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2014年04月21日

(第2期)根岸倶楽部 新聞資料(読売新聞 明治31年〜35年)

明治31年(1898)9月28日(根岸からす)
世に歌われし根岸党の名残は得知翁一人となりぬるも新しき第二の新党は根岸雀が数え立てるにてもなかなかに多きが、さかしき雀も見落としはあるならい、朝夕はもとより月夜にも浮れ出でて根岸の里のくまぐま(訳注:すみずみ)アホーアホーと鳴き廻るわれ鴉が目には、此の里は党人のねぐら軒を並べ一々に誰の彼のというて尽きねど、知らば補えとある雀の言葉に鳴き立つることまずは左(訳注:ここでは下)の通り。
老画家には*鍬形恵林(けいりん 注:文政10年生まれ。狩野雅信(まさのぶ)に入門し,万延元年江戸城普請の際,雅信のもとで制作に従事した。明治42年死去)、*狩野良信(注:嘉永元年生まれ。狩野雅信にまなぶ。博覧会事務局,文部省などにつとめる。明治15,17年の内国絵画共進会に出品し受賞。作品に「孔雀ニ牡丹」「武者」など)、*高橋応真(注:日本画家。弟は円山派の画家高橋玉淵。次いで山本素堂・山本琴谷に画を学び、のち柴田是真に師事して同門の池田泰真・綾岡有真らと是真十哲(四天王とも)の一人に数えられる。内国絵画共進会・パリ万国博覧会など国内外の共進会や博覧会で活躍。明治34年(1901)歿)、*岡勝谷(しょうこく)(注:文久3年に『象及駱駝之図』を描いている)、*酒井道一(どういつ 注:弘化2年生まれ。鈴木其一に琳派の画法をまなぶ。酒井抱一の画風に傾倒し,酒井鶯一の養子となり、雨華庵4代をついだ。日本美術協会,帝国絵画協会の会員。大正2年死去)、

青年画家には*尾竹竹坡(ちくは 注:明治11年生まれ。尾竹越堂の弟,尾竹国観の兄。4歳で笹田雲石に,のち川端玉章,小堀鞆音(ともと)にまなぶ。文展では,明治42年の第3回展で「茸狩」,第4回展で「おとづれ」,第5回展で「水」が受賞。昭和11年死去)、*尾竹国観(こっかん 注:明治13年生まれ。尾竹越堂,尾竹竹坡の弟。小堀鞆音に師事。明治42年文展で「油断」が2等賞となり,以後おもに文展で活躍し,歴史画の大作を発表した。雑誌や絵本の挿絵もえがいた。昭和20年死去)、
文人画家には*黒沢墨山(ぼくさん 注:天保14〜〜没年不詳。北画を鑽硯渕に、南画を相沢會山に学び、山水画を能くした)、

模古彫刻家は*加納鉄哉(てっさい 注:弘化2年生まれ。安政5年に出家したが,明治元年還俗し,上京。日本,中国の古美術を研究し,東京美術学校で教えた。退職後,木彫,銅像,乾漆像などの制作に力をそそいだ。大正14年死去。作品に「三蔵法師」など)、
書家には*新岡旭宇(にいおかきょくう 注:天保5年生まれ。陸奥弘前の人。晋の王羲之の書風をまなび,草書と仮名で名声をえた。明治37年死去著作に「筆法初伝」「仮字帖(ちょう)」など)

漆工家には*亀井直齋(じきさい 注:代表作「雪月花螺鈿蒔絵膳」(芸大美術館所蔵)1861生まれ、没年不明)、
鋳鉄家には*立松山城(注:江戸時代、幕府の御用釜師を勤めた釜師、堀山城9代目に師事)
捻土家には*服部紅蓮(こうれん 注:人物不明)
准鑑賞家で*太田謹(きん 注:根岸及近傍図にも登場)
准考古学者で*若林勝邦(かつくに 注:1862年生まれ。人類学の草創期を支えた一人。1885年に日本人類学会に入会し、1887年8月には、坪井正五郎と一緒に埼玉県の吉見百穴遺跡の調査を行う。1889年に理科大学人類学研究室勤務。亀ヶ岡遺跡(青森県)・三貫地貝塚(福島県)・新地貝塚(福島県)・山崎貝塚(千葉県)・蜆塚遺跡(静岡県)・曽畑貝塚(熊本県)等、東北から九州まで精力的に調査。1895年に、東京帝国大学理学部人類学教室助手から帝国博物館歴史部(現・東京国立博物館)の技手に移籍。その後、1902年には博物館の列品監査掛に任命されるが、1904年死去)
抹茶宗匠連は*大久保胡蝶庵(訳注:大久保北隠。江戸千家に属し明治の大茶人といわれる。上根岸在住)、*小谷法寸庵(注:人物不明)
雲井に近き華族様に準じたるは岡野此花園、篠万年青屋、山下経師屋
さあかく数え来るとはや21人、雀が音信に28人そのうち残り惜しきは柏木貨一郎氏で今は脱籍の身となられたれば合わせていろは48人義士の数より一人多き。あっぱれ根岸の新党連追々夜寒にもなったれば、雁鴨が不忍へ帰る時節、途中に根岸を通ったら油断なく数えて投書投書。


明治32年(1899)12月13日(よみうり抄)
●根岸倶楽部
文学博士大槻文彦氏を始め根岸居住の文士芸術家等はかつて同所此花園に根岸倶楽部と云うを設けて娯楽の間に知識を交換し来たりが、追々盛大に赴くにつき、倶楽部員たる知名の芸術家は銀盃その他各専門の記念品を製作して同部に寄付する由


明治32年(1899)12月16日(よみうり抄)
●根岸倶楽部 根岸倶楽部が此花園に根拠を据えたる由は既記の如くなるが今回、
平坂(注:地図の発行人の平坂閎コウか)、篠(注:篠万年青屋)、宮木、浅井、小林、丸山、山田、加納(注:加納鉄哉か)、河合、大槻(注:大槻文彦)、太田(注:太田謹)、西田、飯田、今泉、福原の15氏発起して何にても一技能ある士50名を限り新たに入会せしむる事になれるよし。


明治33年(1900)5月23日(よみうり抄)
●根岸の将軍塚 根岸の将軍塚というは旧名主某の邸内にありし由。伝えて人類学者はしきりに探索中なるがその位置は今の中根岸付近なるべしという者あり。
●根岸倶楽部 根岸の紳士が率先して組織したる同倶楽部は範模大なるに過ぎて費用の嵩むのみならず、有力者中既に渡仏せる向きも少なからざれば、この処しばらく運動を中止する由。


明治33年(1900)12月12日(よみうり抄)
●大槻博士と根岸地図
文学博士大槻文彦氏は根岸倶楽部の嘱託を受け根岸地図を編製するにつき、釈抱一、亀田鵬齋、福田半湖(注:江戸時代の南画家 福田半香のこと。松蔭村舎と称す。渡辺崋山門人)、尾形乾山、村田了阿(注:国文学者。「花鳥日記」を著す)等、古来同所に知られし名家の旧宅墓所等をも付記するはずにて台北地誌の著者石川文荘氏も之を輔くと。


明治33年(1900)12月17日(よみうり抄)
●古墳探検 大槻文学博士はこのほど根岸 原猪作氏の邸内なる古墳を検せしに、古墳は高さ五尺余りの土塊にして一大老樹に添い、上に五輪の石塔あり。その由緒は未だ詳らかならずと。


明治34年(1901)5月8日
●根岸倶楽部 同倶楽部の開会日は毎1、6の6回なれば、一昨日は例会日なりしも、会員中に差し支ありたるため、昨日午後開会したりと。


明治34年(1901)6月13日
●根岸倶楽部 大槻博士等の組織せる根岸倶楽部にては、来る16日同所此花園に例会を開き、絵画、骨董其の他、季節に関する出品を展列して一日の歓をつくすとぞ。


明治34年(1901)8月28日
●碁仙と老美人
大槻博士、今泉雄作氏(訳注:1850−1931 明治期の美術史家。明治10年パリに留学,ギメ美術館で東洋美術を研究。帰国後,岡倉天心らと東京美術学校の創立にくわわる)なんぞ、根岸の有志者が組織している根岸倶楽部では、毎月同所の古能波奈園で例会を催し御馳走といってはほんの茶菓だけで談話をしたり、あるいは囲碁など思い思いの慰みをして懇親を結ぶことになっているが、さて囲碁はずいぶんと好きな人もあって熱心にパチパチとやらかしはするものの、今泉氏に白坂という人が少し強い位なもので、その他はいずれも笊碁の方だそうだ。
なかにも久河というお医者なんぞは無暗と石を並べて人を驚かすとかいう話だ。ところで一昨夜の例会には、この暑さの折柄、面白くもない例の笊碁をやられては、ハタ迷惑というところからこのみ庵の主人(訳注:藤沢硯一郎)とやらの周旋で、千歳米坡(訳注:ちとせべいは 安政2年(1855)10月東京下谷桜木町生まれ。芳町で米八と名乗り芸者に出ていた。明治24年(1891)伊井蓉峰の「済美館」旗揚げに参加。近代日本女優第一号となった。浅草吾妻座で粂八と共演したこともある。大正7年(1918)没)を引っ張り出し、踊りをやるということにしたので、細君やお嬢さん連中が大勢押し掛け、笊碁連の中にはお留守番を命ぜられたのもあって、同夜は計画通りいい都合に、ハタ迷惑の囲碁が始まらず、米坡の山姥、喜撰など面白い踊りが数番あって、おのおの歓を尽くしたということだ。


明治35年2月6日
●名家の初午
根岸に住みて古癖家の噂高き大槻文彦、今泉雄作の両氏は今年の初午に各自稲荷を勧請して祭典を行わんと企て祠の形より装飾万端につき例の詮索に及びたるが、まず大和春日神社宮殿の形を採るが面白からんと他に2名の同志を求めて、さっそくさる工匠に建造を注文しこのほど四社の祠いずれも見事に出来上がりたれば、おのおの一つずつを庭前に据え付け、今泉氏はかねて秘蔵せる稲荷の木像をばこれに安置し、それぞれ祭典の支度をなしたるに幼き氏が令息は自宅に稲荷様が出来たから初午には太鼓を敲いて遊べるとて大喜び、お父様太鼓と提灯とを買って下さいとしきりにねだるのを、氏は苦い顔をしてうちの稲荷様には提灯や太鼓はまっぴらご免だとはねつけ、一昨日の初午には夜の明けぬうちより祠前に庭燎(訳注:にわび かがり火のこと)を設け、万事古風なる式を用いて厳かなる祭典を行いたるが、大槻氏のほうはさしあたり神体となすべきものなきより、近日伏見の稲荷神社より分霊を請い受け、二の午か三の午の日をもって祭典を挙げることとなしたりと。
posted by むねやん at 23:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする