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2019年07月13日

2019-07-07 ちりめん本をめぐる人間関係 大槻文彦、長谷川武次郎、陸奥宗光とシカゴ万国宗教会議

2019年7月7日の発表 担当:清水ますみ
参考文献
まち歩きジャーナル 14号「ちりめん本が出版された場所」 清水ますみ

大槻文彦は、日本で最初の近代的な普通語辞典「言海」を上根岸の家で編纂した。その兄、如電は根岸小学校の校歌の作詞をしたと書いてある文献もある。いまの根岸小学校の校歌の歌詞は佐々木信綱が書いているので、その前の校歌があったのか?

大槻文彦は英語を、ダビッド・タムソンという宣教師し横浜で慶応3(1867)年に習っているが、長谷川武次郎もタムソンに明治3(1870)年に築地で英語を習っている。

明治26年に開催されたシカゴ万国博覧会および万国宗教会議の総括責任者は、当時農商相だった陸奥宗光。陸奥の父(伊達宗広)の禅の先生は円覚寺の今北洪川禅師だったが、その高弟の釈宗演禅師は万国宗教会議の日本代表だった。その釈の弟子が鈴木大拙。大拙は万国宗教会議のスピーチを英訳し、その後渡米して、万国宗教会議のアメリカの評議員で事務局を務めたポール・ケイラスの会社に12年勤めた。
一方、長谷川武次郎はシカゴ万博に出品。その後明治28〜31年までにポール・ケイラス訳のちりめん本「カルマ」と「ニルヴァーナ」の2点を武次郎は出版し、ポール・ケイラス著/釈宗演校閲/鈴木大拙訳の本「因果の小車」という本も出版している。

長谷川武次郎のちりめん本の日本昔噺シリーズで14諞も英訳しているジェイムス夫人が暮らした麻布の家は、「陸奥宗光の住まいだった」とジェイムス夫人の娘で児童文学作家のグレイスが証言している。これは陸奥が根岸の家から引っ越して暮らした六本木の家のことと思われる。そして長谷川も陸奥の根岸の家に住んだ。

以上のことから、陸奥宗光と長谷川武次郎はなんらかの形で知り合いだったのではと思われるし、長谷川は大槻ともなんらかの接点があったのではと思われる。直接の証拠が待たれる。
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2019年07月01日

嘉永2 初音里鶯之記 碑文

初音里鶯之記 碑文(意訳)

静かな時代には、おのずから物の音も穏やかに流れるとはその通りです。花には鶯の鳴き声、水に棲む蛙の声もこのご時世にならってのどかに聞こえてきます。そもそも鳥の声をもてはやすといっても、鶯ばかりがめでたいわけではありませんが、新年改まって春のはじめにほころび始めた梅の枝に鶯がきて、ひと啼きする様子はなににたとえられましょう。これを愛でるようになったのは、いつのご時世のことでしょう。万葉集のなかに鶯を詠んだ歌が、あれこれ見られますが、それらが始まりでしょう。菅原道真の「黄鶯出谷無媒介 唯可梅風為指車」という漢詩ができたのも、「はなの香を 風のたよりに たぐへてぞ 鶯さそう しるへにはやる」(意味:梅の花の香りを風の便りのお供としてウグイスを誘う案内役につかわそう)という紀友則の歌があったからです。このように鶯となると梅も登場するのはおのずと季節のたよりであるからです。梅は花の王者、鶯もまた鳥の王者と言っていいでしょう。この武蔵国豊島郡金杉村の根岸というあたりは東叡山のふもとであり、そこに初音の里と呼ばれる場所があります。元禄のころに理由はよくわかりませんが、京都より鶯をたくさんとりよせて、ここに放ったことから、やがてこの場所を初音というようになったのです。
天保14年のころ、ここの住人の富右衛門という者がこの初音の名にちなんで、ここに梅をたくさん移植して梅林をつくったのです。そして鶯の棲みかになればいいなあと。そんなことをなぜなぜ考えたかというと、ある娘が詠んだ歌として「鶯の宿はと問わば、いかが答えん」(元歌:勅なればいともかしこしうぐいすの宿はと問はばいかが答へむ/意味:勅命ですから、まことに恐れ多いことで、謹んでこの木は差し上げましょう。しかし、いつもこの木に来なれている鶯がやってきて、「私の宿はどこへ行ってしまったの」と尋ねられたら、どう答えたものでしょうか)というものがあったからです。梅を植えれば、きっと鶯が飛んでくる。飛んでくれば初音の里という名前もむなしくはならないでしょう。これはほんとうに良い思いつきでした。自分自身、梅が好きだったので、梅の木を千本以上持っている中に「香る雪」と名付けた一本がありました。これは花の色も香りも素晴らしい庭木なので、それを梅園に移し植えて、鶯の棲みかになるようにしました。
そのようにして弘化2年2月のある日、当時江戸城の西の丸におられた家定公が狩りに出たとき、道中のついでにこの梅園を横切りました。その時、園には「雲の上」「魁」「便(たより)の友」と名付けられた鶯が、籠に入って梅の木の下に置かれいて、通り過ぎる時に「魁」が声高く啼いたのでとてもめでたい出来事となりました。こうしていよいよ梅のつぼみは多く開き、年を追うごとににぎわうようになってきています。
さて、弘化4年睦月28日、いまこの大江戸の名だたる鶯を持った人がこの園に鶯とともにやってきて、声の良しあしを審査することが始まりました。それをきっかけに、年毎に鶯が多く集まってくるようになりました。その鳥たちはとても賢くて、親鳥の声を真似て、ひな鳥はその親に劣らず、あげ・中・さげの調べを間違えずにならい行います。ひな鳥たちはおのずと品があって、文字口、かな口などと品々分かれています。親鳥に勝るようひな鳥を飼いならす技術は、これまでありませんでした。このことを後世の人にも知ってもらいたいと思いつつ、一方では今年の鶯の名前をここに記して、長く初音の里の名前が残るようにしようと、富右衛門の依頼のままに少しばかり、その由来を書いてみました。

嘉永元年3月15日
東叡山津梁院主大僧都慈廣 識
関根江山菅原為実 書
従五位下播磨守戸川安清(やすずみ) 題額

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2019年06月30日

2019-06-09 寅彦の明治32年と昭和9年の上根岸訪問記から読む変わったもの、変わらないもの

2019年6月9日の発表 担当:李栄恵
参考文献
根岸庵を訪う記 寺田寅彦 (明治32)
墨汁一滴 正岡子規
追憶記 森田義郎
根岸の里 河合勇 (昭和42年 八木書店)
子規遺墨 (昭和50年 求龍堂)
子規自筆の根岸地図 寺田寅彦

明治32(1899)年9月、寺田寅彦は漱石の紹介で初めて子規を訪問しました。この年、熊本五高を卒業して東京帝大理科大学に入学したばかりの21歳。寅彦は明治35年の子規の葬儀にも参列していますが、この年は寅彦自身もうら若い妻に先立たれる心痛の年でした。
子規没後は上根岸に来ることもなくなった寅彦。再婚、漱石の死、二度目の妻の死、子供たちの成長などを経て、昭和9年、30数年ぶりに子規庵を再訪します。そしてその翌年、寅彦自身も57歳で亡くなりました。
初訪問の一部始終は「根岸庵を訪うの記」に克明に記されています。昭和9年の再訪は「子規自筆の根岸地図」にかかれています。明治後期と昭和初期、そして現代。何が変わり、何が変わらないままであるのか。

博物館の横手大猷院尊前と刻した石燈籠(いまも数基あるが殆どは散逸)
新坂の三番と掛札した踏切(いま凌雲橋はJRと立体交差している)

明治期の寅彦は、根岸でつくつくほうし、鳥の鳴き声、蒸気機関車の轟音、踏切
昭和期の寅彦は、根岸でラジオドラマの音、新しい駅(寛永寺坂駅)、跨線橋を目に耳にする

浅井忠が東京から京都に移った際、その家を譲ったのは隣家の河合辰五郎(凸版印刷初代社長)である。浅井の家の方は、洋画家の本田錦吉郎に貸し出され、、さらにその後寒川鼠骨が住んだ。
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2019-05-19 「初音里鶯之記」碑について

2019年5月19日の発表 担当:神保乃倫子
参考文献
「根岸乃近傍」第二輯 根岸の金石 市川任三(昭和58年)
「台東区の文化財 第3集」(平成10年)

1700年初めに京都の鶯が多く放たれて鶯の名所として知られるようになった根岸。鶯といえば梅という流れで、天保14(1843)年に小泉富右衛門は梅園「根岸新梅屋敷」をオープンさせた。弘化2(1845)年に将軍世嗣家定が梅園を通り抜けを行い、そのころから鶯啼合会が根岸で始まる。そんななか嘉永2(1849)年3月に「初音里鶯之記」碑が造立された。しかし安政3~文久年間(1857〜64)には廃れたようで、開園期間は20年足らずだったようだ。その後明治になり、明治18(1885)年ころに根岸での鶯啼合会が復活し、関東大震災までつづいていた。

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2019-04-14 吉村昭「戦前の面影をたずねて」の浅尾払雲堂の場面

2019年4月14日の発表 担当:中條唯男
参考文献
吉村昭「東京の下町」その18 戦前の面影をたずねて
朝日新聞 2018年12月14日 夕刊 「街の十八番〜浅尾拂雲堂@上野」
浅尾拂雲堂から入手した「谷中の芸術文化著名人見聞記」という手製の地図および居住者名簿

2017年10月8日の発表の続編。「戦前の面影をたずねて」に登場する画材店の浅尾払雲堂を深掘りする。
吉村昭がこの取材をしたのは1985(昭和60)年1月と推定される。
この時その場にいたのは、吉村昭(当時61歳 1927-2006)、店主 浅尾丁策(当時80歳 1908-2000)、若い人 浅尾空人(当時50歳 1938-)。発表者の中條氏は、実際に浅尾払雲堂を訪ねた。いま店には80歳になった浅尾空人さんが4代目店主となり、その次男朋次さんら職人3人が額縁を作成しているとのこと。
「戦前の面影をたずねて」の際に吉村昭が手にした谷中・日暮里略図は現存しないようだが、その代わりに「谷中の芸術文化著名人見聞記」という手製の地図および居住者名簿をお店で頂戴し、みんなでこの地図を鑑賞した。

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2019年06月29日

市川白猿

根岸人物誌 巻之一 20 *文中のカッコは読み仮名もしくは注釈

四代目海老蔵の実子にして、俳名を三升または白猿といい、狂歌の号を花道のつらねという。幼名は松本孝蔵という。宝暦4戌(1754)年初舞台にして同年冬、父の元名松本幸四郎を継ぎ、明和7寅(1770)年五代目を相続して團十郎と改め三升と号す。寛政3年11月、市村座にて「金めっき源家の角つば」と題し渋谷金王昌俊に●●を務む。この時、團十郎を倅海老蔵に譲り、自ら蝦蔵と改め俳名を白猿と号す。改名の句に「毛が三すぢ上手に足らず蓑寒し」の句あり。のち56歳のとき、牛島須崎の前に閑居して、名を七左衛門と改め雅名を反古菴という。●●て根岸円光寺の隣に住す。同寺もとより藤花で名高し。よって「猿猴の手よりも長き藤の花」の句あり。文化3寅年10月29日朝没す。法名を還誉浄本臺遊法子という。行年66。辞世あり「凩に雨もつ雲の行衛(ゆくえ)かな」芝常照院に葬る。●技を●り、また俳諧狂歌に親しむ。(山東)京伝、(曲亭)馬琴、(烏亭)焉馬、(大田)蜀山(人)、●●( 鹿津部)真顔、(山東)京山等と親交あり。「錦着て畳の上の乞食かな」の句、人口に膾炙す。白猿人となり●●て高し。馬琴の狂歌に「江戸見ては外に名所もなかりけり 団十郎のはなの三月」
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2019年06月28日

2019-03-10 根岸人物誌の市川白猿って何代目の団十郎?

2019年3月10日の発表 担当:小田三千子
参考文献
根岸人物誌 巻之一の20「市川白猿」
市川團十郎の代々 伊原青々園・著 (市川宗家) 大正6年
蛛乃糸巻 下 山東菴稿本 弘化3年 (国立国会図書館蔵)
市川團十郎代々 服部幸雄 (講談社)

根岸人物誌の記述によれば「五代目」であることは間違いない。ただ、根岸及近傍図でも人物誌でも紹介されている白猿の「猿猴の手よりも長き藤の花」の句を「市川白猿集」「友なし猿」「徒然吾妻詞」「今日歌白猿一首」では見つけられなかった。どの本に出てくるのか現状不明。
また、笹の雪には白猿筆の「その中に白いもみじや新豆腐」という掛け軸があるとのこと。近日確認する予定です。

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2019年06月27日

2019-02-11 川口善光寺に遊ぶ記〜「江戸近郊道しるべ」より

2019年2月11日の発表 担当:桜井瑞雄
参考資料
「江戸近郊道しるべ」 編注者 朝倉治彦 平凡社(1985)
「江戸近郊ウォーク」 訳者  安部孝嗣 小学館(1999)
地図(略図) 国立国会図書館 デジタルコレクション

「江戸近郊道しるべ」の著者の村尾正康(号 嘉陵)は、清水家の御広敷用人で、彼が1807年から1834年(47歳から74歳)にかけて江戸郊外を旅した記録を後世まとめたもである。「江戸近郊道しるべ」には自筆本と2種類の写本があり、題名は国会本の写本は「四方の道草」、内閣本の写本は「嘉陵紀行」となっており、自筆本にはタイトルはない。
嘉陵が歩いて記録した範囲は「江戸名所図絵」(1834-1836)の記録と重なり、時期は「新編武蔵風土記」編纂のため昌平坂学問所が「豊島郡絵図」を収集していたころ(1804-1829)に重なる。

「川口善光寺に遊ぶ記」は1819(文政2)年閏4月17日の旅行の記録。坂本町を出発し川口の善光寺に行き、王子に戻ってくるまでを雑文と地図で記している。

根岸近辺を通過する際の記述は現代語訳すると以下の通り。()内は訳注。

「坂本町(いまの台東区下谷一丁目)を西に折れて、細い流れ(音無川)に沿ってちょっといくと、時雨ヶ岡不動尊(台東区根岸3丁目 いまの御行の松不動尊)。瓦のふいたお堂の前に大きな松が一本ある【原注:この松は御行の松という名である。考えるに、地元のものが水垢離をしてお不動さんを拝み、行をなしたからそういう名になったのか】。二丈(6m)あまり伸びて、枝も四方に広がり、幹の太さは二囲半(二抱え半:3m70cmくらい)ある。

しばしとて木の下かげに立よれば 夏もしぐるる 岡の松風

お堂の前の道の片側に、茶店が2軒あり美しく、休息するによい。さらにいくと日光御門主のお構え(根岸御隠殿)があり、ご門の前に松が植えてあって、とても神々しい。御本坊(東叡山寛永寺)からお庭を通ってここに入ってこられる道があると聞いた。ここに藤堂和泉守(藤堂高虎)の屋敷がある。この辺りはどことなく閑静なところで、浮世の外に住む身だったらいいのになあ、と思ったりもする」

付属する地図で根岸に絡むところにはこんな記述がみられる。
・(音無川のところで)この用水中たんぼへ落つ。
・(梅屋敷のところで)この辺り百姓屋敷の庭 梅あり。必ず尋ねるべき。寛政の初めの栽という。
・(荒木田原のところで)この所より出る土を荒木田という。


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大正14 水島幸子 婦女新聞の「根岸のたより」

婦女新聞 大正14年4月5日および5月17日の全2回連載
カンカン森の今昔 〜根岸のたより〜 水島幸子

その1)過ぐる3月18日の日暮里町の大火は、アノ恐ろしい大暴風の中を6時間も燃えて居た。近頃にない火事で、焼失戸数二千に余ったと伝えられる。10日も経ったきょうび(*今日日)根岸辺りの店屋に続く出窓の格子や、しもたやの門などに張り札がされて、「火事の時お預かりした夜具二枚受け取りにお出で下さい」とか「ここにあった布団の包みは家にお預かりしてあります」とか書いてあるのを見かけたり、上の方から泥などの落ちてくるのに気づいて見上げると、瓦を踏み壊されたらしい大屋根の手入れをしているところがチョイチョイある。焼けあとから一丁も離れているところでさえこんな風では、焼けどまりのお隣に当たるお行の松の松風屋のおじいさんなんぞは、あの不自由な体とあのきゃしゃな風流な店と住居とがどんなにあぶなかったことだろう。(*人物誌3-21 辻 暁夢1850?-1927 名物松風煎餅)そしてまたさぞ混雑続きに悩んでいることだろう。幼友達のお歌さんのお母様の再縁した家で、妹の友達のお若さんの生まれた家、門の柳はもう芽がもえたか、蠣がらを乗せたこけら屋根は無事だろうかと、ふと思い立って尋ねたのは26日のひくれがた。未だきな臭いにおいのただようなかに「お行の松」は辛くも火をのがれたドス黒い色で余命いくばくともなさそうな葉ぶり枝ぶりをうすぐらく見せたその下に、焼けあとから運び込んだらしい欠け皿や、こわれ道具、半分焦げた屋根板だの、石だの泥だのが山と積まれて、ふだんは人の行き来さえ禁じて名所保存につとめた張り縄の姿などは、見るべくもない。当の松風屋の小さな柴折戸の壊れているのはもちろんのこと、まばらに結った生け垣は、荷を運び出す人達の努力に呪われて形も止めぬまでに踏みにじられたまま、まだ手もつけず、「辻暁夢」と書いた名札だけはデモ取り残されたほそい門柱に残って、肥った身体をみうちのものに助けられながら風流三昧に世に送っていたお若さんのお父様は、無事に寝室の中の布団の上に座っていた。今日から店をはじめたとか言って、若い人達は皆松風や紅梅焼をこしらえにかかって、お歌さんのお母様がひとり背中にちいさい孫を負って、かいがいしくも片付けものしているあたりは、なにもかも片付け切ることの出来ないものだけであった。「まァもうすこしサキへいらしてごらんなさい。よくもこうして残してくれたと思うように際どいくぎりまで、日暮里は焼けて根岸は残っておりますよ」と松風屋で教えられた通り、根岸病院の手前は三尺足らずの溝一つを中にして根岸の境は焼け残り、日暮里の町は無惨にも火になめられてしまっていた。焼け跡はちょうど20年、30年目の田圃(そのころその所はこの焼原よりも広く、ことに東に広く延び、その広い田圃の真ん中に小さく2,3本木が生えているように見えたのがカンカン森であった。)そのままに広々として、大方はすでに板囲いをしてあり、バラックも点々と営まれてはあったが、焼ける前のようにぎっしりとつまった人家とは似ても似つかぬ変わり方をした中を二丁ばかり来て、カンカン森のあとへと出る。「おうたや、あなたがたが、つみくさでおなじみのカンカン森は焼けなかったって事ですよ」と今きいて今見に来たこの森、ここも幸い焼け残りの焼け止まりである。
カンカン森。森とは名ばかり、数本の杉檜、それさえ先日の火にあって葉はあかあか焼けただれ、枝まで細くやせたように見える傍には、それでも高さ三尺ばかりの屋根をしつらえた下に猿田彦大神と刻した石が台石の上に立って、前には線香を備えるくらいの設け(もうけ)がある。
「奉造立庚申供養、享保十三戌申十一月吉辰日講中」とわずかに読みえる墓石形の石がある。これの台石には十人ばかりの人の名が、伊兵衛とか長左衛門とか太郎兵衛とか半左衛門とかほりつけてある。そのまわりの空地は十坪あるかなし、往来から猿田彦の石までゆく一間半ばかりの間へキリ石を敷いたほかには、草一本生えていない名ばかりの森である。こころみに小石を拾って、猿田彦の石へ投げつけてみても、その昔、田圃の真ん中にあったカンカン森のなかで聞いたような、カンカンという澄んだ色音は聞かれない。どうしてこのカチンという音が昔はカーンと聞こえたのか、確か自分も子供の頃、近辺の言い伝えのままに小石を投げてみた時に、こんな薄とぼけた音は聞かなかったように思う。四周(ししゅう)の樹木も今少し多く、見上げるような榛(はん)の木や、葉の下は少し暗かったかと思えるような椿の何本かや、欅(けやき)や槇のかなり太いのに交じって楓の若木と花の咲いたのを見たことのない桜の木、それに交じって八つ手というのもあったように思う。そして何本かの枯木の間には名を知らないつるくさが伸び伸びして、蔦の葉に交じったり雑草へからんだりしていた。北の方を近く常磐線の汽車は通ったけれども、その先は遠く筑波山がうすくかすんで、西の方は谷中の森が形のいい枯木の間へ五重の塔をはさんで上野へと連なるあたり、それこそ絵にある通りの鳥の幾羽がねぐらに帰るのが見えて、いまごろはもうあっちの田にもこっちの水にもうるさいほどの蛙が鳴きたてる。ほんにこのあたりで鳴くゴイサギの声はよく上野近くまでも聞こえたものだったそうな。夏は蝉を捕える男の子のいい遊び場で、摘み草の頃は籠を下げては寄ってくる女の子達の格好な休息場となっていた。そうしてその頃は猿田彦大神の石はむき出しのまま林の奥まったところにあったように覚えている。も一つの石は、森の口もとの方にあったような。広い広い田圃の中にポツンと立った目印みたいなこの森は、秋の九月の強い日光を浴びながらイナゴ捕りなどに出かける子供たちが、暑さをよけたり休息したり、ちょうど砂漠のオアシスだなどいうものもあったほど、森の形は保っていた。そうした樹木の立ちあんばいや、四周は田圃で水があり、ことにこの森の近くには蓮根をつくる水田が多かった関係から、立石にあたる小石の音も山彦のように響いたものででもあったのか。何にしてもこの懐かしいカンカン森が、町の真ん中の三等郵便局をお隣にして、境内であったところには消防ポンプの倉庫ができ、樹木の茂っていた森の入り口が人通りの多い往来になってしまうとは二三十年前には、誰も思いもよらなかったことであろう。活動写真というものさえ知らなかった三十年前の子供の一人は、ここにこうして焼止まりとなった幸福な森を後に、少し離れた金美館とかいう活動小屋を訪ねつつ、暮れるに遅い春のたそがれをガラスのこわれの散らばったなり踏みつけられた焼残り途に、しのぶよしもないその昔の、そのあたりの田の畔(あぜ)で摘んだよめな(*万葉集に春の若菜摘みとして最もよくうたわれているのがヨメナである。若苗が5〜6cm伸びたころ摘みとり,ゆでて浸し物,あえ物,いため物にされる。春の若菜の中で美味で,花の美しいところから嫁菜の名がつけられた)の小包を手に下げて、同じ年ごろの子供たちと連れ立って家路をいそぐ自分をかえりみた。ふと又人目を避けたげな彼と彼女が、静かにあの森のかげへと姿を消した二十年前のある夕べを事あたらしく思い出した。

その2)このあたりでは毎年若葉の頃になると蚊が出てきます。殊に「せきのはた」という、これは土地っ子の使う言葉ですから今どき余り知られないかもしれませんが、むかし音無川と称(たた)えた細い流れが、上根岸から中根岸の北、下根岸の西を流れて三ノ輪から山谷の方へと下って行ったので、上流は石神井川の支流だということですから、元はどんなにかきれいな水であったでしょう。私が子供の頃、三十年も前でさえ、てるてる坊主などを流した時は、見る間に下へ流されてゆきました。ですから、この流れに沿った道路のところどころには、洗い場がこしらえてあって、その頃その近くの田や畑でとれた野菜類を、お百姓さん達がよく洗っているにを見かけました。お行の松の下には二か所も、この流れの前へ板を張り連ねてこしらえた洗い場がありまして、その洗い場の前後には流れに浮かぶ塵や木の葉を塞く(せく)仕掛けがしてあったように覚えております。その後その流れを堰、堰と呼んで、それで通って(とおって)おりましたのは、こうした関口がつけてあったためでもありましたろうか。月日の流れにおされて、この堰の水は、とうとう流れも悪くなり、幅もせまくなって、当今では誰も彼もみな「どぶ」という名で呼ぶようになりました。その「どぶ」のふちが「せきのはた」でございます。この「せきのはた」くらい蚊の出が早くて、蚊の多いところは根岸にも少ないのです。すでにどぶと呼ぶほどの流れですから、町会の組合でも申し合わせて、石油でも撒いて下さったらなど、この頃この辺りで言い交されます。がまた近くこの流れを広くして水運の便を計るたくらみもあると聞くと音無川の復活などということも思われます。
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住み慣れた土地を退くのもいやですが、根岸にはもう根岸らしいところがなくなってきました。春が長けて(たけて)蛙の声にきける夜は、数えるほどしかございませぬ。朝朝都会へ出る荷馬車の馬子が、鼻唄気分で空車へ腰を掛けながら、申し訳ばかりに手綱を手にしたのが、何十台となく通るその響きのせわしさと、家の近くの青物市場へ荷を持ってくる、近在農家の牛車の牛を、ちょうど門の前へ、午前中はほとんどずっと置かれるのがイヤで、根岸らしいところのある家を探していますが、なかなか見当たりませぬ。家を買おうとする人さえ、家を新築しようとする人さえ、思うままの家や土地を自由には得かねるというのですから、借りあるく宿無しどもはうるさくとも、臭くとも、病人の神経にさわろうとも、屋根の下なら、畳の上なら我慢しないじゃアならないものかもしれませんが、一日も早く、も少し静かなところへ住んで、身も心も落ち着かせたいと毎日毎日念じております。
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三年前にこの家へ逃げ込んだ時も、ちょうどこんな気持ちでした。もとの家のすぐ隣家は鳴り物のお師匠さんが越してきたころ、もう一方の隣家へは、二階の貸間へ義太夫好きの人が住みついて、夜も昼も精を出されたので閉口したあげく、この家は、隣家は寺院で、裏はその墓地、前の往来は幅が広くて、例えばいずこの隣でどのような賑やかな催しがあっても、うるさく聞こえてはこないという申し分のない家であったのに、永く住み続けられないで、又もほかを探すのは、借家人根性の一種のようにも思われて、わが身ながら気の毒でなりません。誰かいずこかで、いまに住むところがなくなるぞと言われているようだ。
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大正15 水島爾保布 時事新報の「根岸夜話」

時事新報 大正15年7月31日から8月8日までの全7回連載
根岸夜話 水島爾保布

その1)根岸から西ヶ原に移った。新築落成とでもいうんだとだいぶ景気もいいが、鉄道線路が広がるので居たたまれなくなって諸氏方々にうろつきまわった挙句、ともかくも・・・・・・ときめた塒(ねぐら)なんだから振るわないことおびただしい。飛行機墜落で爆死したり、自動車と衝突して大けがをしたり、転覆した電車の下敷きになったりしたのと同様、いわば文明の犠牲ってわけである。もっともこの犠牲者、あいにくのことに家も庭も鉄道省技師が策定した拡張区域には一間(*1.8m)ばかりの差ではずれていた。だから先からは決して引っ越せとは言ってこない。もちろん引っ越し料は百も貰っちゃいないんだから、犠牲は犠牲でも少し分が悪い。
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一間向こうは線路の敷地。家屋とっぱらい跡の惨憺たる空地だ。便所の跡がそこら中に散らかって、欠けた七輪、口のもげた貧乏徳利(*長めの口をつけた円筒形の陶器の徳利。酒屋で1升以下の酒を売るときに用いた)、トタンの屑、壁の骨のコマイ竹(*木舞竹。木舞壁に使う竹。真竹や篠竹しのだけを縦割りにしたもの)、坊主になった棕櫚(*ヤシ科の常緑高木)の木、切り倒された芭蕉、ゴム靴の片々、ぶっ壊れた車の輪。〜そんなものがバラまかれた中で時々出船の合図のようなやかましい鉦を叩きのめして支那人の豆蔵(*江戸時代、こっけいな身振りと早口で人を笑わせてかせいだ大道芸人)が蛇をつかったり、とんぼ返りをしたりしている。弘法大師ご直伝真言秘密の法なんて冊子ひけらかして勿体らしく並べ立てている大坊主がある。盗みものと見せかけ慣れあい喧噪を景物にコソコソ商いの万年筆屋がやってくる。とにかくに世態萬般斜に見ても縦に見て楽じゃない。
その合間には砂利が積まれている。ゴミクタ交じりの泥が山を築く。ゴロタ石と切り石が運ばれてきては運ばれてゆく。二財三財の手数がのべつに繰り返されている。その手数と手数がのべつに繰り返されている間に砂利は妾宅の酒の下物(さかな)になり、泥は板新町へ長提灯に化けて這入っていくんだなどど、とかくにろくでもない事ばかり考えさせられる。どうも風紀上はなはだよろしくない光景だ。なにしろ近頃の日本の官僚の内容は上大臣をはじめとして一般の公吏公僕おしなべてすっかり支那化してしまったからなア。今更らしく支那を理解せよも誠にチャンチャラ可笑しい。
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毎夜午前の二時ごろから夜の白々明けにかけて、決まって線路工事のチャンガラカツカ、チャンガラカツカだ。時に工夫諸君声をそろえてバクレツ弾のような喊声(かっせい)をあげる。革命でも起こったかとブルジョアがってビクビクするとたんにガラガラズシンと凄まじい音。とても大きなとても重い何かが投げ出されたらしい。震源はつい一間先にあると、いった状態、にもかかわらず鉄道省のヤツ、誠にお喧しゅうございましょうとも吐さない。まったく人付き合いの悪いことこの上もない。しかもチャンガラカッカがお終いになると、今度は汽車って順だ。現在でさえその非文明極まる咆哮と煤煙とにホトホト閉口しているところへ更にそいつが目前に迫ってくるのである。たいていのコケでもまいっちまう。〜〜とまアいったわけ合いで引っ越すことになったのであります。

その2)根岸は小生の生まれ在所、親父以来三島様の氏子兼貧乏神の氏子として暮らしてきた土地だ。旧居の地を離れるということには多少の感慨も伴わぬではないが、さてその感慨を何にかずけた(*人のせいにする。転嫁する)ものか。周囲の状況実に凄まじい変わりようだ。今の根岸にはもはや「根岸の里」を代表する何ものもない。しいて言えばお行の松くらいなものだが、それとても今ではマッチ箱のような貸家のなかに取り込められて、すっかり意気消沈の体だ。あいつももう長かアかアせんな。あの根回り尺二寸がどこ切って火鉢にでもくらせたらこいつ面白うごずせーなどと、今からもう狙いをつけている手合いがあるんだから、名木も回り合わせた千年目が甚だよくない。霊ってものでもあったらさしずめ補精強腎の薬にでもされて、どっかの雑誌社が通信販売でもするだろう。
小生の家が神田から移った当時の根岸は、北豊島郡金杉村の一部だったそうである。いくばくもなく市内に編入されたが、それでもちょっと出ればすぐに田圃、筑波山まで見通しだったことが子供心に覚えている。

石神井川の枝流れ王子のドンドン堰を落ちて道灌山下から根岸へ這入ると名もここに音無川と改まる。川沿いは即ち当時の文化村だ、寒竹の小垣や山茶花の生垣、土橋板橋が梅松柳それぞれの目印をもつ枝折り戸や冠木(カブキ)門にへとかかっている。宮様士の住宅、旗本の隠居所、造り酒屋の寮、材木問屋の別荘、文人の蘆、墨客の庵、こじんまりと数寄屋作りのくず家の中に納まっているお妾もあったそうだ。年に一度王子の大滝で江戸中の刺青(ホリモノ)比べというのが行われた。星馳雲集した倶利伽羅紋々の勇み手合いが洗い流した腋の下のあぶら汗が、流れ流れてここの囲いの窓の下を訪れたなんてことに持ってゆくと、話の手順は少し狂いを生じるが、兎に角に呉竹の根岸の里の風雅風流ってものは、いつもこの小さな流れ一重を基調にして営まれていた。〜〜らしい。

数寄風流にもいろいろあるが、江戸人の理想といえばまず抱一好み、種彦(*柳亭種彦)好みの粋と寂とが四分六、三七ないしは半々になっている。といったようなものらしい。たとえば根岸の里のわび住まいというのにしたところで、膝前には三ツ輪くずしの年増盛りがつま外れも尋常に幾分くの字になっていなければならない。古代写し折敷型梨地つや消しのお重のなかには土産の竈河岸の笹巻(*元禄15年(1702年)に初代松崎喜右衛門が日本橋人形町二丁目付近で創業。今も神田小川町で「けぬきずし」として営業している)でも這入っているはず、輪島の高足に南京古渡り八稜の小鉢と伊万里の中皿が走りものと終わり初ものと何かあざらけき(*新しく生き生きしている。新鮮である)ものを乗せて納まっている。掘出し唐津の小片口が箸休めで一口椀の蓋をかえすと中には沈金の梅一輪。例の花林胴の小長の上には尊春亭へあつらえにあぶら気抜きの鍋ものが薄っすらと芳しい湯気立っている。女が取り上げた赤絵唐糸の小徳利をカチリと受けた猪口には道八の小蝦がピチリと跳ね返っていようという寸法、夕あがりの雨のあと行燈にはちっと早い。窓をあけると前の小川は縦しぼ縮緬のようなせせらぎを見せて光っている。それに沿って蓑着て笠着た洗場通いのお百姓が紅さし美しい茗荷の一束を担ってゆく。飲んだくれの面うち、ジマンコ讒山(けんざん)が会津の朱の盤坊(*妖怪の名)みたいな顔にベッカンコをして芋酒屋の丁稚をからかっているすれ違って中通りの煙草屋の姉娘が片手で小褄で路を拾ってくる緋鹿子の結い綿を少し仰向け伏目になっている横顔が、すんなり延びた襟筋とともに、斜めにかざした紺蛇の目を背後にくっきりと白い四分一を一丁はずもうかなんて当座の冗談の下から、前のくの字が字余りといった要領でめり出して、たおやかな指先が膝の上でお狐さんになろうとする。〜とまアいったような趣向のものだったろう。なんだか奉書漉の伊豫植へ手刷りでかけた木版に申しわけほど生毛(うぶげ)立ちして一しほ調子を柔らげたかの気持ちが携う。とにかく昔は所がらも人がらもたいぶ味に気が利いていたには違いない。蛙の声まで爪弾きに乗ろうってものだった。

その3)音無川〜〜土地の人の間には堰という名で通っていた。川沿いの野路を隔てて一側(かわ)ならびに並んでいる家の背ろはすぐに田圃、稲荷(とうか)の森にカンカン森が丘陵のようにこんもり盛り上がっていた。はるかに遠く千住の榛(はん)の森が帯のように横たわる。それの向こうに筑波の紫がほんのりと匂いを浮かせる。大路の大曲りからあっちは漬菜の名所の三河島村、川に沿って少し上は谷中生姜の産地の谷中本、季節になるとカンテラつけて夜市が立った。川の水だって今からみればそれこそ涓々(けんけん *小川などの水の細く流れるさま。ちょろちょろ)玉を咽(むせ)ばしていたといってもあながちならぬ感がする。底には清らかな小砂利が透いていた。ところどころには葉の長い藻草がゆらゆらと縞のように靡いていて、その間を小蝦や鮠(はや)っ子が抜けつ潜りつ泳ぎ回っていた。めだかなんかは川のどこへ行ってもむやみやたらと調練をしていたので手拭でも五匹や十匹わけなしに掬えた。挿秧(そうおう *早苗の植えつけ。田植え)の時節になると緑鮮やかな新藁が束のままいくつも幾つも流れて来た。新藁がけの投げ島田―といえば当時の根岸の女の美しい色どり・・・だったか何だか知らないが、そういうことにしておいてもどこからも苦情は出まい。初夏の根岸の寮にはぜひともなくてはかなわぬ特徴の一つだ。
貝塚の洗い場、一本橋の洗い場、笹の雪の洗い場、お行の松の洗い場などという洗い場が川のうねりうねりに板流しを張り出してあった。上野の森の真上にカラスが群がり騒ぐ頃から、時には夜へかけて提灯やカンテラがせせらぎの上に光を乱すこともある。畑から運ばれ市へ送り出される漬菜や生姜や大根や芋やネギやがその流しの上に山と積まれる。姉さんかぶりにたすき掛けの女手合いに、頬かむりの若い衆も立ち交じってとても賑やかにとても忙しい。今ならさしずめ浪花節ってところだが、その頃はおいとこそうだにからくり小唄、葛西回りの麦搗き唄なんてものが、洗う手のさし引きに節度を合わせていかにも楽しげだった。
夕立ちあがりかなにかで水かさが増すと、きっと蓑笠でたちで四つ手を張る人が、あっちの橋こっちの橋と点々とした。千切れた雲間から射す夕日の金色が濡れ映えた生垣から生垣に煌めきを刷きつける。その反照の中に蓑が光り綱が光りそうしてそこにかかって跳ね返る魚が一しほ鮮に光かがやく。胴回り一尺耳の生えている大鰻がかかったことがある。目の下二尺八寸なんて真鯉が漁れたこともある。(*水島「愚談」(1923(大正12)年5月)の根岸の記述部分にも同じ記載あり)
その音無川も今日では名も大溝(おおどぶ)と変わって、根岸日暮里の境界に浅ましい残骸を横たえている。汚濁混濁に徹底し抜いた中には恐らく丹毒とチフスと、その他いろんな病毒素や病菌が百鬼夜行といった姿でうようよしていることだろう。たまには溝泥(どぶどろ)を浚いあげて多少とも水はけをよくしたら、せめては発散する悪臭だけでも幾分薄らごうものを、小生が知ってから以来、ついぞ一度の溝清掃を見たことがない。市と府との境界線上の存在なのでお互いに責任のかづけっこでもしているらしい。病菌ってやつも府市の吏員のように杓子定規を頑守していてくれると誠に始末がよろしいが、厄介なことに国籍もなく国境もない。まるで芸術とそうしてラジオみたいなやつである。

その4)笹の雪の豆腐と岡野の汁粉、この二つが往時、根岸名物として並び称された。入谷、朝顔(団子坂の菊とともに明治時代の東京名所花暦の筆頭(ふでかしら)、どちらも明治末年相次いで亡びてしまった)見物の戻り、大半は豆腐か汁粉を目的に根岸へとやってきたのだ。上野の森が残んの(のこんの *まだ残っている)朝靄で篭ってお納戸鼠にぼやけている頃からして、坂本口からうねり込んだ狭い往来は衣香扇影で賑わいぞめいた。その間を縫ってせんざいものを満載したおそ出の車が一つ行き、二つ連なる。露ながらの芋の葉裏に寂然としていた雨蛙が、なにかの拍子でいきなり通りすがりのそれ者出らしい意気な御新さんの紫印金の帯を狙って飛びついたなんて漫画振りの即興も時にあろう。
文壇に根岸派という名が唱えられたのも多分この朝顔汁粉の全盛当時だったろう。誰だったかよくは知らないが、後年子規を中心にした俳句の根岸派とは全然意義も内容も違う。たまたまこの台北の一衆落にとりあえず卜居(ぼっきょ)している人々をただかりそめにそう呼びなしたまでのものらしい。とにかくその頃の根岸にはいわゆる文材の遊士に向きそうな小体(しょうたい)で気の利いた家は至るところに残っていた。
〜草双紙好みの柴垣に草屋根の小びらき、表札には松花堂がくすぼれていたり、あけびの中垣をへだてて濡れ縁ついた小座敷にその昔江戸の誰かが使ったという因縁付きの文台(ぶんだい)を据えていたり、真菰河骨の生いかぶさった古池に囲んだ中二階に、良寛短冊 其人と狐村合作の扇面 蜀山が妾の許へ送った狂歌入りの艶書 恵斎ざれがきの大津絵振り 光孚(*みつざね 土佐光孚 土佐派の日本画家)が際どいとろテンゴ書きした調伏の文反古、了阿、夷振り鶯邨の小裂れ〜といった類を貼り交ぜた寸づまり、二枚折を背に、和漢の珍本を雑載した文車(ぶんしゃ)をきしらせていたり、・・・その合の景物には枳殻(からたち)横丁の先生の奥さんが素足に吾妻下駄カラリンシャンとやって来て、今日やどが網打に誘われましてとの口上、せいごの二才三才かいつと鯔(いな)のきびきびとしたやつを取り交ぜて十一本、芝蝦二十程を副えものに、鍋嶋皿へ青笹しいて持ってくる。お礼の一札は唐紙の詩箋、当座の一勺もあって尚おうつりには昨日到来の葛飾小豆を目分量で五ン合程〜といった交流(つきあい)がお互いの間に繰り返されていたかにも想像される。とにかく今の郊外新開の赤土の上で物干竿のアンテナを突っ張らせ、郵便や箱の下へ「何々新聞お断り」なんてやって居るのから見ると全く当時の太平さが思いや見れる。
殊に今時分、晩涼のひとときほどは団扇片手にお隣同士が各々前の土橋と板橋に立ってよもやま語り、昨夜から坂本の寄席へかかった怪談噺の評判なんかも出る。蚊遣の煙が靡いて絡んだ山茶花の垣を隔てて牡丹燈籠のお露のような高嶋田が狩野派の先生で石州流の宗匠の子の新三郎にお手製の蛍籠へ一筆何かをこっそり頼んだり何かしている。竹の涼み台に釣瓶形の煙草盆、國分と水戸を交換しながら入谷の朝顔園朝涼みの一時を取り込んで若旦那と芸者の粋筋をからめ、お静礼三(*歌舞伎狂言。本名題「契情曽我廓亀鑑(けいせいそがくるわかがみ)」。世話物。9幕。河竹黙阿弥作)をぐっと陽気にいきたい。〜なんて昨夜浮かべた趣向の話なども出る。
こんな時代と思いくらべると実に凄まじい変わりようだ。今では、医者もいれば待合もある。町会の役員連が区から配給の乳剤を私したり、区会の亡者が活動写真館建設の運動をやったり、小学校児童の家庭協和会というのが二派に分かれて鴉の雌雄を争っている。どうも根岸の里もひどく浅ましくなった。音無川の泥溝(どぶ)になるのも道理こそである。

その5)根岸うちでも随分諸々方々と引っ越しまわった。その間二度まで化物屋敷というのに住んだことがある。初めの家はそういう噂を百も承知で借り受けた。家賃が格外に安かったからである。その怪談というのは昔その家の誰かが井戸へ身を投げて死んだ。その怨霊が今にその井戸の底にこびりついていて、時々籠り音に咽び泣く声が聞こえる。その水で洗濯したものは、日中はどんなにさっぱりと乾いていても夜になると必ずじとじとになる。〜というのだ。
もとは茶人が住んでいたとかで、母屋六間(ま)のうち三間まで炉が切ってあった。茅葺の軒には低い霧よけの庇が出ているので、どの部屋もどの部屋も常に雨の日夕暮れといった薄暗さだった。別に三畳の数寄屋が一つ、用材は元より露路のつくり、前栽(せんざい)の配置すべて申し分ない寂びを持っていた。むろんこれも天井が低くあかりは北に突き上げが一つ切ってあるだけなので、室内にはいつもうっとりと影が籠っている。とにかく陰気だ。化物屋敷としての委曲(*詳しく細かなこと)は遺憾なく尽くされているといってもいい家だったのである。
居は心を移すなんて言葉もある通り、幸い持ち合わせの旅つかいの仕込み籠に茶碗、中つぎ、茶杓、蓋ぬき、茶巾、錦紗の一通りは揃っていた。それを炉の前にならべ梅が香につつじの小枝を折りくべなんかして小霰に松風の通うのを待ったものだ。まずまア青黄粉にムクの皮といった納まりようで、かれこれ五か月も過ごした。
元よりお化けなんかの気もなかった。洗濯物もよく乾いた。泣き声なんかは似たものすら聞こえては来なかった。すると第六か月目に家主から家賃引き上げの通牒が来た。本月から倍額にするというのである。交渉すると今まで悪い噂があったので法外格安の値で貸しておいたのだが、既に五か月も居て何事もないとなると何も斟酌には及ばない。世間の相場通りを申し受ける〜というのだ。なんだか馬鹿な破目になったような気もしたが倍は到底払えぬ。でとうとう越してしまった。しかしその家は私が出てから一年あまりも空き家になっていた。その後方位占考の名人といわれた人が買い取ってすっかり面目を改めたがこれも一年足らずでまた主が変わった。この方位見の先生は本所へ移って地震に遭い、被服廠跡へ難を避けて家族残らず惨死した。その家に雇われていた女中に神田から来ている者があって、いよいよ主家の一同被服廠跡へ避難することになった時、その女中親の生死が気になるから、ひとっ走り行って見舞ってきたいと申し出た。と先生、お前の星に神田の方角は大凶大悪に当たる。ことに今日のお前の運命は水を渡れば、難に遭うことになっている。〜と止めた。けれどもどうしても聞かない。是が非でも親兄弟の安否を見極めさせてくれといった。結局みんなから馬鹿呼ばわりされながら水を渡って親元へ走せつけた。おかげでその女中だけは死を逃れた。

その6)二度目の化物屋敷というのは今の西ヶ原へ移る前までいた家、怪しい噂は界隈誰知らぬ者もないとのことだが、この方は借り入れる最初から移り住んで足かけ二年の間、私は元より家の者誰一人としてついぞ一度そんな評判を耳にしたことがない。這入る前ならともかくも、現在住んでいるその人にまさかにそんな話は聞かせたくない。だから今まで黙っていたが、実は・・・・なんて、そこを立ち退いた今日になっていろんな人から告げられた。なんでも番地で尋ねるよりは御隠殿の化物屋敷ときく方がよほど判りがいいんだそうである。町中で知らぬは何とやら、とかく、世間の物事はこうしたものらしいから恐れ入る。しかしお陰で私も町内には名をあげた。
家は根岸のどんづまり、裏の小溝が日暮里との境界だ。大槻文彦先生の旧居で後二三度代替わりがあって、今は東北某市の料理屋のお妾の持ち家になっている。周囲の状況も屋敷回りも庭回りも全く当年の面影はないが、でも離れの茶室と表座敷と裏の小座敷だけはもとのままだと、とある一日大槻老先生わざわざ故宅の跡を訪れてのお話だった。当時は庭の半(なかば)が大蓮池、池の真ん中どこに乱杭打って四ツ目に結んだ竹垣を渡しそれを隣との中仕入りにしてあるとのこと、その垣を中に取り込めて太藺(ふとい)や真菰が生い茂っていた。更闌け(こうたけ *夜が更けて)人静まって後などはそこらあたりの水草がくれに、おりおり水鶏の叩くのもきこえた。〜と、もの静かな声音の下に銀髯がゆらぐ。して敷島がぺろりと舐められた。その頃の先生は言海の校訂に日に夜をついで精励されていたのである。
大槻博士言海陳述の所、いうまでもなく文化史蹟として資料として子規庵とともに根岸が持つ最大な誇りに相違ない。それがいつの頃からかお化け屋敷という名によってより有名になってしまったんだから〜いやまだある。私の借りる前には阪神地方の会社を相手に二十何万円からの詐欺を働いた男が住んでいた。それがこの家から召し上げられて行った。爾来詐欺師の家とも呼ばれたそうだから、〜どうも歴史ってものも見方によっては変なものになる。
ところで、そのお化け屋敷だが、その家の中で特に怪しいというのが離れの四畳半とそこへ通う廊下〜すなわち大槻先生の水鶏の亭だ。庭に面した壁には詐欺師がしたか子分がしたかはしらないが、生新しい鉛筆で芸者の名とも覚しいものが三つ、小気味のいい悪筆でなぐりつけてあった。〜なんだそうだが、そこには移って以来、一年あまり私が常住寝起きしていた。しかも夜ふかしが常癖で床に就くのは早いときでも十二時一時、夜を徹することも珍しくはなかった。だがお化けにも鎌鼬にもとんとお目にはかからなかった。

その7)とはいえ、今にしてそういう評判をきくと思い当たることがないでもない。移った当初離れに寝た翌朝は妙に腹が痛んだ。池に近いせいで他の室よりは幾分●もするらしい。そういえばあすこの隅に積み重ねておいた座布団の下の一枚畳に触れている片側が、いつもしっとり水っ気を含んでいる。しかも畳の面(おもて)には別段に露の気もない。訝しなことだなんて女房がいう。注意するとそこの母屋の間の空地へ落ちる雨水がことごとくこっちの床下へ流れ込む。畳を上げて床を剥がすと下はまるで井戸端か流しもとのようにじめじめしていた。土台の栗丸太には白っ茶けたきのこが生え、床板の裏も表も黴でぬらぬらだった。いかさまこれじゃあ腹も痛もうってわけで、結局床下へは瓦斯がらを敷きつめ、空地はセメントで叩いて落ち水は外の下水へとさばきをつけた。それかあらぬか以来、私のお腹にはなんの異常もなくなったが、何をいうにも家が古い。そのかみの根岸の里の文化家屋の様式を辛うじて留めているとはいうものの、すでに貸家となった今日根つぎにも手入れにもできるだけ銭を悲しんである殊には先度の大地震ですっかり緩みが来たうえに毎日毎晩汽車でひっきりなしにいたぶられている。ちょっと見はともかくも住んでみると毎日のホコリ丈けにでもうんざりする。
そこへもって来て鉄道線路の拡張工事のドガチャガ騒ぎが始まった。結局根岸落ち文字の通り蒙塵(もうじん)って段どりになった次第だが、いよいよ明日は家移りとなった最後の晩にたまたま親爺が怪しい夢を見た。
夢話しは移転を終わったその日の晩餐後に出たんだそうだが、ちょうど引っ越しの前後、私は仕事の都合で鎌倉へ一人別居していたので、直接には聞いていない。女房からの伝聞だ。
・・・・・枕もとへ幻のような人影が座っている。紛れもなく男の姿ではあったが、どんな顔だかはまるっきり判らない。誰だといった。返事がない。起き上がってもう一度誰だ、といった。と、その影はすうっと立ち上がってしきいの外へ出た。そうして廊下伝いで離れの方へ歩いていく気配だ。その夜離れには私の弟が寝ていた。その名前を呼んだ。怪しい奴が行くから捕らえろと叫んだ。そうして急いで電燈をつけようとしたんだが、どういうものかスイッチのありかが判らない。電気をつけろ電気をつけろと繰り返し呼んだ。ふと足元を見ると、切りほごした風呂敷包みが一つ結び目が解けて、中から人間の手だの足だのが転がり出ていた。びっくりして思わず飛び退く。先前の影は廊下の向こうへ行ったり戻ったりうろうろしている。もう一度、弟の名を呼んで早く捉えろといった。ところへその弟がシャツ一枚でやってきた。何ですか、何ですかとキョロキョロしている。そこにいる影のような奴が見えないかといった。そんなものは居ませんよと平然として立っている。とかくしてやっと電気を捻った。・・・・と思ったら夢が覚めた。〜というのである。
その日の引っ越しの手伝いにいた女房の姉なる人(*女房の福子の姉 孝は画家 高屋肖哲(狩野芳崖の四天王の一人)に嫁ぐ)が、お父さんもとうとうご覧になったのですね、といった。姉なる人の説によるとこの家は久しい以前からお化け屋敷と噂された家で、お化けというのが親爺の処に訪れたような影なんだそうである。今まであの家に住んだ者で一人としてそれに悩まされない者はない。そうしていつも必ず廊下から現れて離れへ消えるか、離れから出て廊下へ消えるかするのだそうだ。お化けにしてはいやに規帳面である。おまけに永の一年出そびれ抜いて、いよいよ今夜限りという最後に義理ずくか意地ずくで現れたところなんかすこぶる滑稽だ。がとにかくにこういう古風な怪談をもった家が今日までも残っているところなんかはさすがに根岸らしい(完)
posted by 小川宗也 at 00:30| Comment(0) | 根岸ブックアーカイブ(NBA) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする