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2013年02月11日

水島爾保布(みずしまにおう)「愚談」(大正12年)

本文29ページより
▽江戸名所図絵(ママ:正しくは「会」)であったか或は外の本であったかは忘れたが、長谷川雪旦風の細密な風俗画に、「根岸の里」をかいたのがあった事を思い出す。(訳注:「江戸名所図会」にある絵であり、雪旦画である)清らかな小流れがあって、土橋が架かっている。低い寒竹か何かの生垣をめぐらした瀟洒な藁屋作りの家がある。開け放した座敷には有徳な(訳注:裕福な)町家の隠居ででもあるらしい主人と、本家から隠宅見舞いにでも訪れて来たらしい客とが碁を囲んでいる。縁の向うには小さな柴折戸(訳注:折った木の枝や竹をそのまま使った簡単な開き戸)があり、石の手洗鉢などが見えて、そこに茶室があることを示してある。庭の向うは一面の田圃で遥かに村社の森や人家が散点している。
▽流れを隔てて橋の側には竹の子笠(訳注:竹の皮を裂いて編んだかぶり笠)をかぶった豆腐屋が荷をおろしている。茅屋根をつけた小さな門があって、半開きになっている竹の扉からいきな年増が錦手(にしきで 訳注:赤・緑・黄・青・紫などで上絵(うわえ)をつけた陶磁器)ものらしい鉢をさし出している。門の側には古柳が新芽を烟(けむ)らせた長い枝を垂れ、垣を越して老梅が花の枝を流れにかざしている・・・・・・とこんな風にかいて、要所要所へ想像を挟むとそんじょそこらの文展(訳注:文部省美術展覧会の略称。1907(明治40)年創設の最初の官展。1919(大正8)帝国美術院展覧会(帝展)に改組)批評になっちまう。たとえば頃は旧暦2月の半ば過ぎ鴬が枝うつりして高音を囀る頃であろうとか、その豆腐屋は笹の雪で仕入れて来たのであろうとか、その梅は折られて客の家づと(訳注:いえづと 土産)になるのであろうとか、柔かき早春の日向には快き迄淡々(あわあわ)しい哀愁が漂っているとか……と早々脱線だ。
▽それはそれとして、これが今私の住んでいる根岸の過去の姿であると思うと、何だか特別な懐かしみを覚える。画にある流れは当時音無川と呼んでいたものである(年寄りの話にも以前は大層綺麗な流れであったということだ。水上は北豊島の石神井川から分岐して末は千住付近で荒川へ注いでいる)(訳注:誤り。末は浅草の山谷堀になって隅田川にそそいでいる)私の子供の頃(訳注:明治27年頃か)はもう音無川などとそんな風流な名前を呼ぶものはなく、付近の田圃の用水として所々に堰が設けてあったところから普通「せき」とばかりで通っていた。その堰の辺には野菜の洗い場があって、いつも手拭をかぶって襷をかけた農家の女たちが、畑から取ってきたつけ菜(訳注:三河島菜であろう)や大根や葱などの泥を洗っていた。そして夏の夕方など大夕立のあがり際に「せき」の水が増すと、きっと蓑笠でたち(訳注:いでたち)の人が、上下の橋の上で四つ手網(訳注:四角い網の四隅を、十文字に交差した竹で張り広げた漁具。水底に沈めておき、コイ・フナなどを捕る)をおろしていた。目の下(訳注:目から尾の先までの長さ)二尺(訳注:約60センチ)なんて大鯉のかかった事もあった。それから耳の生えた大鰻が取れたという話などもあった。切れ上がる雲の間から斜かい(訳注:ななめ。はす)に射して来る鮮やかな夕陽が、濁った大雨のあとの水に烟(けむ)り、そこの橋から橋に立並んだ蓑笠の人にきらめき、あげおろしする網にきらめき、その網に躍る魚にきらめきするさまは、子供心にも何ともいえず嬉しいものであった。
▽その「せき」がいつの頃にか「どぶ」という名に変わってしまった。今の子供はもとより現に住んでいる人達の間にも、「せき」などというそんな旧式な名称は全く忘れられてしまった。もちろん名に示す通りゴミクタだらけの汚い溝である。
▽汚い溝であるがそれが音無川時代にはいわゆる根岸の里の風雅だか文化だかを預かる主要なものであったのは紛れもない。根岸名物の一つであった妾宅なども、船板塀(訳注:船板の古材で作った塀)に見越しの松(訳注:塀ぎわにあって外から見えるようにした松の木。下枝から二番目の枝を壁の外側にわざわざ出す)なる条件に代わるに、流れに臨む山茶花(さざんか)の生垣という好みをもってしつらえられていたらしく、浮世離れてこじんまりとした恋愛の世界が松風(訳注:松林にうちつける風)と十七文字(訳注:俳句のこと)とに関係してとにもかくにも存在していたのである。旗下の隠宅、それから富有な町人の寮、いわゆる文人墨客などの庵、そんなものが、すべてこの音無川に沿って、板橋ないし土橋を控え、柴折戸は茅の門を設けて並んでいたのである。
▽今でも名だけは残っているが、鴬春亭という料理があって、そこらの風流人の詩歌俳諧その他の会に仕出しもすれば、またそのための席の設けもあった。やはり音無川に臨んで低い四つ目垣(訳注:竹垣の一。丸太の柱の間に、竹をまばらに縦横に組んで、四角にすき間をあけたもの)をめぐらし、座敷からは三河島田圃が見渡せたという話である。その三河島へは折りおり鶴がおりたそうで、ときおり公方様(訳注:将軍のこと)が鷹狩りにやってきた。で、根岸の里の人家に限って二階を作ることが禁制であったという事である。「そこから見ちゃいけない」なんて野暮をいわずに初手から、高いものをこしらえさせない方が徹底していてむしろ気が利いている。
▽その鴬春亭で年々鴬啼き合わせ会というものが行われた。遺風(訳注:後世に残っている昔の風習)はつい最近まであったようだが、何でもその時は江戸中はもちろん、遠近各地から名鳥が集まってきたもので、それが寮といわず別荘といわず農家商家といわず軒別に配置される。その日一日は音無川沿岸の家屋敷は全部ないし一部開放ということになる。「ます鏡」「千代の魁」「朝緑」などと花魁のようなお菓子のような又は相撲取のような名前のついた鴬籠が、各自数奇をこらし(訳注:建物・道具などに、風流な工夫を隅々までほどこす)贅を尽くした台に載せられ、上がりがまち(訳注:、主に玄関の上がり口で履物を置く土間の部分と廊下や、玄関ホール等の床との段差部に水平に渡した横木)にあるいは玄関に各一個ずつ据えられる。蓑と笠とが干からびた烏瓜と一緒にかけてある荒壁の百姓屋の上り口に屏風の金砂子(訳注:金箔を粉にしたもの。絵画・蒔絵・ふすま地などに用いる)が烟(けむ)り、水仙香る籠花活(訳注:はないけ 花を生ける器)が飾られるのもその時だ。また札差し(訳注:江戸時代、蔵米取りの旗本・御家人に対して、蔵米の受け取りや売却を代行して手数料を得ることを業とした商人)の隠居所の切戸(訳注:茶室のにじり口の戸)が開かれて奥の茶室に緋の毛氈が敷かれるのもその日である。黄八丈(訳注:八丈島に伝わる草木染めの絹織物)ずくめの白髯の老人が、面打ち(訳注:能面をうつこと)のモデルになりそうな顔をして、妾宅の門口に杖を停めて耳を傾けているかと思えば、小紋の長羽織を着た、豆本田(訳注: 江戸時代に粋人の間に流行した男髷、本多髷の一種)の薄痘痕(訳注:天然痘にかかったあとで、あまり目だたない軽い程度のもの)が町与力の別荘の玄関で感に堪えて聞き惚れている……こういう悠長な時代と、質屋の親爺(訳注:竹台高校付近にいた「大質」の吉田丹左衛門か、上根岸123にいた石井徳次郎か)が区会議員の運動にペコペコして歩いたり、煮山椒屋の禿頭(訳注:上根岸17あった「このみ庵」の藤澤碩一郎?)が高橋何とかいう砂利泥棒の先馬を走ったりしている今の根岸とを対照して見ると誠にいうに云われぬ面白さが感ぜられる。
▽名高いお行の松というのは今でも半死半生の体で辛くも残っているが、その昔の一里塚の名残だといわれた二股榎は全くあとかたも無くなって、その跡には渋澤某の家来の金持ちが(訳注:渋沢栄一の甥にして女婿だった尾高次郎のことと思われる。終始、渋沢の下で銀行家として活躍する)、堂々たる土壁を築いてしまった。私たちの子供の事には夜その二股榎の前で転ぶと、おかめがお茶をもってくるなどといった。それから腫れ物か何かのまじないに噛んだ飴を幹にふきつけ後ろを見ずに帰るといいという伝えもあった。
▽鎮守の三島神社の祭礼には、三河島から神楽師(訳注:里神楽を舞う人。江戸里神楽は東京を中心に関東一円で行われ,仮面をつけ,神話や神社の縁起を無言劇で演じ,ひょっとこ,おかめの滑稽(こつけい)もからんだ)が来た。その中に常さん、かなめさんという二人の名人がいた。常さんは馬鹿、かなめさんは大将を得意とした。京都へ行っている成瀬無極君(訳注:なるせ むきょく、1885年4月26日 - 1958年1月4日ドイツ文学者、京都帝国大学名誉教授 「シュトルム・ウント・ドラング」を「疾風怒濤」と訳した人)、漫画家の池辺釣君(訳注:池辺均 いけべ ひとし 画家、風刺漫画家。別名に池辺釣。妻は岡本一平の妹。俳優池部良は息子。 藤田嗣治とは親友だった)などと会えば必ずこの話が出る。全く両君はじめ私たちの子供の時に常さん、かなめさんに対する尊敬は非常なものであったのである。今日の私が乃木大将(訳注:1849(嘉永2)年- 1912年(大正元) 陸軍大将)にも市川左団次(訳注:初代 市川左團次 1842年(天保13)-1904(明治37)年 歌舞伎役者)にも少しも尊敬の念の起こらないのは、たぶんその時、常さんやかなめさんにことごとく支払ってしまったからであるかも知れない。この三島神社の祭礼について子規の句に「この祭いつも卯の花下しにて」(文意:この祭りはいつも雨なのでウツギの花を流してまうのだ)というのがある。祭礼は5月14、15日の両日で、いつの年もたいていは雨降りだ。覚えてから二日とも晴天ということはほとんどあったためしがない。
▽町内共同の飼犬にマルという大きな狐色の毛をした牡の日本犬がいた。根岸中の犬の王様という格でしかも至るところで可愛がられていた。あえて犬種的敵愾心というものが強かったというわけでもなかろうが、どういうものか西洋犬と見ると常の柔順さとは打って変わった獰猛な態度になってこっぴどくやっつける。某という鉄道へ出る人(その頃今の上野駅を基点とした鉄道は日本鉄道会社というのが経営していた。そこの重役だ)(訳注:金杉153に住んでいた白杉政愛のことと思われる しらすぎせいあい 1842(天保13)年-1921(大正10)年 熊本藩士、西南の役で熊本鎮台にて西郷軍と対峙。その後、鉄道へ転身。白金興禅寺に墓。長男は国鉄経理部の白杉次郎太郎)の愛犬にポインター種の大きな奴がいた。名をヘンリーといった。どういう機会かでそいつがのそのそと外へ出て来たのを、たまたまマル君が見つけた。例の通り猛然と噛みついた。そして頬と耳とに大傷を負わせた。重役さんの憤りというものは非常なもので、何でもマルを見つけ次第殺してしまわなければ腹が癒えないというのである。と、いうことを漏れ聞いた一方の町の人たち、特に町内の鳶頭と酒屋の隠居と漢学の先生とこの3人が承知しない。「殺して見やがれ。うぬが家はただはおかねえ」というのである。
▽ところで重役の方にはもう一人加担者があった。やはり愛犬をマルのために散々にやっつけられたのを遺恨にしている判事の古手(訳注:一つの仕事に長く従事している人。古株)か何かで、その二人が相談をして、どう筋を辿ってしたのか犬殺しにマル征伐を頼んだ。ところが根岸のマルの名は犬殺しの仲間にも既に伝わっていた。かえってその犬殺しから町の人の方へ内通して来た。頭の爺さんと酒屋の隠居と先生はいうまでもなく、町の人たちが一斉にマルのために忿起した。「さア、おらが町内のマルに指でもさして見やがれ、役人だろうが裁判官だろうが、ただしは大臣が華族だろうが容赦はねえ。家ぐるみ叩きこわして焚きつけにしてやるから」という鼻いきである。私はある夜の銭湯で、赤薬缶にとうすみとんぼ(訳注:糸蜻蛉。体が糸のように細いトンボ)程のチョン髷をくっつけた頭の爺さんが、皺くちゃだらけの体に浪裡白跳張順(訳注:ろうりはくちょうちょうじゅん 水滸伝の登場人物の一人。梁山泊南西の水塞を守る水軍の頭領で大変な泳ぎの達人。七日七晩を水中で過ごすことができ、四、五十里(約20km)を泳ぐことができるという。水中では無敵であり浪間をくぐる鮠(はや)のようであることから浪裡白跳というあだ名がついた。刺青の絵柄として人気がある)を踏んばらして、マルのために大々的気焔をあげているのを見た事がある。
▽結局この喧嘩はそれきりで何事もなく、重役の家や裁判官の玄関へ、三島様のお神輿が舞いこむなんて事もなく済んだが、その後しばらくして判事と重役とは相前後して根岸を退転してしまった。マルは相も変わらず日あたりのいい町内そこらの店先を選んで大きな体を臥そべらしていた。そして何でも2月下旬のある一日酒屋の土間で眠るが如く大往生を遂げた。「てめえの方がおらより先に行っちまやがったか……」と、そこの隠居は我が子の死でも見るように、この死骸を撫でさすってさめざめと涙を流したそうだ。頭と漢学の先生とその他の人々が集ってその夜その酒屋の隠居所でマルの通夜を営んだ。
▽このマルについてはまだいろいろの記憶がある。そのうちにこの犬の喧嘩一件だけでもまとめて見たいような気がないでもない。(85ページ了)
posted by むねやん at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 水島爾保布 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする