいった。開基は1666(寛文6)年で浄丹院圭海僧正。初め日蓮宗であったが天台宗に。妙運和尚が1000体地蔵尊建立を1850年ごろ発願し、1880(明治12)年に結願すると次に8万4千体の地蔵尊建立を発願したことで有名(北白川宮能久親王の納めた親王地蔵もある)。へちま供養を旧暦の8月15日に行い、せき、喘息に悩む人の信仰をあつめる。維新前より場所は変わらない。江戸六地蔵のなかで第6番江東区永代寺が欠けているので、明治以降唐金の地蔵を一体つくり、六地蔵の6番の代地蔵となっている。(ちなみに6地蔵の1〜5番は、1番品川区品川寺、2番新宿区太宗寺、3番豊島区真性寺、4番台東区東禅寺、5番江東区霊巌寺)

#135明浄院(正しくは明静院)
寛永寺36坊の一つ、明静院の誤植である。寛永中期に越前宰相忠昌の建立。維新前には山下門にあった。現存せず。

#136福聚院
寛永寺36坊の一つ。正保年間に権大僧都の建立。浄円院(8代吉宗生母)、深徳院(9代家重生母)、至心院(10代家治生母)、慈徳院(11代家斉生母)、香琳院(12代家慶生母)、蓮光院(家基生母)霊廟の別当。維新前には中堂東にあった。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

#137大慈院
寛永寺36坊の一つ。宝永年間に慶海法印の建立。常憲院(5代綱吉)、有徳院(8代吉宗)霊廟の別当。徳川慶喜が1868(慶応4).2.12-4.11の2ヶ月間、蟄居した葵の間(12畳半と10畳)がある(現在の葵の間は一度取り壊しの上、大正3年に少し離れたところに移築保存したものでその際、間の大きさを10畳と8畳に狭くした)。4.11に慶喜は1600人の供を従えて水戸へ向かった。現在の寛永寺は、かつて大慈院であった敷地にたっている。寺内に松平確堂(家斉の第16子。津山藩主。家達の後見)の墓もあるという。
花もまたあわれと思へ大方の 春を春とも知らぬわが身を<慶喜 謹慎時に詠める>

*台東区立上野中学校


#138寛永寺中堂
江戸時代において寛永寺中堂は東叡山寛永寺圓頓院36ヶ院の総本堂であった。1698(元禄11)年に創建され、以前は竹の台(うてな)にあった(現在の上野公園大噴水付近)。紀伊国屋文左衛門はこの中堂の造営で巨利を得たという。建立の際には、比叡山根本中堂より常燈明と竹の台の竹を招来した。本尊は薬師如来(伝教大師作 元禄9年5月に松平定直が江州矢造村石津寺より移す)なので、別名・瑠璃殿といった。両脇侍の月光、日光像は松平清武が出羽立石寺から招来した。中堂は上野戦争で焼失。1875(明治8)年、公許を得て、東叡山の一坊の大慈院の寺域に復興。1879(明治12)年に川越喜多院(川越東照宮)本地堂(1638寛永15年建立)を移転させて中堂とした。この正面にかかっている「瑠璃殿」の勅額は、元の中堂に掲げられていた霊元天皇の筆(もしくは公弁法親王による霊元天皇筆の模写)。本堂前の大水盤は、元禄11年に根本中堂に奉納されたものを移転。また寛永寺通用門にはかつての勧学寮(了翁僧都が1682年に創立した寛永寺の学寮)の表門が移転の上使用されているという。現在、中堂に向かって右側に高さ4mほどの「上野戦争碑記」という阿部弘蔵(一橋家家臣)が明治45年にたてた石碑がある。毎年5月15日を彰義隊忌として中堂にて法要を行っている。
破風赤く 風緑なり 寛永寺<子規 明治27 上野紀行>

*竹台高校
東京市立第四高等女学校として、昭和15年に上野公園内竹台に開校し、その後日暮里へ移転。現在は東日暮里5丁目14にある。

#139明王院
寛永寺36坊の一つ(別名 眞覚院?)。承応年間に天海僧上の建立。維新前には中堂西にあった(現在の芸大の黒田美術館付近)。現存せず。
大河内(松平)輝貞(1665-1747 綱吉に側用人として仕え、後に高崎藩主に。遺言に従い、綱吉の墓に向かいあう形で墓を築く)の墓があったが、後に平林寺(埼玉県新座市野火止)に改葬された

#140東漸院
寛永寺36坊の一つ。慶安年間に水谷伊勢守の建立。大猷院(3代家光)、文恭院(11代家斉)霊廟の別当。維新前までは本坊裏にあった(現在の忍岡中学)。現在は国立博物館東側に移転の上存続。

<番地外で以下上野山を優先する>
* 寛永寺墓地
第2次大戦で霊廟2万坪の大部分が焼失し、徳川家は先祖の永代供養を条件に寛永寺に移管。1948(昭和23)年1月に第1霊園が開園、その後第2、第3霊園も一般に開放。民間人では第2霊園のオペラソプラノ歌手(特に「蝶々夫人」の主演)の三浦環(1884-1946)、石川賢吉(1883-1964経済誌ダイヤモンド社社主)、長田幹彦(1887-1964 情話文学者。「祇園小唄」の作詞者)、第3霊園では今東光(1898-1977 作家、中尊寺貫主)が有名。

#141天璋院
13代家定の3人目の正室・敬子(1836-1883すみこ 薩摩藩島津斉彬の一門 島津忠剛の娘で、斉彬の養女とし左大臣近衛忠煕の養女として篤姫の名で嫁入りした)の墓。温恭院墓と隣り合っている。

#142第二霊屋
下の法名の前についている漢数字は、霊屋にむかって右側からの並んでいる順番を意味する。1709年以前にはこの場所に護国院、林光院、東円院、松林院があったが移転。空襲で焼ける前までは、奥院前に本殿があった。また現在はこの場所に徳川家第16代徳川家達(-1940)公爵夫妻の笠塔婆もある。

・(三)温恭院
13代将軍家定(1824-1858) 宝塔のみ存す。

・(一)有徳院 
8代将軍吉宗(1684-1751)  宝塔(石造)のみ存す。6月20日に死去したので20日様という呼ばれかたもする。

・(二)常憲院 
5代将軍綱吉(1646-1709)。かつては二天門もあった。現在残っているのは、総唐銅造りの奥院唐門、勅額門、奥院宝塔(上州高崎城主 大河内輝貞の作。本来全て唐銅だったが大戦後前扉が盗難にあい、そこだけ石造)と水盤舎(共に国重要文化財)。現在は綱吉正室 浄光院の墓も谷中より移転し同所にある。1月10日が綱吉(10日様)の祥月命日であり、この日は毎年、将軍及び全諸侯は総参詣といい全将軍の墓に参詣した(その際の諸侯の装束変えの場所としての役割も東叡寺各坊は果たしていた)。

#143孝恭院
10代家治嫡子家基(いえもと 1761-1779 品川での鷹狩の際に東海寺で昼食を食べた後に急死。田沼意次の差配で毒が盛られていたとの伝説あり)の墓

#144第一霊屋
下の法名の前についている漢数字は、霊屋にむかって右側からの並んでいる順番を意味する。霊廟になる前(1680年以前)には津梁院、元光院、円珠院があったが移転。昭和20年3月10日の空襲で焼失するまでは、お墓(奥院)の手前に権現造りの本殿、相の間、拝殿が連結した建物があった。現在はその礎石のみ残る。

(一) 文恭院 
11代将軍家斉(1773-1841 大の日蓮宗信者で、妾のおみよの実父が雑司が谷に日蓮宗感應寺を建立した) 宝塔のみ。以前は宝塔の前に唐門、拝殿、中門が整備されていた様子。

(二)浚明院
10代将軍家治(1737-1786) 宝塔のみ。もともとは唐門、拝殿、中門が揃っていたはずだが明治初年に取り除かれた模様。

(三)巌有院 
 4代将軍家綱(1641-1680)。かつては二天門もあった。1698年の大火で焼失し、綱吉が1699年に再建。現在残っているのは、勅額門、奥院唐門と水盤舎が残る(共に国重要文化財)。参道にあった二天門から明治初年に勅額門へ移動してきた増長天、持国天は慶安年間(1648-52)の作で、昭和32年に浅草寺二天門に移動し現在も安置されている。また、現在の寛永寺の銅鐘は、巌有院廟に1704(宝永2)年に奉納されたものが移されて使用されている。1927(昭和2)年12月31日にラジオで初めて除夜の鐘が放送されたのが、この鐘の音であった。

#145大猷院霊屋アト @25
大猷院廟になる前、ここには護国院、林光院があったが移転。家光の法要は寛永寺で行われたが、埋葬は日光山に行ったので、寛永寺には霊殿のみ建立された。大猷院廟は、1720(享保5)年の焼失後、巌有院廟に合祀された。この霊屋に献上した銅鐘は現在両大師(輪王寺)の鐘となり、水盤舎が現在両大師の鐘楼として使用されている。現在の両大師と国立博物館の間の道は旧参道で、石燈籠が立ち並んでいたが、ほとんど散逸(紀伊、尾張、水戸の御三家のものだけは両大師本堂前に参道の両側にならんでおり、数基はアメリカのポトマック河畔にまでいっているとか)。江戸時代には寛永寺全山で2000余りの石燈籠があったという。

#146しんざか(新坂)@25
江戸時代にも「お女中道」と称する細い道が通っていた。明治12年に大猷院廟跡を貫いて坂道を開設。別名・鶯坂ともいう。ここにあった踏切が3号踏切。また坂上には大正2年当時、東園派出所があった。
新阪を下りて根岸の柳かな<子規 明治30.8.27 病牀日記>
(新坂上)見下ろせば灯の無き町の夜寒かな<子規 明治32.10.12 夜寒十句>

#147トウゼン山(東漸山)
東漸院がかつてあった場所。昭和20年3月の東京大空襲の際、この場所に下谷や浅草での遺体を仮埋葬し、その後移葬した。以前は照崎と呼ばれる上野山の岬の一つであったという。現在は忍岡中学になっている。

*台東区立忍岡中学校
出身者:女優坂井真紀、落語家林家いっ平


#148鶯亭
料亭、宴会場。下谷繁昌記では経営者は七條尚義。現在上野公園内に新鶯亭があるが関係不明。

#149五葉松 @25

#150音楽学校
1880(明治13)年に本郷の文部省用地にできた音楽取調掛が、1890(明治23)年2月に上野の文部省用地(西四軒寺跡)に移転し、同年5月12日に開校。開校時には日本初の音楽ホールとなった奏楽堂も完成した(昭和4年10月に日比谷公会堂ができるまでは、洋楽のメッカだった。現在は上野公園内の旧東京都美術館跡地へ昭和62年に移築保存された。昭和63年 国重要文化財指定)1893(明治26)年に名を東京音楽学校から高等師範学校付属音楽学校に改める。1899(明治32)年4月、東京音楽学校に再改称。修業年限は本科(声楽部、器楽部)が3年ないし5年。甲種師範科(中等学校音楽科教員)3年、乙種師範科(小学校音楽科教員)1年となっていた。麻布の紀伊徳川家に設立された南葵楽堂にイギリスのアボットスミス製パイプオルガン(日本最古のコンサート用オルガン)が納められ、大正9年11月にオルガン披露演奏会が行われたが、その後大正12年の関東大震災で楽堂が破損したため、昭和3年に徳川頼貞侯爵はこのオルガンを奏楽堂に寄贈した。昭和24年5月、美術学校と合併し東京芸術大学となる。

#151新帝国図書館
旧大学(開成学校)講堂を仮館として1872(明治5)年4月に設立。1885(明治18)年6月上野公園東京教育博物館構内に移り、その後この地に書庫、閲覧室を新築。その後、東京書籍館、帝国図書館、上野図書館と名称を変更。1895(明治28)年当時、男女を問わず満15歳以上の者が使用できたが、1回閲覧するのに特別求覧券(特別閲覧室利用用)5銭、尋常求覧券3銭を必要とし、館外貸出には特許票(年5円)を購入しなければならなかった。1年間で69,913人が利用したというが、女性の利用者は非常に少なかった。現在の建物は、1906(明治39)年に竣工したフランスのアンピール様式のもので、1929(昭和4)年に一部増築し、1949(昭和24)年に国会図書館支部上野図書館となったが1998(平成10)年に閉館。安藤忠雄により改築され、国際子ども図書館として2000(平成12)年から運用を開始した。前にある小泉八雲記念碑は昭和9年頃に土井晩翠が、早世した息子英一の遺志であった記念碑建設を、上野図書館長松本喜一氏と彫刻家小倉右一郎氏の支援により成就したもの。

#152二天門アト
第2霊屋への入り口にあった門(「東都下谷絵図(嘉永図)」に記載あり)
風に散るや ただ古松葉 青松葉<子規 明治27 上野紀行>
こぼるるや日傘の上の 椎の花<子規 明治27 上野紀行>

#153二天門アト
第1霊屋への入り口にあった門(「東都下谷絵図(嘉永図)」に記載あり)。明治初年に取り壊し、二天は勅額門の両翼に庇をつけて納めた。昭和32年に勅額門は旧態に戻し、二天は浅草寺二天門に移した。

#154帝国博物館構内 
1625(寛永2)年に創建された寛永寺旧本坊の跡。現在、奥に博物館庭園があるが、本坊のころの名残をとどめるものは、東洋館北側の築山、中央の池のごく一部、そして越前藩有馬家の墓石だけである。さて、彰義隊は一橋徳川家家臣が中心となり1868.2.23に発足し、謹慎中の慶喜の警護・歴代将軍霊廟と徳川家の文書宝物保護のため、上野の山に立てこもり始めた。江戸城開城の決定を受けて1868.4.11に慶喜が水戸に向かうと一部脱退者もでたものの大部分は残留し、やがて閏4月を経て5.15の上野戦争になった。戦後のどさくさの中で放火、略奪に見舞われ寛永寺の伽藍の大部分は焼失した。ただ、旧本坊の表門は残り、帝国博物館の正門として使われたが、関東大震災後の本館改装にともない、昭和12年に輪王寺に移動(国指定重要文化財)。また現在パゴダとなっている大仏殿も焼失をまねがれたが、後にとりこわしとなり露座になった。
内務省用地で開催された明治14年第2回内国勧業博覧会で美術館として使用されたジョサイア・コンドル設計の建物を本館として用い、明治15年日比谷の山下町博物館(現在の内幸町1丁目。旧薩摩藩邸、後の鹿鳴館の場所)にあった博物館施設が移転する形で「内務省博物館」が開館。明治19年に宮内庁管轄となり、明治22年に帝国博物館、明治33年に東京帝室博物館に名称変更。明治42年には時の皇太子(大正天皇)ご成婚のお祝いで表慶館が開館。関東大震災で本館が大破し、昭和13年2代目の本館が開館した。昭和22年に東京国立博物館に名称変更。平成11年には皇太子殿下のご成婚を記念して平成館も開館。(収蔵品9万点、重要文化財577点、国宝89点)
草桜や 柝(キ)うつて締むる博物館<虚子 明治37>
蟲干の 数に入りけり土器石器<子規 明治27 上野紀行>

#155徳川家墓地
明治・大正期には徳川御三卿(一橋、清水、田安家)の墓であった(現在は徳川家奥方墓地付近へ移動)。現在はこの場所にかつての寛永寺36坊中(他所にあるのも含め現存するのはうち19)15寺が移転してきている。この東側には第二次大戦後、戦災死者合葬墓地なるものがあり、また北西隅には大正2年には東園派出所(下谷上野警察署管轄)があった。

#156図書館
芸大構内に現存する、明治9年に文部省が作った教育博物館(明治4年12月に湯島聖堂で開催した日本初の博覧会を機にできた東京博物館が移転の上改名し、明治14年には東京教育博物館となるが、財政上の問題で明治19年3月閉館。後に昭和6年に開館する国立科学博物館につながる系譜)の書庫か(明治13年築 2階建てレンガ造り)、もしくは同じく現存する明治19年築の旧東京図書館の書庫(3階建てレンガ造り)であろうか。このころ(明治33年頃には)美術学校の図書館として使用していたのかもしれない。

#157美術学校
明治18年11月に置かれた図書取調掛を前身とし、明治20年に小石川植物園で設立。明治21年12月に東京へ移転し、翌22年2月1日より授業を開始。当初は教育博物館を校舎として使用した。生徒は入校1ヶ月以内に古代風ですこぶる目立つ制服制帽を調製し着用すべしと定められていた。修業年限は本科(8つのコースに分かれていた)が5年、図画師範科3年だった。現在この場所には黒田清輝の遺志を継ぎ美術の振興のため昭和3年に建てられた黒田記念館がある。

#158カウバン(交番)
帝室博物館派出所。この交番には明治40年ごろには自動電話所も設置されていた。
ちなみに大正2年当時、自働電話の下谷区での設置場所(本地図にからむ所)は、
上野桜木町22番地先
上野停車場入口及び出口
上野停車場内3ヶ所
上野帝国博物館内3階
上根岸町131番地先
下谷坂本町3丁目
下谷金杉上町
善養寺町の10ヶ所であった。
この場所は後に京成の博物館動物園駅(昭和6年竣工、8(1933)年12月10日開設、1997年(平成9)休止。2004年廃止)となった。現在もシャッターが降りた駅の入り口を見ることができる。日暮里から先の京成の延長は帝室博物館の宮内庁管轄の御料地だったため調整に手間取った。工事は昭和7年9月より全工区を3つに分けて着工したが、正式に枢密院会議にて有償の地上権30年設定につき了解がでたのは昭和8年3月8日のことであった(「枢密院会議議事録」第71巻329-339ページ、東大出版会)。昭和8年12月10日日暮里駅〜上野公園駅間が完成し開業。昭和28年に上野公園駅は京成上野駅に名称変更した。

#159動物園マへ(動物園前)
日比谷の山下町博物館(現在の内幸町1丁目 旧薩摩藩邸)で博物館と併設されたいた畜産所が移転し、明治15年3月20日に開園。敷地面積7000坪、動物は7種でスタートした。明治19年、宮内庁管轄になり、帝室博物館の付属と位置付けられる。園内には寛永寺時代の名残で、子院寒松院(彰義隊の本営となった)にあった伊賀上野藩藤堂家の墓や家光を接待した茶亭閑々亭(寛永4年建立、上野戦争で焼け明治11年に復元)が残っている。大正13年の時の皇太子(昭和天皇)ご成婚記念で宮内庁から東京市に下賜されたため、正式には恩賜上野動物園という。戦後規模を拡大し、五重塔付近や不忍池岸にまで広がり、昭和32年には園内モノレールが敷設された(モノレールとしては世界で2番目、日本初だった)。
夏瘦と しもなき象の姿かな<子規 明治27 上野紀行>

#160屏風坂通
上野12門のうちの一つ、屏風門に続く坂道。下谷に抜けることができた。地図で見られるとおり、美大方面は美大の正門口に直結しており、行き止まりだったようである。維新前には錦小路と呼ばれ紅葉が多く植えられていた。なお、この坂より一本、上野駅寄りの坂が車坂であるが、車寅次郎の苗字はこの車坂生まれであることに因んでいるという。

#161しなのざか(信濃坂)
維新前はこの登り口に上野12門の一つ、新門(坂本門あるいは坂下門ともいう)があった。江戸期においては、開門は明けの6つ、閉門は暮れの6つという決まりがあった。おそらく上野の山の時の鐘に従って開閉していたのだろう。

#162したでら通(下寺通)
ここにある踏切が2号踏切。この通りに沿って、維新前には寛永寺36坊のうち11寺が南北に連なっていた(山下門にあった寺)。ただいずれの寺ももともとは山上にあったので、各寺の墓地は全てその後も山上であった。

* (欄外メモ)上野公園に絡む明治期以降の重要な年月日
1876(M9).4.14 上野精養軒(本家は築地)のオープン   
(掛茶屋や明暁庵という僧庵をとりこわした跡地にたてる。同時に浅草山谷の八百善も出店したが、こちらは大正2年までに櫻雲台、梅川楼、常磐華壇と営業が変わった)
1876(M9).5.9 上野公園の開園 
1877(M10).8.11~11.30 第1回内国勧業博覧会(会期は102日間)
(入場者454,668人、当時の東京市15区の人口は73万人。王子〜根岸間の道も大にぎわい)
1879(M12).8 米前大統領グラント将軍夫妻歓迎式典
1881(M14).3.1~6.30 第2回内国勧業博覧会(会期は122日間)噴水が評判に。
1884(M17).3~1887(M20)0R1894(M27) 不忍池競馬場開設
(今の水上動物園付近に馬見所があり、東西300m、南北450m、周囲1,400m その後、明治31年11月には自転車競技会の会場となった)
1889(M22).8.26(旧暦の8.1) 家康入国300年祝典(家康の江戸城入城は1590(天正18)8.1)
1890(M23).4.1~7.31 第3回内国勧業博覧会(日本初の電気鉄道登場。水族館が開設)
1893(M26).6.29 福島中佐単騎シベリア遠征歓迎会
1895(M28).12.9 日清戦争戦勝祝賀会(池の植物を引っこ抜いて、戦艦「定遠」の沈没を再現)
1898(M31).4.10 奠都30年奉祝会
1898(M31).12.18 西郷隆盛像(高村光雲作)の除幕式
1905(M38).10.24 日露戦争祝捷東郷大将凱旋大歓迎会
1907(M40).3.20~7.31 東京勧業博覧会      
1907(M40).10.25 文部省第一回美術展覧会開会
1913(T2).6.25~ 明治記念博覧会
1914(T3).3.20~ 東京大正博覧会(日本初のエスカレーター登場)
1915(T4).7     江戸記念博覧会
1917(T6).3.15~5.31 奠都50年奉祝博覧会
1920(T9).5.2(日)   第一回メーデー
1922(T11).3.10~ 平和記念東京博覧会
1926(T15).3.19~5.17 第2回化学工業博覧会
1926(T15).5 東京都美術館完成(現在のものは昭和50年竣工)
1928(S3).11.13~ 大礼記念国産振興東京博覧会(日本初の和服を着た女性マネキンガール登場)
1930(S5).3~ 海と空の博覧会
1931(S6) 国立科学博物館開館
1948(S23)~1958(S33) 日没以降の立ち入り禁止期間(警視総監が男娼に殴られたのがきっかけ)
1953(S28).4 水上音楽堂の完成
1959(S34).6    国立西洋美術館開館
(フランス政府から松方コレクションを取り戻す受け皿作りとしてル・コルビジェの設計で建設)
1960(S35).7 不忍池干上がる
1961(S36).4.7   東京文化会館開館(江戸開府500年記念として)
1962(S37).5.10 竹の台の大噴水通水式
1964(S39).10 水族館の開館(東洋一といううたい文句で)
1964(S39).11.29 清水堂下に黒門復元し開扉式

<番地外以下線路向うの桜木町方面>
#163さくら川(桜川) @27

#164とくがはながや(徳川長屋)@26
明治期には徳川家の地所だったため、このように呼ばれた。

#165カウバン(交番)
交番の交代時の夜寒かな<子規 明治32.10.12 夜寒十句>

#166しんざかした(新坂下)
大戦直後には道の両側に露店がならび、闇市と化したため別名ヤミ坂とも呼ばれた。

#167櫻木町(桜木町)(坂下東北部は1−6番地まで 現・根岸1丁目)
江戸期は寛永寺の領域で、特に地名はなかった。明治10年に桜木町と称したいと寺側より希望がでて命名された(M10.5.10 読売新聞)。大きく2ヶ所に分かれ、坂下東北部エリアと上野公園西北部(現在の上野桜木2丁目周辺)を指した。桜木町全体で番地は1〜55番地。大正2年で戸数471、人口男983人、女744人。

#168鶯谷 @26
上野新坂下の桜木町の俗称。
片側は鴬谷の薄哉<子規 明治30.8.27 病床手記>

#169シオバラ温泉(志保原温泉 桜木町4)
旅館。群馬塩原の温泉水をとりよせて浴場とした。料理や庭園で名高く、「伊香保・志保原」と並び賞された。

#170イカホ温泉(伊香保温泉 桜木町2)
江戸前会席料理店(明治40年代の代表は3代目の清水榮太郎、大正9年からは朝岡善四郎)。元々は「玉の湯」という銭湯であった。明治15年頃、群馬県伊香保温泉から鉱泉を取り寄せて伊香保温泉の支店として温浴を開始。1912(大正元).10.17には青鞜が一周年記念会を行う。美術工芸の親睦団体「国華倶楽部」(会長 東京美術学校長 正木直彦 大正2年で会員380余名)の事務所にもなっていた。建物は建坪1階292坪、2階97坪で寺崎広業・山田敬中が松の樹を描いた大広間舞台の杉戸や数奇を極めた庭園で有名。建物の一部は宗教団体(ひとの道教団)の布教所として戦後まで存続。
ささ啼やうすぬくもりの湯の煙<子規 明治25.12.14獺祭書屋日記>

#171鶯渓医院(桜木町1)
高松病院ともいう。現在の「華調理製菓専門学校(創立昭和21年)」付近。幕府の奥医者で五稜郭に立てこもり官軍と戦った経歴をもつ、高松凌雲(1837(天保7)-1916(大正5))の建てた病院。大槻文彦の主治医であった。明治12年3月には高松凌雲ほか3名で社団法人同愛社をこの地に創設し、貧窮者への無料施療を行うため東京市と市中の診療所を仲介する役割を担った。(吉村昭/著「夜明けの雷鳴」参考)

#172鉄道
日本鉄道は日本で最初の私鉄会社として明治14年11月に資本金2000万円で設立し(社長は薩摩出身の吉井幸輔。出資者としては岡山藩主池田章政55万円、岩崎弥太郎30万円、岩倉具視4万円、高島嘉右衛門2万円といった具合)、1883(明治16)年に鉄道運行を開始した。明治33年には「鉄道唱歌」が刊行され(第2集が奥羽線)明治の唱歌として最も愛唱された。1906(明治39)年3月公布の鉄道国有法により、国有化し日本鉄道株式会社から鉄道国有線となった。明治40年頃の上野発着の路線は、奥羽線(上野〜青森)、海岸線(上野〜水戸〜岩沼〜仙台)、中仙道線(上野〜高崎〜前橋)、信越線(上野〜高崎〜長野〜直江津)、山手線(上野〜赤羽〜池袋〜品川〜新橋、上野〜田端〜池袋〜品川〜新橋)の5路線である。日本鉄道の創設者の一人、白杉政愛(1842-1921)は金杉153番地に居住し、1925(大正15)年ころ池袋に転居。

#173善養寺町
江戸時代に上野の宮ご用達、青物・花物(御八百屋)扱いの駿河屋田辺甚右衛門が寺表門、南角に店を構えていた。享保3年、町奉行扱いとなり善養寺門前と称したが、明治2年10月に善養寺町に。番地は1〜13番地(5,12が大正2年には欠番)。大正2年で戸数14戸、人口男31人、女22人。

#174善養寺 
天台宗。天長年間(824-834)に慈覚大師(794-864)が草創したという。本尊は慈覚大師作薬師如来(かつては小野照崎神社の本地仏だったとか)。もともとは上野山内にあったが寛文年間(1661-72)にこの地に移転。その後、鉄道敷設に伴い明治45(1912)年に巣鴨に移転。現住所は豊島区西巣鴨4−8。本堂内に江戸三大閻魔(他は杉並区松ノ木の華徳院、新宿の太宗寺)の一つと称される閻魔像(かつては正月16日と7月16日が縁日だった)があり、この像は運慶の作という(栃木の足利学校にあったものを移設したとか)。小野照崎神社の石造の祠があり、「尾先照稲荷祠 天長二乙巳年安置」との銘がある。尾形乾山(1663-1743 京都の呉服商雁金屋の三男。兄に光琳。1718年に公寛法親王に随伴して江戸へ。1823年に酒井抱一によって墓が発見される)の墓あり。この墓は、巣鴨移転時に鶯谷「伊香保」の国華倶楽部(美術雑誌「国華」は高橋健三・岡倉天心によって明治22年に発刊され、現在も朝日新聞出版から刊行されている)に置かれ、大正10年国華倶楽部の移転によって、寛永寺に移動。その後、巣鴨の善養寺に引き取られた経緯がある。そのため現在も墓の複製と抱一の建てた「乾山深省蹟」が寛永寺中堂向かって右側にある。うきこともうれしき折も過ぎぬれば ただ阿けくれの夢ばかりなる(乾山墓碑より 乾山辞世の句)

#175カウバン(交番)
坂本町派出所(下谷坂本警察署管轄)

#176上野ステーションへ 
上野停車場は1883(明治16)年に開設。同年7月26日に小松宮彰仁親王、北白川宮能久親王、伏見宮貞愛(さだなる)親王の3兄弟が上野〜熊谷試運転に乗車し、28日に本開業。機関車「善光号」は2時間24分で上野〜熊谷間を結び1日2往復した。ステーション広場前にあった団子屋は汽車の発車待合で繁昌した(現在の岡埜栄泉総本店のこと)。また、小荷物は上野駅で対応したものの、大荷物は秋葉原に集結し取り扱いを行った。
その後の上野駅の歴史は
1884(M17).6.25  明治天皇を迎えての上野〜前橋間(片道4時間)の開業式
1885(M18).7.16 上野〜宇都宮間(4時間58分)開通、あわせて洋風煉瓦造りの瓦葺2階建て駅舎が完成。新橋ステーションと規模を競う。
1887(M20)   上野〜仙台間(12時間20分)開通
1891(M24).9.1 上野〜青森間(26時間25分)開通
1892(M25).10  上野〜大宮間複線化
1896(M29)   海岸線 上野〜田端〜水戸間開通
1897(M30)   海岸線 平まで延長(後に仙台へ)
1900(M33) 上野駅構内に日本で初めての「自働電話」設置
1905(M38)   信越線 上野〜新潟間開通
1907(M40)   奥羽線 上野〜秋田・山形間開通
1909(M42) 山の手線 新橋(烏森)〜新宿〜池袋〜田端〜上野間開通(環状化は1925(T14))
1923(T12).9.2  関東大震災で2日午後5時30分頃焼失
1927(S2).12.29 上野〜浅草間が日本初の地下鉄として開通(東京地下鉄道梶j
1932(S7).3.31  地上2階、地下1階の鉄筋コンクリートの新駅舎竣工(当時東洋一といわれた現在のもの)。構造に構内タクシーへの対応を行った。また鉄道弘済会の日本初の店が東京駅とともに各5店舗オープン(当時まだ自動連結器が装備されていなかったため、年150人が殉職し1000人が公傷となるという危険な職場であった。国からの労災補償もほとんどなかったため、遺族の生活支援のため、鉄道弘済会売店の売上を救済資金にしようとした。愛称のキヨスクは昭和48年8月1日より使われだす)。
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聞きにゆく<啄木>

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Excerpt: 双葉山定次双葉山 定次(ふたばやま さだじ、本名:龝吉 定次(あきよし さだじ)、 1912年2月9日 - 1968年12月16日)は、大分県宇佐郡天津村布津部(現在の宇佐市下庄)出身の力士。第35代..
Weblog: 大相撲情報局
Tracked: 2008-02-11 19:32